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【読書記録】「忘れられた巨人」

「忘れられた巨人」 カズオ・イシグロ 早川書房

ネタバレあり。未読の方は注意してください。


 この物語は、アーサー王の伝説を受け継ぐブリテン島が舞台だ。竜や悪鬼、妖精が住み、巨人が眠る世界は、人々の過去も、歴史も、霧に覆われ曖昧模糊としている。年老いたアクセル、ベアトリス夫婦も、ふたりが旅の途中で出会った人々も、頭に霧がかかったかのように記憶が失われていた。

 アクセル、ベアトリスの老夫婦は、片時も離れようとせず、互いに深く愛し合い、労り合っている。ふたりの間には、思いやりにあふれる温かな会話が交わされる。絶えず互いの愛を確認しあっているようにも思える。
 老夫婦は、なぜか村人たから疎まれていた。その理由は語られない。ふたりは、息子に会うために旅に出る。アクセルとベアトリスは、「健忘の霧」のせいで、息子の顔すらはっきりと思い出せない。だが、息子に会えば、ふたりが抱えている困難な事態が好転すると期待している。
 アクセル、ベアトリスは、アーサー王の騎士ガウェインや、戦士ウィスタン、村を追われた少年エドウィンらと出会い、ともに旅をすることになる。ブリトン人の老夫婦やガウェイン卿、サクソン人のウィスタン、エドウィンとの親しげな一行だ。しかし、旅が進むにつれて、過去に、ブリトン人と、サクソン人との悲惨な戦いがあったことが、明らかになっていく。
 「健忘の霧」は、アクセル、ベアトリスら個人にとっても、ブリトン人、サクソン人の民族にとっても、過去の出来事や憎しみの感情を覆い隠し、忘れさせるものだった。人々は、健忘の上に、「かりそめの平和」を築いていたのだった。

 アクセルとベアトリスは、旅の途中で、愛を試す船頭に出会う。船頭は、「皆がひとりきりで生活し、自分以外のだれとも出会わない不思議な島」にふたりで渡り、ふたりで暮らすには、強い愛の絆で結ばれていないとならないという。
 ベアトリスは、「健忘の霧」が晴れることを望んでいる。夫婦の絆となるべき記憶がないことを恐れ、不安に思っていたからだ。アクセルと「分かち合った幸せなときを思い出したい」と願っている。過去を取り戻すことで、夫婦の愛が深まると信じている。
 「雌竜クリエグが吐く息が霧の原因」だと知ったベアトリスは、霧から解放されるかもしれないと喜ぶ。「たとえ悪い記憶がよみがえろうとも、恐れる必要はない」と思っている。アクセルもまた、ふたりの愛は強固で、なくした過去を取り戻せると信じていた。
 しかし、次第に、ふたりには、記憶が戻ることへの恐怖と、相手から離れたいという気持ちが、生まれ始めていた。

 旅の終わりに、騎士ガウェイン、戦士ウィスタンの隠された使命が明らかになる。彼らの対決は避けられないものだった。クリエグを守りたいガウェインと、クリエグを倒し、ブリトン人への復讐と征服を誓うウィスタンの決闘は、ブリトン人とサクソン人との戦いの予兆のようだ。
 クリエグが吐く健忘の霧は、過去の戦い、殺戮、対立、支配を覆い隠していた。霧がかかった人びとは、戦いや犠牲者のことを忘れ、平和な世であると信じていた。クリエグを倒すということは、忘れていた憎しみ、征服され抑圧された過去を思い出すということだった。「忘れられた巨人」を呼び覚ますことだったのだ。

 物語の終盤で、アクセルとベアトリスは、愛の絆を試す船頭の船に乗り、一人ずつ別々に、島に渡してもらうことになる。アクセルも、ベアトリスも、互いに思いやり、愛の言葉を交わす。
 しかし、愛し合っているはずのふたりは、島で再会することなく、別れてしまうのではないかと思われる。これまで片時もアクセルから離れようとしなかったベアトリスだが、アクセルとふたりで船に乗ることを拒む。アクセルの心にも、ベアトリスへの不信が芽生える。アクセルにも、ベアトリスにも、霧が晴れたあとに、癒やせないしこりが残ったのではないか。
 アクセルに蘇った記憶は、ベアトリスとの関係性だけではなかったはすだ。アーサー王の部下だったころ、ブリトン人とサクソン人との間に結ばれた協定を守ることができず、戦火を止められなかった、裏切り者と呼ばれた自分の姿もあった。

「健忘の霧」は、憎しみや不信感、不都合な過去を隠した。それは、過去の所業から目をそらすことであり、戦争回避のための対話をしたり、問題解決の方策を模索したりする、平和を築く努力を放棄することでもあった。夫婦間にも、同じことがいえるのではないか。「健忘の霧」によって、ブリトン人とサクソン人に「かりそめの平和」が訪れたように、アクセルとベアトリスの間にあったのは「かりそめの愛」だったのかもしれない。
 霧が晴れた今、正義と復讐の名の下に、「忘れられていた巨人が動き出し」、殺戮と征服の時代が幕を開ける日が近づいていた。物語は、戦いを暗示して終わる。ブリトン人と親しくなり、冷徹になれない自分を律しようとするウィスタンだが、次代を担うエドウィンはどうか。サクソン人の戦士として、復讐に生きるのではないだろうか。


*「」内は引用箇所

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