算数障害だと思って生きてきた 〜私の分からなさ〜
本題に入る前に本を紹介したい。
noteで知り合った作家さんで本田すのうさんという方がいる。
「自文紹介」という面白い企画をされていて、コメントを通じてご挨拶させていただいた。すのうさんが書く文章は、とてもわかりやすく且つテンポが良くてスルスルと読めてしまう。
そんなすのうさんがKindleで出版されました。
タイトルを見た時に衝撃を受けた。
自分以外の大人でこんなにもはっきりとしっかりと「算数障害」であることをカミングアウトしている人に初めて出会ったからだ。
たまにXなどのSNSで自分が「算数障害」であると言っている人を見かけるが、正直「本当に?そうなの?」と思ってしまう自分がいた。
算数は積み残しがあるとその後の学習にどんどんついていけなくなるので「みんな、やればできるタイプじゃないの??」と横目にみていた。
私自身、診断を受けているわけではないので〝自称〟ではあるんだけど。
診断については後でまた書くとして。
とにかく。
内容にとても共感した。首がもげそうなくらいうなづきながら読んだ。
そして、私も自分の「算数障害(ではないか)」について掘り下げて、発信してみようと思った。
私は、学習指導の専門家ではないし、医学的な専門家でもない。
これから、自分がこれまでの身につけたスキルや知識を記していこうと思うけど、読む人はどうか「ちょっと参考に」程度の気持ちで読んでほしい。
さて、算数障害と言っても状態は人によって違う。
私の話が今どこかで悩む誰かの役に立てられたら嬉しい。
自分のことを変だなと思ったのは小学生の頃でした。
みんなが出来るようになっていくことが、私はどんなに覚えよう、理解しようとしてもできませでした。
子どもの頃の私
足し算や引き算を学習し始めた頃は、みんなと一緒に指折り計算していて
それが当たり前だったのに、気づいたらみんなは手を使わずに計算できるようになっていました。
指折り計算するのが恥ずかしくなり、次は両手を机の上に出して指を見つめて計算する(数える)ようになりました。
「イチ 二 サン・・・」と数えるたびに指一本ずつに力を入れていきます。
指を折ることができない代わりに、この指は数えたと意識するためにグッと力を入れる必要がありました。
そのうち数が大きくなると両手の指を行ったり来たりするようになり、訳がわからなくなってしまいました。
〝指〟ではどうにもならなくなってからは、ノートに点(・)を書いてその点を数える方法をあみ出しました。
10 20 30…は覚えていたので「10」は「○」で表すことにしました。
書いている時に答えがでるのでは?と思った人もいるかもしれないけど(ジュウハチ ジュウク ニジュウ…)と唱えながら5つの点を書くことはできません。
いくつ書いたのか分からなくなるので、1つ書いては点を数え直して、点を数え直したら全体の数が分からなくなるので(ジュウハチ ジュウク…)も唱え直しで、もうどっちがなんだか分からなくなってしまいます。
点(・)を書いていくことにも限界を感じるようになります。
テストでは点(・)を数えていることを知られないようにしなければいけません。
問題を解くたびに点(・)を書いては消してを繰り返すことになります。
次に点(・)を書くのではなく、テストの問題文などの文字を点(・)の代わりに数えるようになりました。
筆算を書けば時間がかかるもののなんとか解くことができますが、筆算の形式になると数字が踊るように見えます。位を揃えて書いても、指差ししながらでないとどこの位を計算しているのかわからなくなってしまいます。筆算をどのように解いているかは「小学校で学び直した成果と見える限界」でお話ししています。
小学校の低学年でこの状態だった私は小学校6年間、中学3年間、高校3年間かなり苦労をしたはずです。自分のことなのに「はず」というのは、どうやって算数や数学をこなしていたのか覚えていないからです。
学習が身につかないので、学習内容を覚えられない=その時の記憶がありません。
高校を卒業した後は、福祉系の短大へ進み数学からやっと解放されました。
誰にも気づかれず、当時は発達障害の知識もないし、世の中にも浸透していなかったので、私はただ「算数ができない子」でした。
高校や短大はどうやって進学したのか気になるところだと思いますが学校推薦です。なので、どちらも筆記試験を受けていません。
筆記試験を受けたら永遠に入学できない。
両親も先生もさすがにそれはわかってくれていたようです。
どうして分からないのかを考えてみる
数の基礎
【数】を理解し、使えるようになるためには「数の基礎」になる力が必要です。
「数の基礎」には3つの項目があります。
この3つがトライアングルのようになっていて、3つが揃ってできるようになることで【数】への理解が進み、さまざまなことができるようになります。
自分ができること(できたこと)を振り返ってみると、この3つはできているような気がします。
数概念
数概念には「順序数」と「集合数」というものがあります。
私は、この「集合数」が極端にできないようです。
「順序数」と「集合数」の間に大きな凸凹があります。
分からなさ
自分でも不思議だと思いますが、私の分からなさはこんな感じです。
前から4番目がわかるなら、前から4人もわかりそうなものなのに。
その場面になると????と思考が停止してしまいます。
