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大好きな兄が死んだ話

2017年6月22日、兄が死んだ。気づいたら7年もの月日が経っていて、わたしは彼の死んだ歳に追いついた。そろそろ、あの日を思い出してみてもいいんじゃないか。そう思えるようになってきた。お盆の力を借りて、書いてみたいと思う。

わたしの兄は、大きな志と書いて大志という。名前は力強いんだけど、160センチぐらいしかないし、肌が真っ白で童顔で、目を細めてフニャッと笑うすごく可愛いひとだった。

夏は暑い暑いと口いっぱいに氷を頬張って出かけて、冬は紺色のもこもこのダウンを着込んで首をすぼめていた。春と秋は思い出せないけれど、いつも同じ服を着るのが好きなひとだった。

年齢が8つ離れているので、小さい頃はよく馬鹿にされて喧嘩した。テレビのクイズ番組でイタリアの場所を聞かれて、知らないと言ったら大袈裟に驚かれたので怒って部屋に籠ったことがある。まだ小学2年生のわたしに元素を20まで一緒に覚えようとけしかけて、そこでも何か揉めたんだった気がする。

真っ暗な部屋でリリーちゃんのお人形をカチャカチャ激しく動かしておどかしてきたり、わたしが炬燵で足を伸ばしていたら上に足を乗っけてきたり。横に並ぶとわたしの頭に肘を乗せてくるので重たくて嫌だった。よくちょっかいをかけてくる、いたずらっ子なところも可愛かった。

中学生の頃から勉強を頑張るようになって、地元の一番いい高校に進学した。高校生の頃ドラゴン桜を見て東大に行くと言い出して、文転して世界史の勉強を始めた。暗記したいことを小さな手書きの文字でA4にまとめてトイレのドアに貼っていた。コツコツ努力するのが得意なところを尊敬していた。なかなかトイレから出てこなくてちょっと迷惑だったけど。

晴れて東大に受かると、まだ小学生のわたしは彼が東京に住むんだということを受け入れられなくて大泣きした。隣の兄の部屋はいつも暗くて、本棚は半分ぐらい空になっていた。たまにこっそり部屋に入って、彼の気配を感じようとしてみたこともあった。あんなにうざかった大音量のオレンジレンジが恋しくなった。

大学生になると、兄は変わった。所謂大学デビューというやつで、柔らかい黒髪にパーマをかけてみたり、バンドを組んでみたり、演劇サークルで合唱もやっていた。兄が主演をつとめる舞台を母と2人で見に行ったこともあったけど、終わったあと恥ずかしそうに「きてくれてありがとう、どうだった?」と言えた兄はすごく大人だったんだなと思う。

学生時代からいろんなタイミングで父とぶつかって、地元は息苦しかったのかもしれない。新卒は地元で就職したけれど、一年ほどで東京へ戻った。転職先でも、真面目で優しくて繊細な兄はのびのびやれていなかったんじゃないかと思う。こまめにLINEはしていたし、電話もたまにしていたけれど、もっとちゃんと話を聞いていればよかった。

仕事がつらいと言う兄に、そんなの辞めて帰ってきなよと言えばよかった。どこに行ってもなんでもそつなくこなせるんだから、無理にその場所のその状況を我慢しなくていいと言えばよかった。それか、わたしが東京に会いに行っていればよかった。あの目黒の小さなアパートでも、布団を横に並べて夜通しおしゃべりするぐらいはできたはずなのに。

兄がつらい時期、わたしは適応障害がやっと落ち着いてきて、大学進学の準備を進めていた。引っ越し、新生活、留学準備、3月からバタバタと自分のことに目を向けていたら、死んでしまった。死んでしまったんだ。

最後に会ったのはゴールデンウィークで、そのときも親に仕事がつらいと話していた。心療内科にはすでに通っていたけれど、早く治りたい一心で薬を飲むのをやめてしまったと言っていた。なんだか元気になってきた気がする、と母にメールがきた数日後、さよならと連絡が届いていたらしい。

その日、わたしはいつも通り大学にいた。木曜の5限、教育学の大好きな先生がファシリテーターをつとめる授業で、学籍番号の順に席についた。あと数分で始まるというところで、父からLINEが届いた。「悲しいお知らせです 大志が自殺しました 詳細は後ほど」

3行に改行されたそのメッセージは今でも目に焼き付いていて、これからもきっと忘れることはない。動悸が激しくなる、呼吸が苦しい、喉が渇く、そんななかで最初に足元のリュックに手を伸ばして、大量の本のなかから大学配布のスケジュール帳を取り出した。

きょうだいが亡くなると、何日休めるんだ。後ろのほうのページを荒っぽく捲る。二親等の忌引きは3日まで。今日5限に出ずに休んで一日、明日で二日、お葬式がいつになるかわからないけれど、月曜日までは休める。それを確認して重たいリュックを片手で持ち上げて、背負う間もなく急いで教室の後ろの先生に声をかけた。

