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佐塚真啓さん「おばけ館_美術やしき」@せせらぎの里美術館 & 国立奥多摩美術館 + 玉堂美術館

御嶽駅の無人改札を出ると道は3本に分かれていて、目の前の御岳橋を渡り、そこから川縁まで回り込むように降りれば玉堂美術館に行き着く。そして目の前を横切る青梅街道を左に、青梅方面(すなわち、国立奥多摩美術館がある軍畑方面でもある)へと行けばすぐに駅前山小屋「A-ward」があって、そこは「芸術激流 ラフティング+アート」(2022.10.15)の集合場所でもあったし、前日から乗り込んでいた私はそもそも一泊していた、残る右の道を20分も歩けばせせらぎの里美術館で、その道は、A-yardのスタッフさんが、「近くにコンビニないから」と車で東京最西端のセブンイレブン(だから次のセブンイレブンはもう山梨県だ)へと連れていってくれた時に通った道でもあって、その時、せせらぎの脇も通っていたはずだが暗くて気がつかなかった。

しかし車通りが多く道幅も狭い、ということもあって佐塚さんのおすすめルートは別の、多摩川沿いを歩くコースで、30分はかかるが車の心配はない(ただし足元は注意が必要で、私みたく虫が苦手な人にはむしろ厳しい)。川沿いへは御岳橋と中華料理屋の間から降りることができて、「芸術激流」の時、みんなでそこから川へと向かったのに忘れて迷った、しかし入り口さえ見つければ後は一本道で、苔むして滑りやすそうな斜面を降りた先は草むらにぎゅっと挟まれた獣道を行く、途中には「芸術激流」のスタート地点があり、キンマキさんが正方形の垂れ幕状の、巨大なポストイットのような作品をなびかせていた「杣の小橋」という細い橋も向こうに見えるし、村田峰紀さんがスコップで水流を掘っていた場所もあのあたりだったかと見当がつく、そしてスーツ姿の佐塚館長が手を振っていたと思しき岩場も左手にあるがすべて通りすぎていく。

ひたすら多摩川を遡行しているとちらほら釣り人が見えはじめて、「奥多摩フィッシングセンター」に近づいていることがわかる、ここまで来れば美術館はだいぶ近く、釣り場の横を通りすぎ、ようやく現れた人家を左折し道なりに進めば駐車場の向こうから瓦を葺いた民家風の建物が見えて、さらに少し進むと左手には

佐塚真啓個展
おばけ館_美術やしき
・第1会場:せせらぎの里美術館(ここ→)
・第2会場:国立奥多摩美術館(車で10分)

とぎゅうぎゅうに手書きされた、横書きの看板がある。国立奥多摩美術館のInstagramに投稿された動画を見ると、キャンバスなら100号以上はあるだろう白い画面に向かって文字をしたためる佐塚さんの所作は書くというより描くに近い、そして、初日の8月8日には白く綺麗だった看板も、9月に入り、再び、三度と訪れる内に合わせ目や、文字の周りがうっすら黒ずんだり滲んだりしていって、お化け屋敷めいたおどろおどろしさが少しずつ強まっていく。

看板を眺めていると「ガンッ!」、と館内から大きな音がして、前日に読んだ『佐塚真啓個展「おばけ館_美術やしき」通信_59』(https://note.com/satsuka_masahiro/n/nd3dec0eb0d4f)、その中の

「心臓が弱い方は身構えてご入場ください!」

というアナウンス案が思い出される。ハッと右に振り向いたそのままに美術館を見ると、庇が深いからか漆喰の白い壁は薄暗い、その中でも、左の壁に掛かる、灯火のように黄色がかったライトが壁を染めていて、その下の木の、栗皮色をした格子窓が受付らしい。ここ、せせらぎの里美術館と第2会場の国立奥多摩美術館、それと「おすすめ」である玉堂美術館の3館セット券を買えば、前日に80枚ほど刷ったという「オクタマウス」(原画は永畑智大さんによるもの)のサコッシュが貰えて、手渡してもらうと同時に、「中は大変暗くなっているので、お気をつけください」と、さすがに「心臓が弱い方は身構えてご入場ください!」ではないもののそれでもアナウンスされる、正面の敷居を跨ぎ、上2/3ほどが格子になった引戸を開けると館内はたしかに暗くひんやりとして、正面、足元の、溶けるようだった丸太が外光で輪郭を得ている。

ライトも向けられていないその丸太の細部は見通せない、それでもどこか“見覚え”を感じつつ、L字になった館内、突き当たりの入り口が位置する短辺から長辺へと向き直るや否や、天井が落ちて傾いでいるのが垣間見えて、2、3歩進み、改めて通路の奥へ向き直ると巨大な、長さ5メートル強、幅2メートル弱くらいと思しき板が伸びているのが見てとれる、美術館の梁からオレンジとライトグリーンの荷締めベルトで吊るされているようだ。
そして、ここまでもずっと、微かに感じていた冷風はたしかに強くなっていて、落ちた“天井”の左手、造りつけられた腰高の台に視線を向けると、黒く丸いシルエットを翳りに潜めたサーキュレーターが5台、首をてんでバラバラに動かしていて、爛々と並んだ青い5つの電源ランプが目のようだ。

“天井”は、手前から奥に、そして左から右に向かって傾いで低くなっている(つまり右奥の角がもっとも低い)、左からの風を感じつつしゃがんで仰ぎ見ると、横3列の格子状になった“天井”、その左端のマスにはひとつ、靴跡が付いていて、「ガンッ!!!」という何か衝突音が下の方からまた響く。
半ば立ち上がり、腰を1歩ごとに屈めながら進み、段差を降りれば囲炉裏がある(2度目に来た時からは傍らにスツールが置いてあった)、この囲炉裏は元々美術館にあるものらしく、四角く切られた石造りのそこには鉄瓶が吊られていて、屈めた腰を伸ばせば、同じく吊られた“天井”の上には、佐塚さんが奥多摩美術研究所の製品として作っている《タンソ》シリーズの、角材と合板の軽やかさを活かした「簡単・簡素」(手伝った酒井貴史さん曰く簡単ではないそうだけれど)なテーブルとスツールが載っていて、側には丸太まで転がっているそこは、“天井”でもあり“床”でもある。通りすぎたが、しゃがんだまま右折すれば(振り返った今では左手に)お手洗いがあって、そこの鴨居も妙に低く、“天井”同様、くぐるように通らないと頭をぶつける。そしてお手洗いに向かって左右の壁、その左側には脚立が2台立て掛けられ、右の壁には

佐塚真啓個展
「おばけ館 美術やしき」

と、縦に印字された、表の手書き看板よりもよほどフォーマルなものが、しかし隠されるように立ててあって、途中で振り返るか、帰り道じゃないと見つけられないが、囲炉裏のあたりからならよく見える。

囲炉裏を右手に数歩進めばまた曲がり角だが、“天井”がまだ落ちかかっているので途中までは中腰で、その時通りすぎた左手の柱、内1本は石に載っている(石場建て、と言うのだろうか)。“天井”が終わり、まっすぐ立つと真正面の手すりからは階下が覗き込める、床には一面、合板が敷き詰められ、真ん中で空間を二分するように大きな仮設壁が立っていて、その向かって右側は暗い、その中に白い、あたかもシーツを被った子どもかオバケのようなものが立っていて、明るい左側にも“二人”立っている。

角を左に曲がり、階下の光景を右手に、先の送風機と同じく棚に載った、暗くて石とも木とも判別がつかない小さな何かを左手に進むとすぐに階段だが、3段下ったその先は急なスロープに(ガンッ!!!!)なっていて、その辺りは音源に近いのかだいぶ音が大きい、階段の3段目からなめらかに続く下り坂は、もちろん危険なほどではないがそれでも急で、ものによってまちまちだろうけど、滑り台くらいはありそうだ(合板だから滑らないけれど)。
しかしその坂を降りきることはできない、というのも目の前の、外壁同様、漆喰の腰壁と、その上の栗の皮のような渋い茶色の壁まで坂はぴったり収まっていて、ある程度のところまで下ったら、坂の横から飛び降りる…というのは大袈裟だが、それでも、低い段差を下りるぐらいの心持ちは必要で、普段は地面と地面をなめらかにつなぐスロープが、かえって断絶を生んでいる。

下りる際は、足元に注意がいっているが下りてしまえば注意は移る、左肩に迫る壁からは、赤茶色をした多角形の突起物が5つ、歪な“W”状に飛び出ていて、壁から1歩、距離を取って眺めると座面を壁に向けて掛けられた《タンソ》スツールだとわかり、パラボラ状に開いた六角形が朝顔みたいだ。2回目以降、壁の《タンソ》スツールは“W”の左下にあたる1個を欠いた4個になっていて、その1個が囲炉裏の方へ移動したのかも知れない。

そして、改めてスロープを横から見ると体感以上になだらかで、なお滑り台に例えるとしても、角度も距離もせいぜい幼児用だ、しかし坂を下りる時には少し勢いが必要だった、その感じも、裏側を見てしまえばむしろちゃちなお化け屋敷に通ずる。

