最大の親孝行
性と向き合うといっても
結局心と向き合うことであり
身体の一部であるから、
これまでと同様自分と向き合うの延長線上
これまで置いてけぼりにしてた身体によらフォーカスをあてている感じ
コロナが教えてくれたウイルスや菌同様に
身体におこることも
身の回りのことに対して起きる感情も
全てには意味があって起きている
敵ではなく
自分の中に共鳴するものがあるから
反応している
そういうふうに、
今まで悪と思ってきたことに対して本当にそうなのか?と疑い
観念をまっさらにする作業
理由があってお熱が出るし、
お肌と向き合うも同じで
肌荒れ、悪いもの、やっつける!悪!
と心のどこかでずっと思ってたけど
肌にも理由があって表出させてくれている
臓器から1番遠い肌という器官を使って
溜めておくとよくないものを外に出してくれている
そう捉えると、掻いてしまう私を常に責めていたけれど、「ありがとう」と思える
あまりにも当たり前すぎて
ちゃんと知ろうとしてこなかった
身体は常に自分を最善の方向に向かわせようと、1番近くでサポートしてくれている
いい方向に向かうのが自然の摂理
否定すべきところはひとつもない
それなのに私の小さな脳みそで
自分の身体のパーツや、肌荒れを見つけては
ここはバツ!とやって否定したり
押さえ込もうとしたりしてた
そのままであることを許す
いうことを全然やってこなかった
(お肌となるとわかってても難しい)
身体の隅々まで、不要なものは一切なくて
いかに優れたものであるか
完璧なものであるかということを知れば知るほど
自分のことも大切にできるし
自己信頼できるようになってくる
これまでの自分の身体への嫌悪感が
捉え方一つで急に薄れたのを感じた
私が去年ずっとやってきた自己受容、
自己統合というのは
自分と、自分以外のものを分ける作業だったんだ
自他の境界線がなくなり、
物理的にも、思想的にも、
不要なもの、自分でないものをたくさん取り込んでいて
もはや自分というものがどこにあるのかさえわからなくなってきた
異物を出すことさえ禁じていた
そういう意味で絵を描くことが
自分に戻る最初のステップだったのだろう
絵や文字や話すことでアウトプットしたり
自分の周りの人間と向き合うことや
いろんなツールを使って
まずは"自分を知る"ということをやっていた
これは本当に自分の大切にしてる観念か?
ほとんどのものが外から与えられたり
植え付けられたもので
それを少しずつ削ぎ落としていくと
とってもシンプルなところに辿り着いて
だから気づけば気づくほど
生きることでが楽に軽やかになっていく
動けない重たい不自由だというのは
自分以外のものをたくさん背負っていたからだった
ネガティブに思えるような出来事も、
人物も、病気も、
自分の内側にあるものと共鳴して
自分のわかりやすい形で現れてくれている
どれも敵ではなく
自分の中の不要な観念に気づき
手放す機会を与えてくれている
身軽になる機会を与えてくれている
共鳴して、排出させる
そういう意味で子供の出産という"出す"行為は、大きなデトックスのきっかけだったんだろうな
その分子供に背負わせてしまったものも多くて、ごめんね、と思うけど
自分を生き直すとてつもなく大きなきっかけをくれている。
生まれてきてくれただけで、一生分の親孝行を果たしている。
外からの基準ではなくて
自分手前判断できるようになること
自分の基準で必要なもの、不要なものを
分けられるようになるための
小さな声を聞く練習中
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