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【読書記録】「歌われなかった海賊へ」
「歌われなかった海賊へ」逢坂冬馬 早川書房
ネタバレがあります。本書を未読の方はご注意ください。
本書は、「同志少女よ、敵を撃て」の作者による二作目の小説だ。前作と同じく戦争を取り扱っている。前作は、狙撃兵である女性を主人公に据え、戦時中の女性の生き方を問い、ジェンダーの問題に踏み込んでいた。本作は、第二次世界大戦中のドイツを舞台に、十代の少年少女にとっての戦争を描いている。
本書の主人公ヴェルナーには家族もなく、社会的なつながりもほとんどない。密告により父を処刑されて以来、居場所をなくしていた。怒りにまかせ、密告者を殺害しようとしたとき、ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団のエルフリーデ、レオンハルトと出会う。
後から、爆弾に詳しいドクトルも加わったエーデルヴァイス海賊団は、「高邁な理想を持たず、自分たちの好きなように生きる。助け合わず、自分で責任をとる」ことをルールとしていた。
ヒトラー・ユーゲントと闘い、禁止された徒歩旅行を企てる彼らは、ナチス政権下ドイツの全体主義、画一主義に抗う。だからといって、ナチスへのレジスタンスとして戦うわけでも、民主主義の闘士でもなかった。むしろ、そのように持ち上げられることを嫌った。ただ、ナチスが定めた枠に収まらない、偽りのない自分自身を生きたかったのだ。
物語が進むにつれ、ヴェルナー、エルフリーデ、レオンハルト、ドクトルが、ナチスが作り上げ、当時の人びとが共有していた「おとぎ話」を否定するわけが明らかになる。ナチス政権は、人種と遺伝を政策に組み込み、アーリア人と他民族とを区別し、ユダヤ人、シンティ・ロマ人らを弾圧した。さらに、同じアーリア人であっても、同性愛者や社会的弱者、反政府主義者らを排除した。その思想、政策は、ナチスが理想として掲げるアーリア人像に反発する彼らには、受け入れられないことだった。
そんな彼らは、徒歩旅行の末、敷設された鉄道の終着点にあるものを知る。人を人として扱われない、命を軽視される強制収容所と過酷な労働。彼らは見て見ぬふりをすることができなかった。声をあげ、行動を起こさずにはいられなかった。
ヴェルナーは、反体制の立場でありながら、自分も工事によって職を得ていたことに、自己欺瞞を感じる。それを打ち砕くためにも、強制収容所へと走る列車を止めなければならなかった。
結果として、エーデルヴァイス海賊団の、列車を止める作戦は成功するが、その代償は大きかった。ヴェルナーとエルフリーデは、囚われた友を救うために奔走する。市民に強制収容所のことを知らせ、味方を増やし、協力を得ようとする。エルフリーデの歌を「敵と味方の区別を無効化して、歌の下に人を集めることができる、文化なんだよ」(p309)と称したレオンハルトを信じて。エーデルヴァイス海賊団の「助け合わず、自分で責任をとる」ルールは、もはや意味を持たなくなっていた。
鉄道の終着点にあるもの、貨物列車で運ばれているものについて、うすうす気づいているはずの市民は、知らないふりをしていた。エルフリーデの歌をともに歌おうとしない。ヴェルナーの必死の訴えを聞こうとしない。全体主義に取り込まれ、ナチスの「おとぎ話」を信じこもうとしている。レールが敷かれたわけを知ろうともせず、敷設工事によって潤った町の経済を享受している。その、市民の保身と無関心さは、悲劇を生むことになる。
本作は、現代編、戦時中のエーデルヴァイス海賊団編、現代編と三部構成の枠物語になっている。
全編を通読すると、歴史教師の目を通して書かれた序章が、「この市と戦争」という課題レポートの内容も、トルコ人の生徒に対する教師の理解度も、表層的なものにとどまっていることに気づかされる。
終章では、戦時中のエーデルヴァイス海賊団の物語を知った歴史教師は、トルコ人の生徒の話に耳を傾け、郷土史を掘り起こそうとする。そのなかに、教師自身に関わる、明らかにしたくない醜さがあったのだが。
戦時中にあったことを、人びとの忘却に任せ、うやむやにしない。事実と向き合い、今を生きる人々に問いかける。そのために、三部構成にする意味があるのかもしれない。
戦争が終わって八十年近い時間が経過しても、現代の生活は、戦争とは無関係なのではないと思う。戦時中の犠牲の上に築かれた繁栄が現代に続くことは、鉄道が通ったヴェルナーの町と、世界的スポーツ用品ブランドになったレオンハルトの実家の靴工場が象徴している。
また、強制収容所に気づかぬふりをし、エーデルヴァイス海賊団の少年たちを見殺しにした住民の無関心さ、自分たちとは違う者を受け容れない、硬直化した不寛容さが悲劇を招くことは、現代に於いても変わらない。
※()内は引用文のページ数。