スロープは、最近はあると気になって思わず見てしまう、というのも奥多摩美術研究所の仕事といえばスロープ、という印象があるからで、それは、今年の2月に開催された「EASTEAST_Tokyo」 (2023.2.17-19,科学技術館)というアートフェア、一部設営を担当されたというその現地にて、スロープを目の前にしつつ佐塚さんと話したからだ。スロープは、見れば当然そのものだと分かるし上り下りすれば感触としても床とは違う、しかし、軋みもせず、なめらかに床と床を繋げば繋ぐほど意識にはのぼらない(逆に言えば、せせらぎに設置されていたスロープは主張が激しい)、だから私も、佐塚さんたちが設営だから、このスロープもきっと…という意識がなければそこまで見なかった、そして教えてもらって一層よく見た。
科学技術館の1階は正面エントランスが低くなっている造りで、隣の展示室に行くには、チャコールグレーのリノリウム?の床から低い階段を1、2、3、4段上って行かないといけない、その4段目の、隣の展示室の床とぴったり合うように木製のスロープが設置されていて、角材の脚が階段を下るごとに少しずつ伸びていく。脚は、下り終えて床へたどり着いた直後に一番長くなるが今度はスロープの傾きに合わせて短くなっていき、強度のためか2本ずつ組になった脚、それが11組、均等に並んで板を軟着陸させている、その構造はせせらぎのスロープとほぼ同じだ。

せせらぎのスロープに使われている角材は、「EASTEAST_Tokyo」のスロープよりも太めに見える、だからか脚も2本1組ではなく1本ずつで、美術館自体の柱で見えない部分もあるが大体10本は取り付けられている、そして「EASTEAST_Tokyo」のスロープでは、脚と脚とが短い角材で接合されていたけれど、こちらでは長い1本の角材が、脚同士を繋げつつ床に沿って階段の1段目ぎりぎりまで延びている。板の幅も階段の幅とぴったりになっている。

さらに、展示開始までのほぼ毎日、noteInstagramで更新されていた『佐塚真啓個展「おばけ館_美術やしき」通信』を読むと、スロープや各種仕掛けを、最終的に現地で作業し完成させていく一端が見てとれて、言われてみれば当たり前だけれどそれでもその生々しさに驚く、というのも完成したものからその制作過程を薄ぼんやりと想像することはできるけれど、その想像にはあまり人の顔や場所の雰囲気は反映されていなくて、頭の中の仮想空間で組んではばらすその真似事をするに過ぎない。
だから、佐塚さんと、『通信』曰く下山健太郎さん、永畑智大さん、和田昌宏さん、酒井貴史さん、倉持太一さんが集まってこの館内で作業していたと考えると途端に想像が具体的になっていくし、展示が始まれば当然この場にご本人たちはいないけれど(佐塚さんも主に奥多摩美術館で在廊されていた)、それでも、というよりだからこそ、設えられた物の数々から気配が感じられる(とりわけ、“天井/床”に置かれた資材、丸太、《タンソ》…は作業中の一コマみたいだ)、この“気配”ということは、佐塚さんの絵を見る上でも関係してくる。

絵は、スツールの生えた壁を背にすればその正面に佇んでいて、全面合板張りの床の上に立つ、白いクロス(これも『通信』より。読み返すと、仕掛けや素材のことが大胆に記述されていて驚く)を貼り付けられた仮設壁に掛けられている、先ほど階上から見た、空間を二分するように配された仮設壁はこれだったらしい。絵を見ながら階段を1段、2段と下り、そこから1歩踏み出すと視界が傾ぐ…のは本当に地面が揺らいだからで、『通信』に書いてあった「とりあえずバネ50個」が、数こそわからないけれど仕込まれていることが伝わってくる。振り返ると、段差2段目にも板が敷かれていて、踏切台のように跳ねる床とほぼ同じ高さになっているのは、階段の縁とスロープの縁がぴたりと合わさっていることと繋がる。絵の前には4脚の《タンソ》スツールが散りばめられ、白いシーツを被った擬宝珠のような“オバケ”もふたり、脇侍のように控えている、丸太も2本あって、1本は仮設壁左奥の暗がりに横たわり、葉を全て落とした巨大な盆栽みたいなもう1本は絵の向かって右、合板の“舞台”から下りたところに立っている。

1歩進む、いや重心を移動するだけで波うつ床から目を離せばようやく絵が見れて(受付の横にも佐塚さんのペンドローイングが5点ほど立て掛けられていて、それらは白丸カフェ、その名の通り御嶽よりずっと奥多摩寄りの白丸にあるカフェで一度見た作品群だったけれど、あくまで本作を際立たせるためか、折り重なっていた。しかし後日行くと配置が変わっていたし、絵本や冊子、バッグなどのグッズも増えていて、そうした会期中の変化も気配を、佐塚さんをはじめとする展示を支える複数の人の目配りを感じさせる)、画面中央あたりに3本伸びた長いストロークが、上がりきって散る前の花火の軌跡に見える。

それら“花火”の内、向かって右の1本がもっとも目を惹くのはそのレモンイエローの鮮やかさもあるけれど、近づいてみるとすぐにひときわ盛り上がっていることに気づく、太さも、厚みもほぼ一様にまっすぐ上へと伸びた線描の先端は少し膨らんでいて、絵の具のチューブで直接、それも息の長い集中力をもって引かれたことが窺える。
そのレモンイエローの帯の下からは酸化した血液のような赤が覗いていて、レモンイエローと併走するように、というよりレモンイエローが褐色のコース上を走っていたことが分かる。
褐色のコースを走るレモンイエローを上から下へなぞると、半分より下寄りのあたりにカスタードクリームほどの、レモンイエローよりは少しやさしい黄色が横切っているが、その流れは半ば断たれていて、まだ乾かない内に、褐色のストロークがその上を渡ったらしい、薄黄色の断面を見ると、下の方へ細く絵の具が続いていて、褐色の“コース”は上から下に引かれたようだ。
クリームイエローのラインが断たれたすぐ下あたりで、褐色の“コース”は斜め上からやってくる緑がかった青と合流するが、その青の上をそのまま降りていく褐色の“コース”は、青緑のすばやいストロークが十分に固まってから引かれたらしい、青緑の“川”を左上へ遡行するとクリームイエローの線はまたも襲われていて、巻き込まれた黄色が流れに沿って右下へと長く延びており、ここだけでも、

(1) カスタードイエローが、おそらく右上から左下へ、チューブそのままで引かれる(左下の先端はかなり細い、いきなりチューブから出したらもう少し太い気がするけれど、もしかしたら左下から、太い右上へのストロークかもしれない)

(2) 青緑の“川”が、まだ全然乾いていない(1)の上を左上から右下へと通り、(1)を断ちきる

(3) (2)が乾ききり、(1)が多少乾いた(2のストロークの方が速いから薄く、チューブそのままの1より乾くのが早いのだろう)あたりで、褐色の“滑走路”が上から下ろされる、そのストロークが(1)をまた断ちきる

(4) (3)が乾ききったところで、レモンイエローがチューブそのまま(おそらく)下から上へ緊張感をもって引かれる

…という絵の具の重なりが生まれていて、それはすなわち時間の重なりでもある。

そうやって眺めている内にも「ガンッ!!!!!」という衝突音が断続的に聞こえてくるけれど、聞こえるだけでなく実際に激しく揺れるのは、体重移動でさえかすかに揺らめくその不安定な床に何か重いものがぶち落とされているからで、落としているのは白い“オバケ”だ。
“オバケ”は、階段上から覗いた時にも明るい側に2体、裏の暗がりには1体の計3体いて、近くに行っても頭からすっぽりかぶったシーツで中身はわからない、しかし耳を澄まさずとも「カチッカチッ…」という音が聞こえたり、「ガンッ!!!!!」には到底及ばないにしろ、小刻みに床を揺らしたりすることがあって、その内部で何かの機構が適時、作動しているのが伝わってくるけれど、小刻みに床を揺らすのはたしか絵に向かって右側の“オバケ”だ。
内部の機構が重たい石?を床に落とす…というカラクリ自体は3体の“オバケ”共通で、計ってみるとそれぞれ7~8分に一度驚かすよう設定されているらしい、だから連続で床が揺らされることもあるし、3体とも休憩していてゆっくり見られる時間もある(揺れを知っている者にとっては、かえってその方が今か今かという気持ちでこわくなるけれどまだ知らない、あるいは体験せずに帰った人にその葛藤はない)、しかし一方で個性もあって、「カチッカチッ…」と細かな音で人を驚かすのは向かって左側の“オバケ”で、中の石?が一番軽いのか衝撃も比較的弱い、そして音も高めでキレがいい。「カチッカチッ…」と鳴くのは石が落ちた後、少し経ってだから、落ちた石をまた上へと引き上げているのかもしれない。
向かって右の“オバケ”は前述の通り床を小刻みに揺らす(《タンソ》スツールに掛けているとダイレクトに背骨へ伝わってくる)、これも石が床に落ちて暫く経ってからで、同じく引き上げる機構によるものらしいが、「グンッグンッ」と一上げするごとに揺れるのは石がひときわ重いからのようだ、実際、落ちた時の衝撃はすごい、工事現場で発せられたら確実に何かがたおれた、落ちた、壊れた…という事故を伝える音で、来て早々これが落ちたお客さんは「ワッ!」と叫んだ、その声よりもなお音は大きい。
揺れも激しく小舟のように身体が揺れる、当然仮設壁も、そこにかかる絵も揺れて、チョウチンアンコウのように作品を照す、仮設壁から3本伸びたL字の鉄筋の先の蛍光灯も揺れて、よく地震速報の時、テレビ局の吊り蛍光灯が揺れているけれどその時のように光が踊る、絵を見ていても注意がぶれる、だから筆致をなぞる視線も途切れる(そして《タンソ》スツールに置いていたバッグも落ちる)。訪れる度にスツールの位置が違っているのも、この揺れのせいだろう。薄暗がりに転がされた丸太も、本体こそ転がらないものの、その周りには振動のためか、細かい土?のようなものが落ちている。
そして「グワングワン」と音がするのは“オバケ”の中で石が跳ねているからのようで、震度5を超える地震が来た時、毎回、住んでいるマンションのどこかとどこかが衝突?するのか、決まって聞こえてくる音と似ているけれど、エネルギーの違いか、他2台の“オバケ”ではそうならない。

