見出し画像

ラフォルジュルネTOKYO2023

4年ぶりに開催されたラ・フォル・ジュルネは、私にとってはたしか5回目で、そして、クラシックが好きになって干支1周分は経っているのに、ディアベリ変奏曲は第4変奏くらいまでしか聞いたことがなかった。
でもそれが妙に功を奏したのか、昨日の #レミ・ジュニエ さんの演奏は、いつ終わるとも知れない音楽が、最後の“唐突な”和音で締めくくられたものの、そこで終わらず、さらに変奏が続く可能性すら感じられた。そんなことは起こりえないけれど、緩急に富んだ演奏はそれほどに生き生きとしていて、そして、ゴルトベルク変奏曲が最後にアリアへ回帰して、たぶんはじめて聴く人でも、ここで終わりなことがわかりそうなのに対し、ディアベリ変奏曲は変容に変容を重ねていつまでも進み続ける(ような印象を覚える)こともあいまって、あたかも200年前?くらいの初演で、この曲がどこまで到達してしまうのか検討もつかずにそれでも聞いていた(かもしれない)聴衆のひとりになったようだった。

その後すぐに、#萩谷由喜子 先生の「ベートーヴェンと宮沢賢治」を聞きに行ってみると(もらったパンフレットで偶然知った)、アニメ映画版「セロ弾きのゴーシュ」を通してしか賢治とベートーヴェンの関係は知らなかったけれど、賢治が聞いた田園がどんな録音で、それをどれほど偏愛し、そして『小岩井農場』などの詩作へ反映させていったのかという宮沢賢治論でもあり、かつ、日本人がクラシックに、(SP)レコードにどう親しんでいったのかという西洋音楽受容史にもなっていて、とても面白かった。

はからずもディアベリを初演に立ち会った聴衆の気持ちで聞いたことと、レコードから聞こえる“不完全な”音からその真髄を汲み取ろうとした当時のリスナーたちの情熱とがどこか重なるようで、調べれば大抵の曲を、それも全曲を通しで聞ける環境の中で、むしろ失われてしまったのは、憧れのような、ある曲を聞きたい気持ちを抱き続けることなのかも知れなくて、簡単に触れられるようになったからこそ、出会い方が難しくなった気もする。
しかし、賢治がバンド演奏の交響曲第4番第2楽章(愉しげで、これはこれで好い)からでも、その真価を聞き取れたように、そしてもし、オーケストラ版の4番を聞く機会があったら、印象は改まるかも知れないけれど、それでも最初の出会いが間違いにはならないように、どんな出会い方をしても、それですべてが決まるわけではないのだろう。もちろん、聞く熱意は必要だろうけれど。

いいなと思ったら応援しよう!