困難校での美術教育実践①〜出会いと可能性〜
書籍「ケーキの切れない非行少年達」を知る多くの人が、「3等分出来ていない円」や「模写出来ていない図形」にショックを受けたのではないでしょうか。
あの絵がキャッチーなアイコンとして話題を集めたのは、彼らの認知能力が「可視化」されたからに他なりません。
美術は認知(鑑賞)と可視化(表現)の教科です。
これは私が定員割れの教育困難校に勤めていた時、そこで出会った生徒達の実態と取り組みの記録です。
出会い
私がその高校に赴任したのは教員3年目。
非常勤講師として1人で全学年の美術を担当していた。
(ちなみに、教育困難校で実質教科主任の非常勤講師をすると特別指導や出席停止の別課題や、補習関係、その他トラブル対応でとんでもない量の無法な労働に手を染める事になります。気をつけてください。)
前年度が短ランにボンタンを着た金髪の生徒が闊歩する中学校だったので、それなりに肝も座って余裕が出てきた。そんな頃の赴任だった。
年間の退学者は両手の指では収まらず、いじめ、タバコ、バイト先トラブル、無免許運転、貧困、地域からの苦情、不登校、特別指導、停学。
1時間席に座っていられない生徒多数。
閻魔帳は特記事項で真っ黒。
内申等は興味が無く「卒業出来たら良い」生徒が過半数。
最低限の労力で欠点ボーダーギリギリを取ってバイトと恋愛、青春をエンジョイするのが要領良くて賢い選択だという生徒内の風潮。
誤解を恐れずに書くと「加害対象を探して全方向に喧嘩売ってる奴」と「被害にあいそうな鈍臭い奴」の吹き溜まり。
非常勤も歩けばトラブルや要指導に当たるもので、勤務外なのでスルーしたいけれど生徒に「先生の前でやっても注意されなかった!」と負の成功体験を積ませるわけにもいかず無限に仕事が増えていく。
対策、避けるために授業外でなるべく生徒達と鉢合わせないようにコソコソ動く。
こんな逃げるような真似したくは無いんだけどさ。
勤務時間外に生徒と押し問答をして、高価なスマホを預かり、担任を探し出して、状況を説明して引き継いでいる暇は無いんだよ。助けてくれ。…本題に戻ります。
どうしてもデッサンができない
どうしてもデッサンができない生徒がいた。
一般的なパースが狂うだとか歪むではない。
輪郭線を追っていたはずが、線のどちら側がモチーフでどちら側が何もない空間かを見失い、キュビズムのようなねじれた図形の組み合わせになるのだ。
そしてその生徒は間違いなく「一生懸命描いている」。
私も前の席にいた友達も言葉を尽くして違いを説明するが、どこがおかしいのかうまく伝わらず一緒に困ってしまった。
私「この線はここの指の形だね、ここから出てるこっちの線は何処を見て描いたの?」
生徒「(モチーフと絵を見比べる)分からない…」
決して適当に描いただとか、無いものを想像で補ったわけではない。
目の前のモチーフを一つの物として認識できずにバラバラで認識した情報を無理やり紙の上で再構成していたのだ。つまり天然でキュビズムのプロセスを踏んでいた。(キュビズムに詳しい方ごめん。)
結果、大きさも形もぐちゃぐちゃのキメラができあがり、自分はどこを描いているのか分からずに、書き込もうにもどこに描き込んでいいのか分からずに困っていた。
危機感
そんな生徒のデッサンを見て大学で教職の講義の中で紹介された「ケーキの切れない非行少年たち」を思い出して手に取った。
「第1章「反省以前」の子どもたち」の始めに示されるRey複雑図形の模写課題の再現の崩れ方のパターンは生徒の描いた絵と酷似していた。
これは「下手」で片付けていい問題ではない。
見えていないに向き合ってきた
高校美術科時代「デッサンはカンニングテスト」「見る力8割」とよく言われた。
目の前に正解があって堂々とカンニングしていいテストで点を取れないはずがない。描けないのは見えていないから。という理論だ。
なまじ手先の器用さに自信があったものだから、己の目の節穴っぷりをこれでもかと突きつけられた。
デッサンの狂いを指摘されては、「言われるまでおかしいと思わなかった」「なんでこんなことにさっきまで気がつかなかったんだ」たくさん打ちのめされてきた。
見えない辛さは共感できる。
程度の差はあれど、自分の認知と現実の齟齬に人一倍向き合ってきた自負。
冷静に正確に捉えるために自分の認知力と向き合い、才能を覆すべく知識と工夫で補って、苛烈な美大受験レースを戦ってきた実績。
これは私の得意とするところかもしれない。
美術は寄り添える教科
美術は他教科と比べて指導者裁量がかなり大きい。
高1だからと言って四則演算も危ういのに二次関数をしたり、高二だからと言ってアルファベットも危ういのに関係代名詞をする事を求められない。
勉強について行けないストレスからの逃避行動で荒れたり無気力になったりしている生徒達にとって、ついていけない授業内容は逆効果でしかない。
(そもそもの発端は、家庭、友人、入院、何かしらの懸念事項によって勉強どころでない状態に追い込まれた事や、発達障害や学習障害そのグレーゾーンだったりする。)
また、美術に苦手意識を持っている生徒は他教科に比べて少ない。
選択教科の場合、少なくとも音楽や書道よりマシと思って選択している。
教員は敵だと認識している生徒も、話せば分かるかもと思っている。筆記テストも無いし。
困難校でも教員と生徒、双方が歩み寄れる条件が揃っている教科。
スタート位置は悪くない。楽しくて「できる」「わかる」授業をしたい!
…というか生徒達の「分からん」「飽きた」「つまらん」に対する反応はとても素直な形で表れ、授業妨害に直結する。
(だから指導要領と教科書で内容の固定されている教科は生徒教員双方が本当に気の毒。)
生徒達の学ぶ権利と、自分の精神を守るために必死で対策をする事となりました。
結果、認知機能やワーキングメモリをあらゆる方法でサポートして、「できる」「わかる」を提供しつつ高めていく構成に固まっていきました。
認知機能のサポートを軸に美術室編、提出物編、鑑賞授業編、表現授業編、といった具合で全5回ほどで実践の記録と成果を記事にまとめていく予定です。
あくまで一例とはなりますが何かしらのお役に立てる事を願っています。
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