3人目の“オバケ”は暗がりの中、絵の裏側に潜んでいるが、9月10日、1ヶ月ぶり2回目に来た時にだけ石を落としてから1分ほどでもう一度落とした、初日のことは覚えていない、3回目、9月22日に見納めに行った時には直って?いたそれは勘違いかもしれないけれど、仮に、佐塚さんの個展を見に行ったふたりが話しても体験としては違う、ある人は床の揺れを感じる間もなく出てしまったかもしれないし、揺れたとしても、独立した3体の“オバケ”が織り成す揺れの周期は都度違う。

“オバケ”の中が石かどうか、シーツをめくってみるわけにもいかないからわからないが、石だとすれば佐塚さんの作品にはこれまでも石が登場していて、《チュウケイセキ》という、宇宙空間に浮かぶ巨星のような石のドローイング(あたかも、沐浴した赤ちゃんをふんわりとしたタオルで受け止めるように、もくもくとした“雲”が石を包んでいる)もあれば、タイトル通り、水面に石を落としてみる参加型の作品《石を落とす》もあった。
それは3年前くらいまえの「アーツさいたま きたまちフェスタ vol.6」(2020.3.19-24)で、佐塚さんとスタッフの方は会場であるステラタウンの大階段で座っていた、人見知りの私はその時話しかけられなくて、ちょうど他のお客さんもいなかったから石の落ちるところは見なかった。
しかしもし落としていれば石は張られた水面に自重で落ちていき、ステラタウンの地面に落ちて水跡を残したはずで、夏ではないがそれでもすぐに消えただろう。“オバケ”の音も、その瞬間は激烈だけどすぐに消えて、揺れだけが暫く残るがそれでも当然、蒸発よりもよほど早い。…とこの部分を書いた後で記録映像(https://www.youtube.com/watch?v=NLsAor4ut2s)が見つかって、ブルーシートで内外を覆われた槽、その真上に吊り上げられた一抱えほどの石が、支えのロープを刈込鋏で切断された途端にまっすぐ落ちていった、水しぶきは想像以上に重々しく(むしろ湧水のようだ)、周囲の地面はたっぷり濡れて黒ずんでいた。

水に塗れて変わった地面の色や、石が板に衝突した音は消えていくけれど、おそらく石が衝突し続けた板の表面にその痕跡が残っているように、目の前の絵には佐塚さんのいた気配が残されていて(ガンッ!!!!!)、それは手の跡でもあるし目の跡でもある。
というのも、褐色の“コース”上を走るレモンイエローの線だけでなく、すでに引かれた線の上に、点々と筆跡を落として追っていくような動きがあちこちに見られるからで、たとえば画面左側を横切る青い線の上には河原の石のように白い点描が「とん、とん、とん」と等間隔に配されて、左から右へ、画面周縁から中央へ目をスライドさせると9個目くらいから虚空へ飛び込むように青いラインから飛び出していくが、よく見ると縦横に走る赤緑黄色ピンクとそのあらゆる中間色の間から深い青が覗いているようで、白い“石”が点々と置かれていたからその奥の筆致に気がつけた、その流れは画面中央、上寄りをおおらかに進む“大河”へと連なって、先述の、クリームイエローの線を断つ青緑の“川”もこの“大河”から枝分かれしている。
画面左端へ目を戻すと、先ほどの青い線の少し下にもう1本青い線が引いてあって、その上にも白い“石”が置いてあるが、波うつ海色のストロークとぶつかったあたりですぐに消えた、しかし流れ自体は続いていて、やはり“大河”と合流している、というよりむしろ本流だった。

左上の、燃えるような赤さがむき出しの端から少し右を向くと青緑の丸があって、その上には一回り小さい黄色の点が、さらに青緑のぐるりと囲むように緑がかった白(白みがかった緑?)の点々があって、瞬いている星を指差すような筆致だ。こうした点々はまさに佐塚さんがすでに引いた線を見たそのまなざしの軌跡であって、点々はひとつひとつというより、放物線を描くボールを連写したようなものかもしれない、そしてそれは多摩川沿いを、あるいは青梅街道沿いを歩いてきた鑑賞者の歩みとも重なるし、1年前の「芸術激流」とも繋がる。

「芸術激流」は、ラフティングしながら川縁に点在する作品を順々に見ていくというもので、ボートを漕ぐ、と言えばずいぶんと能動的だが、訳もわからず指示通り漕ぐのだから体感としては流されている、作品はいわばそんな渦中、目でつかむ手がかりのようなもので、まだ遠くにある時から食い入るように見る、一緒に漕いでいる人たちも見ている、“揺れる床”が川でもありボートでもあるとするならば、佐塚さんの絵は川縁で、危険を省みず観客の訪れを待つ作品でもあり(「芸術激流」でも、赤池奈津希さんの油彩作品が、岩場で、水のしぶきがかかりそうなほど近くで待機してくれていて、そのこと自体が嬉しかった)、目が泳ぐ川でもある、その中で佐塚さんの目も、あたかも「芸術激流」のフライヤーもろとも、身一つで流されたように漂っていたはずで、そうして泳ぎながらも佐塚さんが残した白い“石”は、一番最初に山を制覇した人が、後の人のために残したロープのようなもので、観客にとってのよすがだ。

観客が、この絵をどう見ようか迷う以上に作家さんは迷っているはずで、残された筆跡はいわばそうして遊歩した佐塚さんの道のりだ、しかしその道のりはまんべんなくキャンバス上を行き来しているわけではなく、当然ながらムラ、というより疎密があって、しゃがんで見ると下部、中央やや右寄りに2本の黄色の線が、これまたチューブそのままで出されたような丸みをもって、弧の方を下にして同時に地平線へ落ちるふたつの細長い月のように並んでいるが、そのすぐ左手には素早い青緑紫、そして赤が巡っているが囲まれたちいさな一角だけ白い、正確に言えば抹茶のような暗い緑がついているがそれはキャンバスの目地の凸部分の先がほんのり染まっているだけで、その歪んだ台形の一角には、ストロークが直撃しなかった、他にも2、3ヵ所そういう部分があって、空き地のようなものかもしれない。

鑑賞者の視点も、佐塚さんの絵に限らず、絵の全面をまんべんなく通るわけではなくて、全体の印象としては1秒もかからず“見てとれる”が、(なるべく)全てのストローク、マチエール、余白…といった絵画空間全体を感じようとすると途方もないし、そもそもどの展示も、行く日が、時間が違えばたとえ同じ作品でも体験としては異なるだろう。それは、本でも音楽でも映画でも言えるけれど、多くのものが“均質性”を、来た人になるべく等価な体験を提供しようとそのバラつきを狭めるように働きかける中、佐塚さんの展示はあえてそのバラつきをよしと、佐塚さん流の言い方をすれば「まいっか」と認めているような気がする。

「まいっか」、という言葉には何か妥協のような響きを思わず感じてしまうけれど、佐塚さんの発する軽やかなそれにはむしろ「諦める」、それも元々の意味である「明らかにする」に近いものを感じて、絵を終える、完成とすることもその「まいっか」の感覚に基づいているらしいことを、この後、せせらぎから連れていってもらった奥多摩美術館で聞いた。
会期3日前の奥多摩は設営中で、というより一部の作品はまだ完成していなかった、しかし「まいっか」という地点に到達していなかったわけではなく、ある「まいっか」に到達したらその後でまた次の「まいっか」を目指すらしい、せせらぎの作品(会期開始後、奥多摩に置かれた作品リストで《み》だとわかった)は、3、4回?それを繰り返したらしい。

奥多摩の作業場に立て掛けられた、未額装のキャンバスは赤と緑で組作品…ではないようだがくっついて並んでいて、会期開始後、〈研究室〉内に移された後もそうだった、向かって左が緑で右が赤、タイトルも《緑》《赤》だ。
このふたつの作品も、《み》同様にいわゆる抽象画だが印象は当然違って、大ぶりなストロークが目だって荒々しい、というのは「まいっか」の重ね方によるのかも知れなくて、数回重ねた《み》に対し、《緑》と《赤》は一度で、うろ覚えだが数時間足らずで描いたらしい。
共にF100号、1620×1303mmの平面上には右から左、左から右へと大きく腕全体を使って引いたであろう長い(横辺1303mmのおおよそ2/3)線が幾本も刻まれていて、というのはヘラ(スキージ、という言葉はゲルハルト・リヒター展で知った)のような硬質な板で表面をこそいだと思われる線だからで、おそらく太い方から細い線へと流れている。
私にはそこまで見てとれないが、右利きである佐塚さんならおそらく左から右、払うような動作の方が力が入りやすいはずで(私は左利きなので、引かれた線をいつも左利きの気持ちで見てしまう、そして大抵右利きであることに気がついて毎回イメージし直す)、ヴァイオリンの弓遣いにおいて、弓先から弓元へ滑らせるアップと、弓元から弓先へと流れるダウンで力の入り具合が違うから音の感じも変わるように、筆先の動く方向によって描かれる線も当然変わるはずだ。

