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四つ葉のクローバー
じーじ(父)と息子とお散歩へ。
四葉を見つけたので報告したら、
じーじが大事そうに持って帰ってた。
そんな人だと思わなくてびっくりした。
思春期以降、ずーっとまともな会話もないような関係だったけど、こどもが生まれて
孫とじーじとして関わることが増えた。
私は小さいころ四葉を何時間も探しているようなこどもだった
川に行けば石を拾い、
海に行けば貝を拾い、
幼稚園の砂場でも砂に隠れた小さい貝を探し、
野原では四葉を探す。
工作をする、絵を描く、とにかくちまちま何か作っていた。
当時私の喜びを当時一番わかって欲しかったのは母なのだろうけど、
私が10くらいの気持ちで自分の感動を伝えたとして、
そのうちの1割、2割しか自分の感動が伝わらず共感してもらえず
だんだんと自分にとって素敵なものって価値がないように思えてきていた
人によって感性は違うし仕方のないことであって、母がわるいとかではない
30年くらい、私は母にそっっっくりだと思って生きてきた
母の味方として生きてきて、
それでいて父は敵だった
母の敵だから、イコール私の敵になった
人の気持ちの全くわからない冷たい人だと思っていた
でもここ数年少しずつ"自分の"感覚を取り戻して
他人と自分の感覚思考を区別できるようになったら、
驚いたことに私の感性は、どちらかというと母よりも父に似ていたのだと気づく。
戦いは好まず平和主義で
自然が好きで散歩が好きで
四葉を大事にしちゃうような人間だったのだ
そう言えば小さいころ、私が無限に拾ってくる四葉を、父が会社でラミネートしてくれていた。私の絵もラミネートしてくれていた。
(母はどちらかというとスポーツマン気質であって、絵は褒めてくれるけれどよくわからないという感じだと思う)
そういう父を長らく否定して家庭内で孤独にさせて生きてきたのだと大人になるに連れわかった
父の否定は自分への否定そのものだったのかもしれない
善悪の話ではなくて
自分の見方一つで世界の捉え方が大きく変わるということを教えてもらった気がする