大事なものを大事にし"続ける"
7月末から色んなことが細々とあって
あれ〜と言ってるうちに8月が半分過ぎていた。
出来事とすると、子供のことだったり体調崩したり、
色んなことが織り交ぜられていだけれど、
どれも新しい気づきというより、改めて自分の足元の大事なものに気付かされるような、
自分の心身と身近なところに向き合う数週間だった
まだ言語化できるほどまとまっていないけど、なんかの記録のメモたち
・大切な人が居ることの幸せ
大切なものを、大事にし"続ける"こと
恵みを当たり前な顔して受け取っていないか?大きなものほど日常にあり、全て本当は揃っている。身近な人だけでなく自然に対しても同じ。
当たり前になり過ぎていないか?何もかも受け取っているのに、感謝を忘れていないか。
全て借りているだけなのだから。
自分のものだと勘違いしたときに扱いが雑になる
・正解は人それぞれ。そして自分にとっても、その時の自分の状態によって同じ物事でも選択は変わってくる。頑なになり過ぎず柔軟であること。
・なんでも捉えようで出来事状況に関わらず幸せに生きることはできる
・無意識の自分責めを辞める。
自分が自分のことを許したとき、
周りの優しさに気づくことができる
自分を1番責めているのは自分である。
自分を深く赦すことにより他をも赦すことに繋がる。
・自分の世界は全て自分が創っていて全て叶っている(腹落ちしていなかったのを改めて体感)
幸せは既に在るものに気づくこと。全て与えられていることに気づくこと。全て叶っていて、何かを未来に求めたり、何かを待つ必要もない。
・恐怖心、特に本当に望んでいるものほど、初めから要らないと拒絶することがある。表面的なものを取っ払って、素直な望みを見る
・"条件"は要らない、ただ生きる
今何をしたらいいのか?の答えは、今生きていること、生きること、それが全て。
・過去に囚われない
***
絵に関して
絵のスタンスに関して
小さい頃、
絵描き屋さんになりたいと願っていた
大人になってみて
絵描きの定義とはなんだろう?
絵描きを名乗らないと、
そこそこ稼ぎがないと、
何かの評価を得ないと
絵を描いていてはいけない気がしていないか
少しくらい収益になっていたりして
誰かに認められたとして
何か外側の条件を満たしてようやく
安心して描くという許可が降りる
自分のために描いていた絵だけれど
そんな気持ちが無意識に残っていたことに気づく
もちろん誰かの手に渡れば嬉しいのだけど
それはただの結果であって
最終的な目的ではない
とにかく描くこと、
何かを創ること
アウトプットすること
そこに【条件】は要らないのだ
自分の純粋な表現に
社会的評価の目線を混ぜ込んで、
優先度を下げなくてもいいのだ
何のために?という質問と
無関係なところで描いていいのだ
絵も言葉もアウトプットはすべて完全に
【自分のため】
であると言うことを改めて再認識した
自分から出るものを出す(表現する)
ということは
生活の延長上
ただ生きるということそのもの
それ以上でも以下でもなく
呼吸と同じ
こだわりも要らないし
絵という形にこだわる必要もない
全ては自分のために
自分が好きなものを好きなように描きたい時に描く
誰との比較や評価と無関係のところに
私の表現はある
自分のために絵を描くということは
【自分の人生を生きる】ということ