まして《赤》の方には、画面全体を大きく囲うように引かれた線があって、引かれた方向こそ分からないがスピードはやはり遅めで、ゆっくりと緊張を途切れさせずに引いただろうことが見てとれるが、「囲う」「枠」ということは佐塚さんの今回の油彩作品では繰り返し試みられているおそらくテーマのひとつだ。

《み》に戻れば、F130号の画面を内側から撫でるように太い青みがかった緑で縁取られていて、その色といい太さといい、ジョルジュ・ルオーの連作油彩画《受難》に見られる描かれた“枠”を思い出す、私はそれらを出光美術館や、パナソニック汐留美術館がパナソニック汐留ミュージアムだった頃に見ていた、そして《受難》シリーズは巌のごとき他のルオー作品(後期の、と言っていいのだろうか)に比べればマチエールがずっとおだやかで、さざなみが湧きたっているような質感の《み》はここでも近しい。

ルオーの《受難》には版画バージョンと油彩バージョンがあって、前者の方はアンドレ・シュアレスの『受難』という長編詩のための挿絵だった、後者はその挿絵、すなわちページの各部に様々なサイズであしらわれていた原画そのままを紙に油彩で描きなおし、キャンバス中央に貼りこむかたちで制作されたらしく、原画のサイズによってキャンバスの白地がまちまちになる。そうしたばらつきを嫌がったのか、ルオーは周りの余白を青みがかった灰色で統一的に塗りこめて、こうして独特の“縁取り”が生まれたらしいことは《受難》を所蔵している出光美術館のWEBページ(https://idemitsu-museum.or.jp/collection/artist/rouault/02.php)と八波浩一氏の 「ルオーの連作油彩画《受難》とシュアレス著 『受難 (パッション)』―ルオーにおける原画・版画・油彩の関係に関する一考察」(2009, https://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/09.idemitsu-No14_2009.pdf)によって知った。

ルオーは余白を埋めるために、つまり図像の部分とは重ならないかたちで灰青色を置いたが佐塚さんは違って、キャンバス全面に駆け巡る筆致の一部を覆い隠すように“縁取り”をしていて、当然、制作のかなり終盤ではあるがそれでも最後ではなく、例えば左辺の“縁”には黒いストロークが2本はみ出していて、“縁”が形成されてもなお“内部”に手を加えていたことがわかるし、黒の線と青緑の“縁”が混ざりあっていないことから、“縁取り”と“加筆”の(おそらく)最後に描かれたのが画面右下のサインと「み」で、チューブから出された鮮やかな朱色が封蝋のように“縁取り”とその内側を結んでいる、佐塚さんのサインは「g」を3つ横に連ねたように見えるが「佐」の字を一筆書きしたものだそうで、小学生の時に発明したらしい、そうして手に馴染んだすばやい弧の動きはところどころで見られる。例えば、枠にはみ出た2本の黒線がある画面左、そのすぐ右脇には同じサインが茶色がかった青で描かれていて、下の色に溶け込んで見えづらいがそれでも蛍光灯の眩さで筆跡が光っている、その“ggg”の囲われた部分ひとつひとつには原色の青で点がひとつずつ付されていて、サインの中に点を打ったのか、点を打ってからそれらを避けるようにサインを描いたのか定かではない、しかし左上、「亻」の1画目を駆け上がるごとく逆に描いてくるっと巻いて、そのまま2角目の直線へと下りていく…際に生まれた円に青点が微かにかかっているようなので、点の方が後かもしれない。

描いたサインの中や、引いた線の上に点を置いていくことは前述のように佐塚さんの目の動きのようで、あたかも指揮者が、指揮者である以前に楽譜の研究者であり、何よりその楽曲の極めて熱心な鑑賞者であるように、佐塚さんは作者でもあり鑑賞者でもあって、《み》にはそうした“み”る所作が含まれている、対して《赤》や《緑》には、こういった視線を反映したような点々はほぼみられなくて、そこにはやはり「まいっか」がいかに繰り返されたかが関わってくるのだろう。
しかし、別に「まいっか」が一度だけの《赤》と《緑》が、数度繰り返された《み》に劣るわけではないことは、せせらぎの展示室において、たまたまタイミングの関係で揺れを体験しなかった人が、揺れに遭遇した人と比べて経験的に劣っているわけではないし、いくら長居して絵をじっくり見ようと、さっと見た人と比べて優っているわけでもない、むしろその短時間に経験として凝縮されていて、印象としては後者の方が鮮烈かもしれない、ということとも通ずる。だがそれは、どういう見方、経験をしようと大差ない、という意味ではなく、もちろんそこには集中力、というよりパッと飛び込んできた印象や想念を捕まえるだけの構えは必要で、たとえば宮沢賢治は、大のクラシック好きでベートーヴェンの交響曲を全曲レコードで揃えていたが、当然音質は悪いし今ではありえないブラスバンド編成で聞いていて(交響曲第4番第2楽章といった当時の音源は、谷由萩喜子氏の『宮澤賢治の聴いたクラシック』の付録CDで聞くことができて、私はそれをラ・フォル・ジュルネ、4年ぶりに東京で開催されたフランス発の音楽祭で、たまたま谷由先生の講演を聞いた、音源もその場で流された)、およそ理想的な鑑賞条件とは言えない中でも曲の真価を汲み取っていた(らしい)、そこにはやはり、耳から飛び込んでくる音の粒を受け止めるだけの熱意や構えがあったはずで、それは見ることにもあてはまる。

「ガンッ!!!!!」という音が突き刺さるとともに床は揺れて、絵を見ていても、意識としてはその前後で断絶が起こる、しかし揺れの直前にスマホを構え(バネ?か何かの微かな音が予兆として聞こえる)、振動の最中に写真を撮ってみるとその“断絶”の渦中が記録されて、瞬く間に減衰していく揺れ、その最大震度の一瞬に身体は前後左右に激しく揺れるが同じく床に自立している仮設壁を揺れて、当然絵も揺れる、蛍光灯も揺れるその中で、キャンバス上の筆致も乱舞していて、佐塚さんが勢いよく描いたその勢いが束の間再現されたようだった。その一瞬を、意識としては見ていないけれど意識下では感じているのだろうし、地面の揺れは一見鑑賞の邪魔なようで、むしろ作品を覚醒させる装置なのかもしれない。そしてそれは、あたかも両手で持ったドローイングを矯めつ眇めつするように、一見白いフライヤーを傾けてみると表面にステートメントが現れることや、その文章を読み進めるにはこまめに角度を変えて文字を光らせないといけないことなんかとも通じて、揺れる床では激しく一瞬で過ぎ去ってしまう前後左右の動きを、自らの手でゆっくりと紙上に再現するような心地だ(このフライヤーをデザインしたのは牧寿次郎さんで、「芸術激流」のフライヤーも牧さんによるものだった)。

また、キャンバスはパレットでもあって、揺れの瞬間、混色されるが当然その色は2度と出ないし、その瞬間を、じっくり見ようとしてもできない。最近、展示を巡って新木場を歩いていたら、歩道の両側から低い街路樹がかぶさり奥へと徐々に収束していく一本道の先の先に黄色く長い線が斜めに走っていたが電線の黄色いカバーだった(支線カバー、というらしい)、この時点で2週間近くこの文章を書いていたのでその光景はすぐに佐塚さんの絵と結びついて、「佐塚さんの絵だ!」と思ったが1秒足らずでカバーだと分かった、しかし、というより一瞬だったからこそそのイメージは鮮烈で、佐塚さんの絵はもちろん、抽象画というのは、輪郭がぼやけて混じり合うほど遠くにある光景を、ぐっと近くに引き寄せてキャンバス上に定着させたものではとも思ったがそれも思いつきに過ぎない。だが、少なくとも私ひとりの物の見え方は少しだが変わって、せせらぎに設けられたこの揺れる床も、こうした見え方は生まれやすくする試みのひとつだと思う、覚醒させるのは作品だけでない、というよりも本当に覚醒させたいのは鑑賞者の方なのだろう。

揺れる仕掛けは鑑賞者を驚かす(音だけで、やっぱりこわいと引き返してしまった方もいるほどだ)が、それ以上に作品にとって過酷で、垂直な仮設壁を裏から支える3本の脚、よくよくビス留めされたそれらも度重なる振動で緩んだらしく、インタビュー?か何かの用でせせらぎに来ていた佐塚さんは妙に傾いでいる壁(と作品)を訝しんだ刹那あわてて仕掛けの電源を切った、らしいがそれほど危険だった、装置の方も日々の調整が欠かせなかったようで、制作者の倉持さんは会期中に10回以上はせせらぎに向かった、後日、奥多摩を訪れた際、佐塚さんは開口一番「ちゃんと動いてましたか」と問うて、それほど心を配っていた。

作品が、危険を冒して“前線”にやってくることはもちろん昨年の「芸術激流」を思い起こさせるが、佐塚さんの展示後半と重なるように開催された「ARTBAY TOKYO 2023」でも、会期中3、4度は雨に見舞われたが、奥多摩美術研究所(のコレクション)として展示された佐塚さんたちの平面作品は野外展示されていて、カラフルな多角形のフレーム、例えば佐塚さんの作品は、上面と底面が正方形で、横4面が長方形の高さ3m弱、幅と奥行き約2mの直方体のフレームに取りつけられていたが、その上下各4辺は深緑で、縦4辺は青緑、横4面の各直角と小さな二等辺三角形を描くように取りつけられた計16本のフレームは黄色、出入り口となる正面以外の三面に、“〼”の要領で対角線に取りつけられたフレームはピンクだったが、そこに屋根も壁もなくむき出しだった。

