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優しくて傲慢な人々
うちの家族はごめんねが多い。昨年の夏久しぶりに帰った実家で思った。ちょっと鬱陶しいくらいだ。少しの身体接触やちょっとした誤解、また食事の席など一日に10回以上は謝っているのではないか。あまりに謝られると恐縮するし、そんなことないよと返さなくてはいけないプレッシャーを感じる。なぜならこの謝罪は心からの申し訳なさではなく、許され肯定されたい、そうしないと心が落ち着かないという焦燥から来ているからだ。
気付くとわたしもごめんねが多い人生だった。とりあえず謝る。場を取り繕う。そしてそんなことないよ、大丈夫だよと強く言ってもらえないと激しく落ち込んだ。わたしにとってのごめんねは傷つけないで、わたしは間違ってないよねという心の叫びだ。そして大きくなるにつれて気づく。間違いを犯しても他人に肯定してもらいたいなんて、なんと傲慢なのだろうと。
わたしの家族は極めて善良で間違ってでも他人を傷つけることはないような人々である。でもその中に潜む、だからこそ他人を不用意に傷つける人は許さない潔癖さと傲慢さも垣間見える。今でも鮮明に覚えている、小学生4年生の子ども会の運動会。ハッカパイプや水あめを食べながら友人とつるむのが楽しかった。割りばし二本で練る水あめは鉄棒などの遊びには邪魔なので母親に預けた。水あめなどとっくに忘れ友人達と遊び転げていた時、母親がわざわざテントから訪ねてきた。水あめまだ食べると。友人はびっくりして「うちならとっくに食べてるよ。〇〇ちゃんちのママすごいね。」母の行為は善意からくるものだった。しかしこれがスタンダードではないことに初めて気づき少し居心地が悪かった。
成長するにつれて気づく。学校で目立ったり会社を引っ張る人々はみなあっち側の人だ。ごめんねが多い繊細なわたし達の対局にいる、強くてはっきりものを言う人達。多少誤解されても気にせず、ごめんねは本当に申し訳ないと思ったときに使う人達だ。高校を卒業したてのバイト先、喫茶店で先輩パートの物言いがきつくいつもびくびくしていた。言いたいことも言えなかった。就職するとこれではいけないと気づき少しずつ自分を修正してった。法人営業に配属され新規開拓をまかされ電話をかけ続けた日々。断られることに少しずつ慣れていった。強面の人々のうちに潜む優しさや温かさにも触れ、表面のぶっきらぼうで強気な言い方には気にならなくなった。
今もごめんねは少なくないし、その傾向は残っている。今朝パソコンを開けるとメールが届いた。今朝9時の末っ子の言語聴覚の検査をすっかり忘れていたのだ。もちろんすぐ返信した。本当に申し訳ないと。半分は心からの謝罪ではあるが、もう半分は許されたい、わたしは無責任な人ではないと認めてもらいたいからの希求であった。すぐに返信がきた。
連絡ありがとうございます。大丈夫ですよ、次回のアポの時また検査しましょう。
許された。わたしは無責任な人じゃない。自分の傲慢さに気づき恥ずかしさでいっぱいになった。もっと強くあらゆることにもう少し鈍感に生きたい。ワッツアップやLINEの返信が溜まっても忘れてしまうような人になりたい。丁寧に生きたいと思っているのにミスが多いわたしは強く鈍感になることもできずそんな自分を肯定されて甘やかされたいと願っている。
こんな傷つきやすくてきちんとした大人になれるか不安だった大学生時代。なんとか社会人になり結婚し母になった。時々見せる優しくて傲慢な自分をせめて嫌いにならず、ほどよく付き合っていきたい。