みんな教育をどうしたいの?
教育は過渡期です。過渡期は「古いものから新しいものへと移り変わる途中の時期」。でも、大きな変化に気づきにくいから、「うーん」って大人も少なくないですよね。教育に興味のある方は、この音声配信は聞いてもらいたいです。
これを聴いても、学校の中の人(教師)も、子どもも保護者も頭を悩ませると思います。それぐらいの転換期です。でも、対立しても何の解決にもならないので、対話のヒントになればなと思うことを書き連ねます。
学校そのものの在り方
学校自体に違和感を感じることが多いです。この違和感が何からきているのか(全部だろっ!ってツッコミはなしで)を紐解いていくことが必要じゃないかなと。
大切なものはなに?
学校は何をするところ?
授業って何をするべき?
改めて問い直してみていいんじゃないのかと。「当たり前のこと聞かないでよ」ではなく、「ホントに大切なものってなんでしたっけ?」って改めて問い直す時期ではないですかね。
いい授業とは
「いい授業を提供すること」だと、言い切ってしまう学校関係の方にもよく出会いますが、「いい授業」ってのは何に対してなのですかね。教室の全員が心を動かされるってことは、よほどのことでもない限りはありえない。子どもたち全員が、同じように感じることのほうが気味が悪いですし。「よかった」と感じる子もいれば、「やる気がしない」って感じたり、「今日はちょっと無理」って思ってみたり、「ふーん」ぐらいだったり。
受ける側だって、いろいろじゃないですか。だからこそ一斉スタイルでの「いい授業」って口にしないほうがいいって感じてます。授業が終わった瞬間に、生徒たちからのスタンディングオベーションが沸き起こるようなことって見たことないんですし。特に学校では見たことない。
お互いにとって「いい学びの時間だったなー」って言えるようなもののリデザインが必要になってきてますよね。だから、対話的で深い学びって言われてるんですけどね。ホントに「授業をする」に対して真剣に取り組めば、学校って変わると感じてるんですがね。。。
状況に応じた「考える」が足りない
対応をマニュアル化してみたり、これまで通りで進めたりするのが学校なのかと感じるんです。
部活動やら学校行事を減らすって判断をできない。何が何でもやめてくれとは思ってもいませんが、教育課程外のことに重きを置きすぎてはいませんか?の問いに対して「これまでこうしてたから」で対応してしまう。
学校外でのトラブルや、クレームに対して、受けてしまう。学校の営業時間だってあるわけなんだから、電話をクローズにしてしても問題ないんじゃないですか?の問いに対して「これまでこうしてたから」で対応してしまう。
多くのことを「これまでこうしてきたから」として、判断を先延ばしにして、考えないと決めているとボクには見えてしまう。「これまでこうしてきた」というフレーズに囚われて、変えることに対して確証が持てない。「やめちゃったらどうなるの?」・・・想定しましょ。そのときに判断しましょ。授業だってそう。彼らからの反応に対して、その瞬間にどう反応できるのか。どう対応するのか。教師って仕事するなら、教えるじゃなくて、ライブでどう対応するかを楽しむ必要があるんじゃないかなって。失敗したっていいじゃないか。誰でも失敗するもんなんだから。
安心・安全な場
大人側が、萎縮して、安心・安全を感じられないのであれば、そこにいる子どもたちだって安心・安全を感じられないものでしょう。お互いに自己開示ができないような状況って、お互いにとってよくないことですよね。
人の在り方って多様であっていいわけで、1つの在り方がだけが正解であるわけでもない。自分が自由であり、周りにいる人も自由でいられることを、調整しながら、みんなが自由でいられる場が学校にあるべきで。
「そんなのムリ」って言ってしまえば、学校が必要でないってことでしょ。ボクは教員ってものを一応しているので、「そんなのムリ」って決めつけずに、どうしたら多くの安心に対応できるのかを、考えていこうかなって。まずは授業の時間がクリエイティブで、楽しくて、お互いが自由を感じられるそんな環境設定が必要ですよねと。
選んで、対話して
全員が、同じものを欲しているわけでもないので、「これがいい」とは言いませんし、言えませんが。大人が(子どもも)判断するまでにキチンと時間を費やして、考えて欲しい。それでも、「なんか違う」って思ったら、対立ではなく対話して欲しい。学校の人だろうが、子どもだろうが、保護者だろうが。相手をきつく責める自由はないので、お互いに何を考えているのか、提示し合えることが大事じゃないのかなーって。
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