作品にとって紫外線や水分は大敵なはずで、あまり無理はしてほしくないが逆に言えばこの時期にしか無理できない、私はこれを勝手に“作品の青春”と呼んでいて、保存・保管だけを考えれば温度湿度を管理した室内で、展示もしない方がよいだろうがそれは果たして作品にとって幸せなのか。もちろん、ブロンズ彫刻でもないのにずっと野外に展示しているのはやり過ぎで、いわば管理と放任の間でバランスを取る必要が当たり前にあるけれど、ある“若い”時期の作品が表に出るのは作品にとってもよい経験な気がするし、鑑賞者にとっても、油彩やドローイング、写真作品を日の光で見るのは稀な経験で、何より美しく感じる。
その美しさは眩さのためというより揺らぎのおかげで、「ARTBAY TOKYO」でも、日もまだ天高い昼間から、とっぷり暮れた夜の入りまで日差しの調子は絶えず移ろうけれど、特に夕方から日没は駆け足で、その日(9月16日)の日の入りである17時45分を挟み、16時3分→17時35分→17時59分→18時12分と佐塚さんの作品を観測してみると、淡い水色だった空が桃色から青紫へ、そして濃紺へと変わるに合わせて作品も徐々に暗く眠りについていく、一転、18時を過ぎると黄色いライトが広場の方々で灯っていって、足元から照らされた作品の表面には影が落ち、"理想的な鑑賞”とは言えないけれどここでしか出会えない表情だ。
この《九百角C》という、一面赤い画面の中央、やや左寄りにあたかも人差し指から小指までの四指のごとく並んだ青と、その周りに渦巻くような翡翠色のストローク(そして、点々と置かれた黄土色)が印象的な作品ははじめて見るわけではなく、佐塚さんの個展第2会場である国立奥多摩美術館の〈研究室〉で拝見していた、すでにこの時、展示としては2回行っていて、会期前にお邪魔した時に完成前のものを見かけたのを含めれば3回見ていたがそれでも結構後まで同じ作品だと気がつかなかった、それは私の迂闊さももちろんあるけれど、鑑賞する空間として全くかけ離れていたからかもしれない。
そこには、「ART BAY」では自然光で、〈研究室〉では蛍光灯で見ていたという違いもあるが、それだけでなく拠って立つ足元の条件も違って、前者では(舗装された)地面だったが後者では合板(ラーチ、という言葉は佐塚さんから教わって、木らしい木目が残っていて好きらしい)で作られた小屋の中で、その小屋は高床式倉庫みたいに地面から数十センチは離れており、スロープ…ではなく分厚くて、片方の長辺がゆるやかに波打ったとして木の板が渡されていてそこから入室する。

〈研究室〉は、せせらぎみたいに揺れこそしないものの(むしろ揺れないのが不思議なくらいだ)、それでも地面から浮いている、そして佐塚さんたち奥多摩美術研究所が作った床の上で、同じく設けられた壁にかかった作品を見ていることは、第1・第2会場共通で、佐塚さんの絵を、佐塚さん(率いる奥多摩美術研究所)の仕立て上げた空間で見ることはインスタレーションとも思えるけれど、印象としては少し違う。
というのも、せせらぎでは、胎内めぐり、あるいは戒壇めぐりのごとく蛇行する館内を下っていって(佐塚さんも、せせらぎの空間自体を「体内みたい」とたしか言っていて、その館内の雰囲気を活かすように仕立てたらしい)、その最後に、合板の揺れる床が敷き詰められた一際広い空間で絵と出会う…けれどその床は館内のどこにも接していない、もちろん、美術館本来の床には接しているはずだけれど、“揺れる床”にはバネが仕込まれ、2~30センチ?離れていて、四方の壁や柱、そして、向かって右の角から室内へと突き出ている、外の、御岳渓谷の岩にもぶつからないようになっているのは、“オバケ”が落とす石の衝撃をなるべく館内に伝えないためだ。
壁の、柱の、岩の位置を計算して、それらに無用なダメージを与えないように“揺れる床”を設えるのは、階段ぴったりにスロープを設置するのと同じくまさしく設営の手つきで、この展示が佐塚さんの個展であると同時に、奥多摩美術研究所のショーケースでもあることとも通ずる。これらの仕掛けは、せせらぎの個性を踏まえ、尊重しつつもそことは独立しているから、サイトスペシフィックな、場に紐付いたものではない、たとえばこの仕掛けと作品とをそっくりARTBAYに運び込んで、外に設えても起震車のごとくしっかり機能するはずだ(もちろん、柱のために空いた穴、展示室より一回り小さい床面積…といったものが、せせらぎの雰囲気を伝えはするものの)、もちろん、その場に合わせて一から作ることもできて、可搬性もあれば可変性もある、空間全体を作品化するというよりも、あくまで作品と空間の間にたって取り持つそれは、インスタレーションの面もありつつやっぱり設営の面が強く、佐塚さん(たち)もその心持ちでやっている気がするし、それは古民家を移築して作られたここせせらぎの、石の上に建てられた柱にも通ずるだろう。

「研究室」も、鑑賞者を向かえる「国立奥多摩美術館」と大書された出入口から見れば奥に、細長い奥多摩美術館の横っ腹に開いた、風穴のような“勝手口”から見れば左に位置して、屋根こそないものの、車輪を付けて車で引っ張れば動かせそうなそれはコンテナにも思える、「移動美術館 アートトラック」という、コンテナに作品を設え、方々で展示を開催するという試みがあるけれど、この〈研究室〉も、奥多摩美術館にありながら、展示空間としては独立している。
一方で、〈研究室〉はアトリエでもあって作品はそこと密接に結びついている、たとえば、タイトル通り900×900mm のキャンバスに描かれた《九百角 A》《〃 B》《〃C》《〃D》の4作品は、入って左手の壁に横一列で掛けられているがその下の壁を見ると絵の具が付いている、「ARTBAY TOKYO」で《九百角 C》が不在の時は、しばらく3点だけ掛けていたそうだが最終日2日前に行ったら別の《九百角》シリーズ(E?、タイトルはわからなかった)が1点その穴を埋めていたけれど、その下の床にはこれまでなかった油染みがたくさんあった。

《九百角A》は、緑青が薄くふいた葡萄色の画面に、黒い、チューブそのままの絵の具がルーチョ・フォンタナの《空間概念-期待》みたく右斜めに4本走っていて、《B》では、黄色紫緑白…のストロークが籠目状に激しく重なり合うその真ん中に“逆三日月”型の、すなわち画面左側に膨らんだかたちの青く素早い筆致が浮かんでいる、その右横、やや下には赤い歪な円が控え、左上から右下へ、白く細い筋が幾本も流れ星のように落ちている。
「ARTBAY TOKYO」に行っている《C》の穴を埋めた新作は、《C》同様、赤黒い画面ながら「⧺(ツープラスという記号らしく、その名の通り+がふたつ並んだもので、医学分野で使われるそう)」みたいな筆跡が走っているが、描かれた順番としてはまず左の縦棒が引かれ、次に横棒、最後に右の縦棒であることが重なりから見てとれる、上部には“⧺”と重なるように緑のチューブそのままの“放物線”が5本跳ねていて、内3つはぴょんぴょんぴょんと横並びになっており、その向かって右側の“放物線”の下に、少し大きめの残り2つが縦に重なっている。左上には白い筆致で大きくサインが、“ggg”が描かれているけれど、《A》では右辺の真ん中あたりに、《B》では右下の少し上、《C》では画面中央上寄りの、山なりに連なる黄土色の点々、その盛り上がりの下に赤く小さく描き込まれている。
右端の《D》は、濃い紫の画面がさらに上下に二分されていて、上は青、下は緑がかっている、青みがかった上部には、地平線から出てきたばかりの三日月と星のような黄色い放物線と点々があって、赤いサインは画面右下、やや中央寄りの位置に描き込まれている。

これらを、佐塚さん曰く壁に掛けながら描いたそうで、8日、会期3日前にお邪魔した時もたしか4点はすでに掛かっていたがまだ途中だと言っていた、中央に置かれた《タンソ》テーブル(展示の時はもうなくて、代わりに、絵の具がたくさん付いた、使い込んだ座椅子が3脚、会期途中から置かれはじめた、そして《タンソ》テーブルの足が壁の上部から飛び出していて、そもそも壁のラーチ材も、《タンソ》に使われるものだそうで、この〈研究室〉自体《タンソ》ルームとも言える)の上にも作品が置かれていたがどれかは定かではない(額装された《草々》だったろうか)。入って右側、展示では《赤》と《緑》が立て掛けられたところには《ー》が仮置きされていたが、最後、サインを入れる段になってそのサインに納得いかなかった、そうして消したらそこだけでなく、また絵全体が動き出して、これからまた描きますと佐塚さんは言っていた。