量(数)を捉えようとすると物が動いて見えるような気がするんです。
「気がする」というか、私には〝モノ〟が地面にいるアリのようにぐちゃぐちゃに動いているように見えています。
分からないのは「バラバラになっているモノ」に限り、比べるモノが長さや大きさであれば大体分かります。
長さや大きさは、ひと塊りになっているので数える必要がないからだと思うのですが、この違いを説明するのはとても難しいのです。
私の中で数字は記号です。
私には「163-8001(東京都庁の郵便番号)」が「○△×☆✳︎✳︎○」と同じような感じに見えています。
確かに目には数字が写っていますが脳内では「○▼※△☆▲※◎★●!?」のように浮かんでいて、それを数字に変換する作業をしている感じです。
数字を目にした時はどんな時もこの変換作業をしないと、読むことも計算することも覚えることもできないのです。
専門家ではないので説明がおかしいかもしれませんが、皆さんにとって数字は単位がつくことで「量」という〝意味〟をもちますよね。
私にとっては、単位がついてもなかなか〝意味〟をもってくれません。
過去にこんなことがありました。
小学校で学び直した成果と見える限界
先のエピソードに書いた通り、私は小学校で介助員や支援員として働いていました。
途中、1年ほど小学校の仕事から離れた期間がありますがトータルすると14年ほどになります。
仕事をしながら、1年生の児童と一緒に毎年のように算数の勉強を基礎からやり直していました。
初めの頃は1年生と一緒になって頭を抱えていた内容も毎年繰り返すことで少しずつ出来るようになってきました。
子どもの頃、学習についていけず覚えることもなかった10の合成分解(いくつといくつで10になるか)が気づいたら覚えられていた時は感動しました。
これが34歳くらいの頃です。
小学校で働き始めて6年ほど経っていました。
(ちなみに今も働き始めた年齢から34までを指折り数えたところです・・・)
それまでは、10の合成分解を「9と1」「5と5」「8と2」「7と3」くらいしか答えられなかったのです。
「7と3」でも答えるのには足し算をするのではなく「ハチ ク ジュウ」と唱えていました。3つくらいまでなら唱える方法でも答えられます。
ただ、唱えるのにも頭の中だけでは不安なので頷くように3回首を縦に振りながら「ハチ ク ジュウ」と唱えます。
そのため、「7は、あといくつで10か」という問いの答えを出すのに、まあ3秒はかかっていたと思います。
あえて大きな数(9・8・7)を先に書いていますが、子どもの頃は「3はあといくつで10か」と問われたら、4から10まで指を折りながら唱えていました。
それが九九と同じように逆でも大丈夫なんだと気づいたのも小学校で働き始めてからでした。
少しずつ算数の力をつけたかのように思いましたが、ついていけたのは2年生の学習内容くらいまででした。
数が三桁を超えるとその数を読むことも大変で、今でも毎回(イチ ジュウ ヒャク)と位を確認してから数字を読んでいます。
このような状態なので学年が上がると問題文を読むだけで一問解いたかのような労力を使いました。
最近は一の位だけ繰り上がりがある計算なら時間はかかるけど暗算できるようになってきました。
〝できるようになった〟本当の意味の〝できる〟とは程遠いでしょうが
私の頭の中はこんな感じになっています。
これが「計算」している時の私の頭の中です。
実際に今35+16をやりながら打ち込んだ結果です。
無駄な思考が多く、数が数として成り立っていません。
文字にしてみると「10」を「10」として捉えられていないのがわかります。
「10」は「1」と「0」が隣り合わせにいるだけの記号なのです。
生活の中での困りと工夫
大人になるにつれ、自分が「前から〝4〟番目」の場合「前から〝4〟人」に含まれることを覚えました。
これは「理解した」とは違い、説明が難しいですが暗記のような感じです。
このように大人になるにつれ「この場合はこう」という対処法を身につけていきます。
日本語の表現はとても難しく、言い方が違うけど意味はほとんど同じという場合があります。
自分の中の語彙が増えたり、生活経験が増えたりしていくと代替え方法を自然と身につけていったり、自分に合う方法をみつけられたりします。
時計はアナログとデジタル両方で
デジタ時計だと自分でメモリから数字を読まなくていいので、すぐに時刻を知ることができます。人に時刻を伝えるような場合はデジタル時計があると助かります。
ですが、デジタル時計だと約束の時刻まであと何分かが分かりません。
例えば、現在時刻が12:15くらいで約束の時刻が12:30ならキリが良いので「あと15分」だと分かりやすいですが、約束の時刻が12:50だとあと何分なのか分かるのに時間がかかります。
この時、私の頭の中はこんな感じです。
これを3周くらいしてやっと「たぶん35分」と辿り着きます。
まさに今も35分であっているのか自信がありません。
アナログ時計があると時計のメモリは覚えているのでメモリを数え「10 20 30。あと5だから35だ」と知ることができます。
家計管理は最低限
私は夫の給料の金額を知りません。貯蓄の額も知りません。
全て夫に任せています。
私は大きな額になると金額を読むことすら時間がかかってしまうし、残金を把握することがとても難しいのです。