ぱくぱくと口を動かしたけれど、何を発したのか覚えていない。膝から崩れ落ちるように倒れて、向かいの部屋まで連れていかれて、そのまま過呼吸になった。その間、先生は叔母と電話をしてくれているようだった。

保健室の先生が来て、もう少し落ち着いてからにしたらと言われながら、今から急いで帰りますと伝えた。当時付き合っていたパートナーに連絡して、LINEでやりとりしながら、新幹線に乗って帰った。ぽろぽろととめどなく涙が出てくるのをタオルでぎゅうぎゅう押さえながら、何も感じないように一声も出さずに帰った。

家に着くと、両親はいなかった。東京で現場を確認して、2人でホテルに泊まってくるらしい。夜に父から電話がきて、ネクタイで首を吊ったらしいと説明された。それからわたしは兄がどこかにぶら下がっているんじゃないかと怖くて目を瞑れなくなる。ネクタイで首を吊るなんて、本当に仕事に殺されたようなもんじゃないか。

1人で寝るのが怖くて、祖母の部屋で寝た。叔母が来てくれて、わたしの手をさすりながら「大丈夫、大丈夫」と言っていた。わたしは何にもすることがないので、長いこと泣いて、疲れて寝た。

遺体が実家に戻ってくると、父がわたしを呼び出して「お化粧が終わるまで、見ないほうがいい」と言う。首に痣が残っているので、見るとつらいと思うから、と肩を抱いた。つらかったのは、父だったんだと思う。祖母と叔母はそんなことは知らず、帰ってきてすぐに兄の顔を見た。どうしても早く見たくてわたしも見てしまって、すごく後悔した。

お化粧をするとき、葬儀屋さんはわたしを呼んでお顔の確認をさせてくれた。口紅はどうしましょうか、もう少し濃いほうがいいでしょうか。髪はどうしましょうか、こんな感じでどうでしょうか。随分と化粧っ気のある顔になった兄は、やっぱり人工的で違和感があった。

髪を洗って、身体を洗って、だいぶ時間が経った。みんなで兄の身体を洗うなんておかしい、兄が死んでいると受け入れざるを得ない。棺に入れられたレモンの防臭剤の匂いとか、みんなであーだこーだ言いながら遺影を選ぶ時間とか、流石に死んだとしか思えない。それなのに、全然死んだなんて思えない。

「寝てるみたいなんだよ」と言う母も、「歌うような口元なんだよ」と言う父も、悲しみきれていないように見えて心配だった。もっと大騒ぎしてもいいのに。怒って花瓶を投げたっていいのに。八つ当たりして怒鳴り散らかしたっていいのに。なんで見せてくれないの。なんでそうやって静かに悲しむの。わからない、わからない、それでもわたしはいつも通りいようと思った。

一緒にご飯を食べるときも、努めて明るく振る舞った。変にテンションが高すぎるのもおかしいから心配されない程度に明るく、タスクを整理して先回り。面倒なことは済ませておいて、両親にしか対応できないものだけお願いしよう。そんなふうに過ごしていたら、わたしの心はそのまま木曜の5限に置いてきてしまった。

それから毎週土日は実家に帰省した。金曜の夜に帰って、日曜の夜に名古屋へ。ちゃんと顔を見せなくては、元気だよって伝えなくては、心配させたくない、わたしは生きてるよって、死なないよって見せなくては。ご飯をちゃんと食べているか、夜は眠れているのか、自分が親になったような気持ちで様子を窺った。他人に気を配ることで、自分にぽっかり空いた穴を見ないようにしていた。

大学のカウンセリングに毎月通っていたけれど、ずっと話を聞いてくれていた方が年度末に異動することになって途切れてしまった。他のカウンセラーに最初からもう一度語り直す気にはなれなかった。

留学に行く前の大事な時期だから、ここで行けないなんて絶対嫌。せっかく適応障害が治ったのに。行きたい大学とは言えないけど、やりたいことがやれる大学に入れたのに。ここで落ち込んでいたら時間を無駄にしてしまう。どうにか短期目標を立て続けて寿命を延ばした。そうやって、今日まできてしまった。

火葬場の、あのなかに棺を入れる瞬間が嫌だった。死んだから、燃やす。骨になって出てくる。待ち時間にお菓子を食べてお茶を飲むわたしは生きている。なんで生きているんだろう。わたしが生きていて、彼が死んでいるのはなぜなんだろう。こんな思いをするくらいなら、わたしが死にたかった。けど、こんな思いをさせるのは嫌だから、生きていてよかった。

ずっと腑に落ちないまま、7年も経ってしまったけれど。今日もわたしは生きていて、今日も彼は死んでいる。生きていた時間があって、一緒に過ごした時間があって、それは7年経ってもなかったことになっていないらしい。彼のことを忘れていってしまう罪悪感と、いつまで経っても悲しみが消えない苦しさと、この気持ちを少しずつことばにできるようになったわたしがいる。

乗り越えるとか、立ち直るとか、兄の分まで生きるとか、そういうのいらないからずっといなくならないで。死んでいてもいいから、これからもわたしとともにいてほしいと思った。


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