その《ー》は、展示が始まってからは〈研究室〉入って真正面に掛かっているが、「研究室」の入口、スロープ(として掛けられた木の板)の前から見られないのは“目隠し”の壁が「研究室」入ってすぐのところに立っているからで、そこにはドローイング作品の《草々》が掛けられている、つまり《ー》と《草々》は向き合っている、《九百角》シリーズは《ー》向かって左に、《赤》と《緑》は右にあり、《赤》と《緑》の斜め右上には《□》が掛かっている。

《ー》は、2枚のキャンバスを繋げたF150相当、すなわち2273×1818mmぐらいのサイズで、当然、中央にはキャンバスの合わせ目がある、その線に沿って目線をスーッと下ろしていくと、灰色がかった緑から朱肉色(苺を指して、ケーキの匂いがする、と形容するような物言いだけど、ただ朱色と言うより近い気がする)が滲み出ていて、さらにその上を黄色い、息の長い線が横切っている。

サインは、“普通”は画面の端(右下のイメージなのは、多くの人が右利きであることと関連があるのだろうか)に書かれるような気がして、この《ー》も《み》も、現に右下だけれど表側に書くにしては大きい、特に《み》では、ひらがなの「み」と並んで絵画空間の数少ない(というよりこのふたつしかない)具象的なモチーフで、手のひらよりなお大きいしチューブから出たそのままの質感もある。そして、前述の《九百角》のように、右下、からはあえてずらされているものもあるし、そもそも《-》は、もし上手くいっていれば中央下寄りに大きく描かれていたはずだ、たしか《赤》も、右下よりもう少し上気味に赤い小さなサインが描かれていて(対する《緑》は右下)、《□》も同様に右下だが、それは画面の右端、ではなく薄黄色の絵の具で描かれた“額”の中における位置で、少し特殊だ。

ある作品にサインをするということは、その作品が完成した、少なくとも手を離してもよいところまで行き着いた、という証明なはずで、絵そのものとは独立していると思うが、前述のように佐塚さんの作品には、画面のあちこちにサイン、と同じ筆跡が、一番書き慣れた図像としてしばしば現れているし、サインに納得がいかないから全体を描き直す、ということも起きていて、サインは絵と不可分になっている。
たしかご本人も言っていたけれど、キャンバスには、その前にいて手を動かしていた、ある強度を持った時間そのものが絵の具となって定着されている。
だから本来、サインを書き/描き込まずとも、そもそも絵自体が佐塚さんと不可分になっているがあえて、それも大きくサインするのは、あたかも製品を検品した担当者が、タグに検印を押すかのようで、ここでも描く佐塚さんと、見る、見極める佐塚さんが見え隠れする。

額装する、ということも同様に、見て判断した結果のようで、たとえば《み》をはじめ、多くの作品は額縁工房・片隅の三熊將嗣さんによって額装されている(それも油彩の額は杉で、同時開催の南壽イサムさん「花粉の季節」、杉の枝を使ったインスタレーションと重なっている)が、《赤》と《緑》はされていない、だからか壁にもかかっていなくて、「まいっか」が(まだ)1回のこれら2作は、サインこそ入っているが、今後、さらに変容していくのかもしれない、そう思わせるほど、佐塚さんの絵において、サインは特権的な力を持っていない。
さらに言えば、仮額であることは、もしかしたら購入者に、必要とあらば改めて本額へと額装し直してほしい(もちろん、仮額そのものも魅力的だけれど)という意思表示なのかも知れなくて、以前、ご本人の手で額装されたドローイングを送って貰ったけれど、「購入者のセンスで額装し直しても面白い」みたいなことを後日会った時に言っていて、最後の“仕上げ”を、購入者や額装師に開いているのだろう。

このように、描く、より広く言えば行為する主体と、それを見て判断する主体がいた時に、本当に確固とした後者が前者をコントロールしているのか?と疑わせるところが佐塚さんの制作にはあって、例えば《ー》が、数度の「まいっか」を経てサインをするに足るほどのところまで行き着いた、と“見る佐塚さん”が判断してサインを入れたけどなんか違った。もし、それがただの検印であれば、入念に消すかそもそも目立たないように(それこそ裏面とか)書いていれば問題はなかった、しかし、あえて大きく目立つ色で描いたからこそ絵全体が動いてしまって、そこからはまた“描く佐塚さん”がしばらく筆を振るう、しかしそこには、どうすれば絵が完成するのかという道すじもないし、“見る佐塚さん”も、ある状態を現に見るまでは、それが完成だとはわからない。そう考えると、むしろ“描く佐塚さん”も“見る佐塚さん”も五里霧中だが後者の方がより前者に依存していて、そもそも「見る」は常に後手だ。

しかも、「見よう」と思ってもすでに過ぎ去っていることも多い、例えば〈研究室〉には《宝木》という、枝や丸太をペンで描いたドローイングのシリーズがファイリングされていて、好きに手にとって見ることができるがその実物はせせらぎにあって、“揺れる床”を下り、スツールの掛かった壁の右手の暗がりには腰高の、作り付けの台があるがその上には何本も枝が自立、すなわち断面を足として立っていた。それらの枝々や、そして入り口の、足をひっかけそうな位置で潜むように置かれていた丸太のいくつかにどこか見覚えを感じていたのは《宝木》を佐塚さんのポートフォリオサイトやInstagramの投稿で一部を見かけたことがあったからで、だからこそ、私はそれらを自覚的に見たけれど知らなかったらおそらくひとつひとつをそんなに見ない。

例えば、たしか左から四本目の、“凶暴なブロッコリー”めいた枝は「A01」と付されたドローイング(A02、という通し番号のものもあって、同じものの別アングルらしい)のモデルで、斜め右から、目線を合わせるようにかがめば大体ドローイングと同じ構図が得られて、もちろん実際はわからないが、 それでもそのドローイングを描いた時の、

2018
12/29
20:46

の佐塚さんを追体験することでもある(ドローイングには描いた日時が記録されていて、おおよそ2、3日に一度、時に二度描かれたことがわかる)。

もし、はじめて《宝木》を見知った人がいたとしたら、その人は第1会場の枝々を、《宝木》のモデルたちをどう見たのだろうか、私にはその見え方を想像することしかできないけれど、もしかしたら、お化け屋敷の小道具と見なしたかもしれないし、そもそも暗がりの枝に気づかなかったかもしれない(鳴り響く「ガンッ!!!!!」の方がよほど注意を引かれる)。
そうした人が、もし第2会場でドローイングファイルをめくった時、ああ、さっきせせらぎにあった…と思い至っても、せせらぎに戻り、もう一度入館しないと現物は見られないし、その時はドローイングが手元にない、撮影すればもちろん比較は出来るが、肉眼では出来ない。

そもそも油彩を描くこと自体、常に上から新しいストロークを重ねていく(ここには絵の具を塗り重ねることはもちろん、表面を削ったり、まだ乾いていない絵の具がまざったり変形したりも含めたい)ことで、それ以前の画面、景色はその都度失われてもう見られない、一方で、《草々》をはじめとするペンドローイング作品は違って、支持体の端から端まで、それこそ植物が地面に生え広がっていくように描かれている、youtubeに投稿された2年前のライブ配信(https://www.youtube.com/watch?v=PWVC5lfqBpI)を見てみると、佐塚さんはすでにA4くらいと思しき画面の左半分くらいを描き終えた状態から制作をスタートして、50分弱をかけて左から右へ、下から上へ草を描き広げていった。もちろん、この時も画面の表情はその都度変わっているけれど、不可逆的ではなく、だんだんと白い画面が黒い描線で埋め尽くされていくその時間の経過を感じることができる。
一方、矛盾しているようだけれどペンドローイング、特に今回の《草々》を見てもどこから描きはじめられたのかは分からない、完成作としては、S50号、1167×1167mmの画面一面に植物が、より具体的に言えば、先がくるんとカールした細長い葉(左右の向きと、カール部分の方向、つまり上から下か、下から上かの組み合わせで4種類登場する)、カミナリみたいにギザギザ細いツルと、波のようにゆるやかなツル、まっすぐの茎にバネみたいなぐるぐるのツルが巻き付いている植物、大・中・小の王冠が3つ積み重なったようなもの、四葉のクローバーめいたぷっくりと丸い葉、扇風機のファンみたいなやつ、“手のひら”、“6”、“み”…と様々なかたちにデフォルメされた植物がひしめき描かれているけれど、むしろ街中に生える“雑草”、そのピョンピョンと飛び出た葉先を見ると写実にも思えて、佐塚さんは植物の青々とした生命力をそのままペンのしなやかさで写し取っているように思える。
画面一面、と言っても全てが植物で埋め尽くされているわけではなく余白もあって、中央やや下寄りの辺りからもくもくとうねるように白い“煙”が立ち上っており、正方形の支持体、その上辺に辿り着いた“煙”はまっすぐ均一な太さ長さを持った“額”となっている。
フライヤーの裏側を見ると制作途中の《草々》が載っていて、左から右へ下降するギザギザのグラフのように黒と白がせめぎあっている、“煙”に隣接した境目はなめらかだけれど、その他の、途中のところはピョンピョンと飛び出た草葉が動物の毛みたいにふさふさとしていて、この見え方は、完成作では失われている、大まかに左から右へ、鉛筆で薄く象られた“煙”を避けつつ描かれたことは想像できるけれど、やっぱりその瞬間瞬間の見え方は想像を超えている。