会計はほぼ全てカードやコード決済です。現金での支払いはとても苦手です。
例えば「534円」の場合「600円」と支払いがちです。
つまり一番左の数字(この場合、百の位)が大きければ払えるという感覚しかありません。
頑張って「550円」を出す時もありますが、財布の中は常に小銭でパンパンなので50円玉がなければ5円を5枚拾い出す作業にも時間がかかってしまいます。
小銭やお札の価値と数字を対応させて理解するのが苦手なので、高価なものでもよく考えず買ってしまうことがあります。
買ってしまってから残金を理解して「こんなに高いものを買ってしまったのか」となることは頻繁にあります。
「小銭やお札の価値と数字を対応させる」というのが分かりづらいと思いますが、簡単にいうと10000円札と1000円札の価値の差を理解しにくいのです。
0の数が違うから分かるだろうと思われそうですが、私の中では一番左の数字で金額の大小を判断しているので1と1だと実感しにくい感じがします。
では、日々の生活費をどうしているかというとこんな感じです。
数字を覚える
電話番号は語呂合わせで覚えます。
数字の羅列を覚えられないので、語呂合わせにするわけですがそれはそれで大変です。
これに関しては、慣れたもので私が脳内でこんなにも面倒な作業をしていると他人に気づかれないくらいには早いスピードで変換できるようになりました。
診断が難しい
ここまで頭の中がぐちゃぐちゃになっていることをちゃんと自覚したのは、大人になってからでした。
働くようになりSLDが広く知られるようになり、それでも一般的には「読み書き」の方が認知されているので私自身が自分を疑うのもかなり後になってからでした。
周囲の人に算数(数字)が苦手だと話しても〝謙遜〟と捉えられてしまうことが多く「私もそんなもんだよ」と言われてしまうことばかりでした。
ある時、ディスレクシアのお子さんに出会い、その子のためにも「分からなさ」をきちんと伝えないといけないと感じ、職場でカミングアウトしました。
それでも、算数障害というのは理解してもらいにくいものです。
算数という教科の特性上、ただ学習の積み上げができなかっただけだと思われることが本当に多いですし、実際にそうだろうという方もいると思います。
カミングアウトをした時に私自身が診断を受けていないために周囲の人に認めてもらいにくいのだろうと思い診断を受けようと病院を調べたことがありました。
ASDやADHDに関しては大人でも診断をしてくれる病院があります。
ところが、算数障害となるとその数はぐんと減り、私は病院を見つけることができませんでした。
算数障害は、私がここでお話ししたように、生活の中で自分で自分がわかるような工夫を身につけていきます。それが染み付いてしまうことにより、正しい診断ができないーと何かで読んだ記憶があります。
日本文化科学社というところが「LDIーR」というLD判断のための調査票を販売しています。これは、子どもを実際に指導し学習状況を熟知した指導者や専門家が回答(対象児童・生徒が理解しているかをチャックリストで回答)するものです。
一度、自分で自分のチェックをしてみましたが、やはり自分でやるものでもなく、大人になってしまっているということもあり、チェックしきれませんでした。
おかしいなと思ったらなるべく早く
発達障害は特別なことではありません。
現代では、障害は個人ではなく環境にあるものと考えられています。
ADHDもASDも、みんながそれぞれ何かしたらの特性をもっていて、その特性のグラデーションで生活に支障がある(環境に障害がある)のかが変わってくるのだと思います。
環境調整をすることで障害がかなり減る(生活が楽になる)ことは大いにあります。
よく用いられる例えですが、目が悪い人はメガネをかけることで環境を調整し「障害」を取り払います。
完全にとは言えなくても、本人にあった環境や生活の仕方が見つかればかなり楽になると思うのです。
SLDも同じです。特に、読み書きに関しては、拡大図書を使う、パソコンを使う、音声入力を使う、読み上げ機能を使うなどでかなり生活は楽になります。
算数障害に関しては、まだまだそのようなツールが少ないのが現状です。
スマホの普及により、数字を覚える必要が減ってきたし、いつでも電卓を使えるし、単位換算も計算も全てスマホがやってくれます。が、それは支援の方法がひとつに限られてしまうのです。
具体的な物を扱う日常の中では、算数障害にとってはまだ大きな壁(障害)がたくさんあります。
メモリに細かく数字が振られていない時計、メモリ幅が大きい計量カップ、店内と店外で違う消費税。
世の中には数字が溢れていて、みんなが当たり前のように数字を扱って生活しています。
何も武器を持たないまま、大人になり社会に出てしまうとつまづくことだらけです。
子どもの頃に、自分の苦手を理解して武器を持つことで、自分の力で「障害」を取り払いながら生活していけるようになります。
お子さんでも、自分自身でも、少しでも「人と違う感じ方」をしているかもしれないと思ったら、専門家に話を聞いてみてください。
少しでも早いほうがいいです。
診断がつかないまま、壁を自力で乗り越えるのは大変です。
私の経験が少しでも多くの人の役に立ちますように願っています。
これを読んでくださった方の中に、大人でも算数障害の検査(診断)を受けられる先をご存知の方がいたら教えていただけると嬉しいです。