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完全体としてみる

この蜘蛛の巣、2人の人に望実ちゃんの絵みたい!と同じようなコメントが来て面白かった。

昨日あまりの自然の創り出す美しさについ足を止めて見入ってしまったから、
えーそう見えるんだ!と驚いたけど、なんだか嬉しかった。

***

私が人と関わる時に意識していること

それはその人を【完全体として見る】
ということ

それはつまり
冷たく聞こえるかもしれないけれど
【助けないといけない人はいない】ということ

助けないと、という心のどこかに
無意識のうちに
その人を弱く見積もっていたり、下に見ていたりする時がある
これは自分でも長年気付かなかったこと。 

完全体というのは、
その人が迷ったり悩んだり
でこぼこしているところ、全て含めて完全であるということ

私はずっと人の役に立たないと生きてる価値がないという観念を持って生きてきた。

長い人生を無意識的に母を助けるために生きてきた。
自立して、全く無関係に選択をしていると思っていたのに、根源を掘っていくあらゆる基準は母だった。
苦しそうに見える母を助けたいと常に思っていたし、子供ゆえに助けられないジレンマもあった。

でも今思えば、それはそれで、私から苦しそうに見える母も、自分で好きな人生を選んで生きているのだ。
ずっと自分のせいだと思っていたことは、自分のせいでは無かった。
それは本人の問題であって、私の問題では無かった。

他人の人生を生きるということは、
何もいい循環を生まない。

私が私の人生を生き始めた時から、事が初めて好転していった。

助けないというのは
勿論物理的に何もしないということではない。

必要なことは行動するし
力になるけれど
何をするにしても
その人を弱いものとしてみないということ。

本人が無意識であろうと意識的であろうと、本人が体験したくてしていることなのだ。

これらは外から見てもあまり変化がわからないかもしれないけれど
自分の意識の持ち方としては全く違う感覚になる。

もちろんここをこうするといいなということは伝えたり手伝ったりするけれど
それを受け取るか受け取らないか
行動するかしないかは相手の自由だし

その線引きが自分の中でこの基準があることにより明確になる

必要以上に手を出すことは
その人の学び(=経験)を妨げるということになる

例えその道がこちらから見て茨の道に見えたとしても、進んでみないと得られないものがあるのだ。
"違い"を通して自分を学んでいくのだから。

そしてその人を完全体として見ることで
人を依存させてしまうことも無くなる。

誰かにすがらないと生きていけないという頼り方ではなく
必要な分は人に頼る、
それでいて軸はいつも自分に。
そのバランスの問題

人に何かをするときは
自己犠牲ではなく
あくまでもそれも"自分のため"
自分がそうしたいから
自分がそうすることで喜んでくれたら
"自分が"嬉しいからというように
自分が主語に。

その方が結果として双方に苦しみが生まれることが無くなる

同じ行動でも主語を自分にするだけで全く違うエネルギーとなる

このラインがわからないと
バランスが歪み偏り
どちらかに苦しみや不快が産まれたりする

子供に例えるとわかりやすい
可愛さあまりに転ばないように石ころを退けてやり続けるのか
転ぶことも時には学び
困った時はいつでも手を開き受け入れる姿勢でいる
手取り足取り助けることが本当の優しさでは無い
自力で立ち上がる元気が出てきたら
快く送り出す

自分で自分を信じて生きていける力があるというこという大前提で見る

冷たいと思われるかもしれないけれど
どちらも心地よく居られる距離感を大切にしている

例え苦しみの渦中であろうと、
その人はこの人生の中でそれを学びとして生きている
どんな出来事も栄養になる
失敗も成功もなく体験してそこから受け取る感覚だけが、その人の中に培われていくものであり財産

だからどんなことでもその人の生き方を尊重する

そして自分も自分の意思や生き方を尊重し、
他人に合わせすぎて苦しむこともない
お互いに生きたいように生きればいい。

ずっと他人の人生を生きてきたからこそ
"自分の人生を生きる"
が私のテーマでもあると思っている。

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