《草々》をはじめとするペンドローイング作品は、完成によって“閉じる”、というより全てが同じ強度で迫り来るからこそ端緒を掴めない。時間の塊を見ているような心地がするのは油彩作品と同様だが、油彩の方が重なりがあるからこそ、かえって時間の流れをひもときやすく、たとえば《ー》というタイトルの由縁か画面下部に長く引かれた黄色の線には、あたかも海鳥が水面へ鋭く突き刺さっていくがごとく何本もストロークが落ちていく、あるいは逆に“海面”を飛び出していく線があって、絵の具の伸び具合によって後者の方が早くに引かれたことが見てとれたり、そもそも放物線のように落ちていく筆致の上に、黄色い“海面”が引かれたことなんかもなんとなく分かって、もちろん、どこから描きはじめられたかまではわからないが、それでもごく断片的な順序くらいは分かって、そうした時間の積み重ねを、1層1層剥がしほどいていくことが、絵を見る醍醐味のひとつだと思う。
と言っても、その時々の表情というのは違うはずで、特に油彩は、塗り重ねされてしまえば下の層は見えづらい。この展示の中ではとりわけ《□》がそうで、それこそ《み》同様、ルオーの《受難》式に大きく縁取られた画面は面積の半分くらいが“額縁”で隠されていて、深い緑と紫が渾然一体となった、叢のような画面が中央やや左寄りに覗いている、周りは薄黄色の、それこそ薄く焼いた卵焼きみたく黄色と白がないまぜになった“額”で塗りつぶされているおり、もちろんその下の色まではわからないが、それでも筆致が下から響いて見てとれる、見えないけれど存在は感じられる。
こうして、塗り重ねられてもその下から過去が、前の時間が垣間見れることは人とも似て、それこそ動物か、身近な子どもでもない限りある存在の一生をみることはできなくて(特に後者の場合、一生を知れてしまうことはあまり幸福なことではないが)、大抵は途中から知り合う、しかし自分でも、目の前の人でもその子ども時代が全く失われたわけではなく、どこかに残っていてたまに顔を出す、まるでマトリョーシカのようだと思うが、それは絵を見る時にも起こって、絵、だけでなく作品を見ることは、表面を目で撫でつつも、その奥を、下層をイメージしていくことなのだろう。だから、たとえ直接見えないにしても、隠れていることと、そもそもないことは全く違う。

せせらぎと「研究室」の間に横たわる遠さもそうで、《ー》を、《九百角》を見ているとまた《み》が見返してみたくなるがそれは出来ない、その出来なさは、「芸術激流」で通りすぎてしまった作品を見返すことの出来なさ、その一回性とも通じて、これは酒井さんがSNSに投稿していたことだけれど、せせらぎ→玉堂→奥多摩と、青梅街道そして多摩川を下るコース自体、「芸術激流」の精神を受け継いでいる。
奥多摩美術館そのものも、平溝川という小さな川のほとりに乗り出すように建っていて、その流れは多摩川へと注いでいる、軍畑駅から奥多摩美術館へ歩いていく時には、その平溝川を遡行することになるけれど、途中には2、3か所、10mもなさそうな此岸と対岸を結ぶ小橋が渡っている。その内、もっとも奥多摩美術館に近い橋から見た光景は、あたかも線路の右脇に立ち、自分の傍らを横切ろうと迫る長い貨物列車を見るような眺めだけれど、その一部分を佐塚さんは縦にした小さなノートに写生していて、「おすすめ」である玉堂美術館にはそれが展示されていた。
ノートは、第1展示室中央に設えられた大きな展示ケース内に収められていて、隣には、2倍くらい大きな、年季が入って薄く色づいた帳面があるけれどそれは“玉堂さん”のものだ(佐塚さんは川合玉堂のことを「玉堂さん」と呼んでいて、その親しみのこもった響きが好きだ。東京国立近代美術館の《行く春》の前では呼べる感じはしないけれど、玉堂美術館でなら、「玉堂さん」と呼んでいい気がして、そうした雰囲気も、玉堂美術館の好さのひとつだと思うし、地元作家を紹介する“地方”美術館が持ちうる魅力だと思う)。

並んだふたつの写生の間には約70年の月日が横たわっていて、“玉堂さん”の描いた、縦に連なる2軒の三角屋根、そこに見られる水車は佐塚さんの絵には見られない。しかし、川沿いの傾斜地に建っているためか、奥多摩美術館は2本ずつ、見える限りで7列と、奥にもう1組あるコンクリート杭?の基礎で支えられているが、“玉堂さん”の描いた2軒の家も、水車の脇に描かれた、幅の狭い2本の線が家屋を支える細い木の杭に見える。
そして、佐塚さんのノートの上部、重なるように置かれた白黒の写真には、もう少し“引き”で撮られた約70年前の風景が焼き付けられていて、そこには川縁の斜面に建つ2軒の家と、その前に渡された細い橋(橋の裏側が丸く膨らんでいて、あたかも縦に割った丸太の平たい方を上に向けて、そのまま掛けたように見えるけれど、きっと石か何かで出来ていたのだろう)が収められ、たしかに、今、奥多摩美術館が建っているあたりの雰囲気が感じられる。“玉堂さん”も佐塚さんも、建物にクローズアップしていて橋を描いてはいないけれど、それはもしかしたら橋の上から、あるいは橋と並んで描いたからかもしれなくて、描かれなかったことにも意味が、ある種の情報が刻まれているし、描かれているものでも、たとえば“玉堂さん”も佐塚さんも周りの木々はすごくざっくり描いていて、焦点が建物に向けられていることがわかる。

素人だからか、単に不器用なのか、私は写生する時にすべてを同じ調子で描いてしまう…ということに気がついたのはこの7月、同じく玉堂美術館で開催された、佐塚さんによる「写生教室」に参加した時で、佐塚さんは、もちろん請われれば技術も教えたがそれよりとにかく見ること、そしてその結果として引いた線がたとえどんなものであれ、そうして自分から出てきた線を楽しむよう参加者に伝えていた。その“秘伝”自体が、佐塚さんの作品を見る上での手引きともなりうるのは、作品から、誰より佐塚さん自身がその瞬間瞬間出てくる線を面白がっていることが伝わってくるからだろう。

「写す」、そのために「見る」ということは佐塚さんの作品にとってキーワードだと思う、この3月に開催された「アーツさいたま・きたまちフェスタ Vol.9」で、佐塚さんは《人生に彩りを添える新しい自転車の使い方を考える会》というワークショップ形式の作品を発表していて、自転車の写生を来場者に促していたが、そこには、新しい自転車の使い方を考える上で、まずは目の前の自転車をよく見てみようという佐塚さんの思想がある。特段、新しい自転車の使い方についての話し合いがあったわけではなく、各人が思い思いに目の前の、少し小ぶりでフレームの赤い、かわいらしい感じの自転車を描いていただけだ、しかしただ描くにしろ理解、というより全体をひとつながりのものとして把握しなければ描けなくて、私はハンドルから出ているブレーキケーブルは描いたが佐塚さんが、隣の男の子に向かって言った「ブレーキは?」という言葉を聞くまでブレーキ本体を描き忘れていた、つまり私はブレーキというひとつの機構を見ず、ハンドルから出ているケーブルと、車輪を挟み込むように取り付けられたU字の黒いパーツ別個に見ていた。

「アーツさいたま・きたまちフェスタ Vol.9」はさいたま市のプラザノース、北区役所と図書館、ギャラリースペース、各種スタジオ…から成る複合施設と、そこから連絡通路で行き来ができる、ステラタウンというショッピングモールを主な会場としていたが、《人生に彩りを添える新しい自転車の使い方を考える会》は、交差点を挟んだ大宮北ハウジングステージ、そのインフォメーションセンター付近で行われていて、それだけでなく佐塚さんの絵画作品も、おそらくモデルルームを見に来たお客さんたちが休憩するソファースペースに展示されていた。
作品は2点展示されており、L字の壁、その角に向かって左側には油彩の作品があったけれど右側は段ボールを支持体としたコラージュ作品だった、話を聞いてからだいぶ経っているためうろ覚えだが前者は後者からできたもので、まずは白と黒の折り紙を自由に切って、それらを敷き詰めるように張り込んでいく。そうしてできたコラージュを撮影し、そのイメージを、プロジェクターでキャンバスに映す、キャンバス上に落ちた白と黒を、絵の具で再現する…といったプロセス自体が「見る」と「写す」の連なりで、コラージュ自体ももちろん作品だが、印象としてはコラージュをしたかったというよりは、描く対象から自分で作ってみたという感じで、その点だけで言えば自作したモチーフを描く千葉正也さんにも近しいし、プロセスに則って描くという点では村山悟郎さんの諸作を連想させる。
しかし、「写す」からといって油彩はコラージュを正確に模写しているわけではなく、投影、という一工程のためにむしろ“遠さ”が生まれていて、例えば、コラージュは白黒両方の折り紙が貼りこまれていて、近くならば黒同士や白同士の重なり合いが、切れ目や透け、同じ黒といっても微妙に異なる色合いから見てとれる(糊の跡も時折見つかる)が、油彩には、おそらくキャンバスへプロジェクションした時にそこまで鮮明には映らないからかそうした情報は落ちている、一方で、素早い筆致自体がコラージュにはない表情を生んでいるし、白と黒の境界からは、下地の黄色や茶色も覗いている。

そして、佐塚さんは絵筆以外の方法でも「写す」ことを実践している、と思うのは、ご本人が昨年2022年にツイッター(その頃は当然、Xではなかった)に投稿されていた

今一番心動かされるインスタレーション!
軍畑大橋
午後7:39 · 2022年6月10日

という文と画像で、ちょうど玉堂美術館から奥多摩美術館の歩いて約50分、その40分くらいのところで通りがかる軍畑大橋が、アーチ部分の塗装工事のためベニヤ板と鋼管で覆われているその全景が、おそらく橋から軍畑駅へと上がっていく坂道の途中から撮られている。
これは本当に妄想でしかないが、ベニヤに覆いつくされた軍畑大橋の姿こそ今回の、せせらぎの床を覆い隠す“揺れる床”や、“大きな木箱”である〈研究室〉を着想させたような気がする、そうだとすれば佐塚さんは木材を使って、インスタレーションとしてある日の風景、というよりその光景を見て動いた佐塚さん自身の心を「写して」いて、吊り橋ではないのだからさして揺れないだろうけど、不安定な、宙に投げ出された足場という点でも、“揺れる床”と〈研究室〉は橋に近しい。

さらには、「さいたま国際芸術祭2023」の一環として先日まで開催されていた「ART-Chari 2023」で、佐塚さんは“動く床”を発表されていて、大きさも節の入り方も、せせらぎの“揺れる床”に使われていた?ような合板が3×3の9枚…ではなく中央を欠いた8枚並んでいて、その中央には自転車(白いフレームで、3月に模写した赤いフレームの自転車とは異なる)がある。自転車は、あたかもガリバーみたいにしばりつけられていて、ハンドルと前輪の間のあたり(ヘッドチューブというらしい)から、二等辺三角形を描くように“床”のふたつの頂点へとロープ伸びていて、さらに後輪のハブのあたりからは後ろの角へ、荷台からは両サイドへ同様にロープで繋がれている、つまり自転車を動かせば、周りの“床”も空飛ぶ絨毯のごとく一緒に動く(“床”1枚1枚にはキャスターが取り付けられている)。
当然、動かしてみるととても重いしそもそもバランスが取りづらい、ペダルを漕ぐ私の周りには3人のスタッフの方がいて、後ろから“床”を押して手伝ってくれているから私ひとりで動かしているわけでは到底ない、プラザノースの広場を半時計回りに1周する間に4回左折があって、その度に「ひだりぃーっ!」と声が掛かり、反動をつけて体重を思い切り左へ傾けないといけなくて(そうしないとびくともしない)、本来ならひとりで完結するはずの自転車を、周りのサポートがないと乗れない、しかし代わりに荷物も人も載せられる新しい乗り物に変えていた。

そうした、ひとりをみんなにしていくような試みは、例えば「アーツさいたま きたまちフェスタ vol.7」(2021年1月15~17日)で発表された《ここで絵を描いてみる。》という作品にも通じて、タイトル通り佐塚さんはステラタウンの大階段、その下で目の前の風景を描いていた。そうすると、展示と知ってやってきた人はもちろん、知らずに訪れた人も佐塚さんに寄っていって、そこで会話が生まれる、佐塚さんはどんな人にも丁寧に、美大で油絵を専攻していたけれど、ほとんど描いていなくて久しぶりに描いている…といったことを説明するけれどそれ以上に人の話を聞いていた。ほぼ忘れてしまったが、ここ(ステラタウン)によく来るんですか、や、絵を描きますか、みたいなことからその人が興味を持っていることを引き出していて、描いている時間がないほどに話していた。
今回の展示でも、せせらぎにはいないが奥多摩には在廊されていて、人が見に来るとその人と話す、展示のはじめの頃には

特設即席トークイベント会場
いろいろきかせて

と書かれた“舞台”があって、訪れた鑑賞者はまず、通し番号入りの板切れ(私は12番だった)に名前を書く。それを佐塚さんに渡し、「ゲスト」と書かれたところにビス止めしてもらったら、“ゲスト”は緑の一人掛けソファに座り、佐塚さんはプラコンテナ?に座る、1セット15分のトークを私の回は2セットしてもらって、どうして美術に興味を持ったのか、みたいな話をしたけれど、こうした道具立てがなくても佐塚さんは毎回、来た人と色々個人的なことを話していて、洩れ聞こえただけでも作家や学生さんはもちろん、鍼灸師の方とか、支援施設の方とかがいて、その方たちの仕事ぶりや人生を聞いていた。

ただし、話をするのはあくまで作業場スペースで、〈研究室〉内で話したり、作品のガイドをしたりは(少なくとも私が見聞きした限りでは)なかった、せせらぎの場合も、そもそもいないのだから話しようがないし、佐塚さんは、「いつとつい話したくなっちゃうから(せせらぎにはいない)」と言っていた。
佐塚さんの絵には佐塚さんの気配が残っているし、“揺れる床”も、観客のいない内にメンテナンスを施し、スイッチさえ入れれば後は自動で人を驚かす、だからお化け屋敷みたいにスタンバイしている必要もなくて、そうした点で、私は残念ながら見ていない(そもそも奥多摩美術館すら知らなかった)5年前の個展とは対照的だったようだ。
どうやら5年前の展示では、佐塚さんが暗い中にずっといて、鑑賞者がその部屋に入って来るたびに歌っていたらしい、その場所は、今回〈研究室〉が建っているあたりだったようで、5年前がパフォーマンス(それにペンドローイングと巨大な立体作品)だったのに対し今回は絵画(と奥多摩美術研究所としての設営)で、“不在性”と“可搬性”、“同時性”(絵はどこでも運べるし、同時に別の場所で展示することも当然できる)は、そもそも作品と呼ばれるもの全般に備わる特性(の内いくつか)だと思うが、佐塚さんは改めてそれらを、“揺れる床”という1回性の高い俎上で検討している気がして、特にせせらぎの方は、“不在のパフォーマンス”とも呼べるかもしれない。

そしてその“不在”は単なる不在ではなく、佐塚さんは前述の通り奥多摩に大抵いて、お客さんが来るたびにずっと話している、そんな姿を見ていると、それをやっていると来た人と話せないから、という理由でパフォーマンス形式にしなかったようにも思えて、“揺れる床”が自動なのも、絵画メインの展示なのも、全ては人が来た時に、いつでも歓待できるようスタンバイしているためなのかと錯覚するほどだけれど、「話す」自体を作品化したこともあって、それは「アーツさいたま きたまちフェスタ vol.8」で発表された《リヤカーなんでも美術相談所(美術相談員:佐塚真啓)》だ。
プラザノースのギャラリーで、あるいはステラタウンの大階段下(その前年はそこで写生をしていた)で、

絵の描き方から
日々の悩みまで
なんでも美術相談所
お気軽にご相談ください

と書かれた“窓口”に立つ佐塚さんに、私は仕事の相談をした、小さい子は、絵の描き方を相談することが多くって、「人の顔を(リアルに)描く時、(自分の絵が)気持ち悪くなるから描けない」みたいなことをたしか言っていた女の子には、「(絵が)気持ち悪くなってもいいから1回描いてみよう」と“受付”に広げたスケッチブックへ一緒に、きっと顔を描いていた。佐塚さんにとって、聞くことは「見る」こと、話すことは「描く」ことと繋がっているのだろう、そう考えると、《み》に書かれた/描かれた「み」の語源は「美(の草書体)」らしいけれど、その響きは「見」「耳」「身」「魅」…と、身体で感覚すること、それによって心を動かすことと繋がっていって、それはまさに佐塚さんの言う「美術」に近しく、この個展自体、ジャンルとして成熟した(故に固まってもきている)“ビジュツ”から、新しくやわらかな“みじゅつ”を見出すための試みだったのかもしれない。

“揺れる床”を降り、改めて《み》を眺めるとちっとも震えない床がかえっておかしくて、「ガンッ!!!!!」という音に身構えた身体に揺れは届かない、一緒に床にのっていた、他のお客さんの歩みも伝わってこない。展示を去る時は、いつもどこかさびしい、去りがたい気持ちがして、それは面白さが裏返った名残惜しさではあるけれど、今回の、この展示で感じた寂しさはひとしおで、それはやはり、「芸術激流」で1時間以上多摩川を流れた挙げ句ボートを下りた時とも、とろりとした眠りにこのまま浮かんでいたいと思いつつ起きる朝、ずっと遊んでいたいのに夕暮れのチャイムがなってしまった子ども時代…とも通ずる気がして、そう言えば奥多摩美術館で同時開催された南壽イサムさんの「花粉の季節」、その映像の終わりにはたしか「夕焼け小焼け」が流れる。

せせらぎの館内から出ると、左手の、表に面した展示ケースにはドローイングが1点展示されていて、佐塚さんがよく描かれている、簡略化された人体(というより人型で、1体だったり3体だったりもするけれど大体2体一組で、やわらかな身のこなしが踊るようだ)が片方は手を、もう片方は頭を宙に浮かんだ輪っかの中に差し入れていて、その向こう、もう少しで手が届きそうな位置に「み」が漂っている。この絵は、『「Songs For My Son」制作日誌 vol. 2022年3月1日 (投稿者:助監督・佐塚真啓)』(https://note.com/yamaoku/n/ne43669416bf8)という、和田さんが制作中の映画の進捗を伝える投稿、そのヘッダーと似ていて、2体のポーズはほとんど一緒だが、輪っかと、目指す先の「み」はない。
これら2つのドローイングを、発表順に後者を1コマ目、前者を2コマ目としたならば、がむしゃらに手を、頭を伸ばした2体の前に2コマ目で「み」が現れたことになるが、まだ「み」には届いていない、しかし次のコマではもう届きそうだ。


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