デモクラシーは「教えるもの」ではなく「生活の中に息づくもの」
9月18日〜20日までの3日間、NO YOUTH NO JAPAN(以下、NYNJ)有志でデンマークへ視察に行ってきました。今回の記事では、NYNJメンバーがデンマークで出会ったデモクラシーについてお届けします。
第1弾は、デンマークと教育。デンマークの学校の先生たちとの対話を通じて感じたのは「健全なデモクラシー(democracy)を成り立たせる市民を育てること」という目的が学校教育の根底にあり、一人ひとりの教育者がそれを自覚して生徒たちと向き合っていることでした。
歴史は今の社会のあり方を考えるためにある
今回訪問したのは、ロスキレ高校という、ロスキレ市(人口約52,000人、コペンハーゲンの中心部から電車で約30分)にある公立高校です。デンマークの教育制度では、16歳〜19歳が日本の教育での高校にあたる教育機関に進学します。ロスキレ高校は普通科ですが、工業、農業などの専門学校(Vocational School)に進学する学生も多くいます。
去年からロスキレ高校で社会科の先生をしているヤコブさんの案内のもと、授業中のクラスや職員室などを見学。デンマークの教育に興味津々な私たちの沢山の質問に、一つひとつ真摯に答えてもらいました。
今回は1年生の英語の授業、社会(公共と歴史)の授業を見学しました。英語の授業で行っていたのは「ライ麦畑でつかまえて」を題材に用いた演劇ワーク。ディスカッションベースで、このような場面で、自分だったらどう考えるか?どんな言葉をかけるか?を考え、実際に演じるために、グループで準備をしていました。
社会(公共と歴史)の授業で扱っていたテーマは不平等。ジェンダー、貧困、気候変動など、社会における様々な不平等について学んだ後、生徒それぞれがテーマを決めて詳しく調べ、深ぼる時間をとっていました。
デンマークでは歴史の授業で近現代史をしっかりと学びます。ヤコブ先生は特に、第二次世界大戦、その発端となった植民地主義やナチズム、第二次世界大戦以降の世界について学ぶ比重を多くしていると言います。私が日本の高校で授業を受けていた時は、駆け足になってしまっていた部分です。なぜ近現代史を?という質問に、
「(歴史)教育の目的は、歴史が今にどう繋がってるかを教えることだと思っているから。現在との繋がりがないと意味がない。」
と答えてくれました。今回扱っていた不平等についても約14時間分を割くといいます。(ちなみに、その準備のために先生が費やす時間も同様に約14時間とのこと。)今起こっている不平等について知るだけではなく、歴史的にどのように不平等が起きてきたのか、今の社会にどのような不平等があるのかを考えていくのです。「今わたしたちが生きているこの社会がどう作られてきたのか」という歴史観・社会観をつくるように授業が構成されています。
デモクラシーを支える市民(citizen)を育てたい
社会の授業では、政治や選挙、そして政党についても学びます。私が受けてきた教育では、議会の仕組み、三権分立、選挙制度について重要な単語を覚えた記憶があります。比例代表制、ドント方式、などなど…
でも当時の私にとって、学んだ単語と、自分が選挙権を持ったときにどう行動すればよいかということとは繋がっていなかった。日本にどんな政党があるかすら、良く分かっていませんでした。
一方でヤコブ先生の授業では、政治の基本的な仕組みを学ぶだけではなく、各政党のイデオロギーやポリシーまで扱います。生徒一人ひとりが、各政党がどんな社会をつくろうとしているのか、その政党が望まない社会のあり方が何なのかを理解できるようにしていきます。
それは授業を通じて、デンマークの民主主義を支える、市民を育てたいという目的があるから。だから政党について学ぶことが当たり前。「政治や選挙を学ぶことは学校教育の基本。政党を教えることは、基礎中の基礎で、デンマークの社会科にとって super importantだ!」と言っていました。
授業の中で政治家に会いに行くこともあります。中立性の観点から教師が全ての政党にアポイントメントをとり、OKが出た政党の政治家に生徒を連れて国会まで会いにいくそう。政党青年部が学校に来て放課後にチラシを配ったり、生徒と話したりすることも、学校では普通のこととして捉えられていました。
歴史の授業も公民の授業も、デンマークの社会の中でデモクラシーが持続していくために、どんな市民が必要なのかという観点から授業がつくられている、と強く感じました。
学校生活の中に息づくデモクラシー
授業だけではなく普段の学校生活の中にも、デモクラシーが根付いています。
まずは生徒会(student council)。月に1回、各クラスから選出された2名(合計100名以上!)が集まり、学校の運営について会議を行います。自分が受けてきた教育の生徒会と違うなと思うのは、自分の身近なことを変えていくような仕組みとして機能していること。例えば、食堂のメニューにベジタリアンフードを増やしてほしいといった議題をクラス代表の生徒を通じて学校に要望できます。
生徒会が学校の経営層と対等な立場であるのも大きな特徴です。例えば、現在のデンマークの教育現場では、授業中のスマホの利用が問題視されています。ロスキレ高校では、学校にいる間はスマートフォンをロッカー(smartphone hotel)に預けることを学校の経営側がルールとして決めました。学校の経営層がこうしたルールを決めるとき、まず生徒の代表として、生徒会に相談をします。生徒会側では、生徒側の要望を取りまとめて、校長や経営層と交渉をします。単なる生徒の代表ではなく、学校の経営層と対等な立場で、学校を一緒に良くしていく立場として存在しているのです。
次に、議論(argument)が学ぶことの根幹に置かれていること。先程紹介した英語の授業のように、授業の中で「あたなはどう思う?」と問われることはもちろん、ヤコブ先生は、授業以外の時間でも「他の意見よりも自分の言うことが優れてるという優劣をつけるためではなく、議論を対等にできるようになることが大事」というメッセージを伝え続けています。
高校生の中には、自分が立つイデオロギーをはっきりもち、他の考え方を認めない発言をする生徒もいるそうです。ヤコブ先生は、立場によって歴史認識が違う場合があることを踏まえ、自分の意見が正しいと思いこんでいる人と対峙したときにどうコミュニケーションをとっていくのか、どんな情報を探していけばよいのかを考えさせることを大切にしています。
先生が教える内容や教科書に対する異論があるときは一概に否定するのではなく、まずは受け止める。そのうえで、生徒の意見を支えるための情報が、どこから持ってきたものなのか、情報源を問い返すようにしていると教えてくれました。
誰のための教育なのか
私自身が高校生だった頃、先生の教えること、教科書に載っていることは絶対だと思っていました。歴史というものはたった一つだと思っていたし、違う見方や立場があることすら知りませんでした。
先生にとっても「教科書に書いてあるからこれが絶対に正しいんだ」と教えたり、生徒から異論が出ても突っぱねてしまうほうがラクなのかもしれません。でもヤコブ先生は、フラットに生徒の異論を受け入れたうえで、でも何故その内容を自分が教えるのかを、生徒と対等に議論して伝えている。決してヤコブ先生が特別と言うわけではなく、それが当たり前という様子がデンマークの高校から感じられました。
デモクラシーの土壌として議論は大事だとは分かっていても、実際に自分と異なる視点を持つ人と向き合うのには体力を使うし、私も疲れてしまうことがあります。でも、授業の中でも生徒会などの授業の外でも、先生が生徒とフラットに議論する習慣を通じて、議論をするための体力や対話力が培われているんだということを感じました。
そしてそれができるのはきっと、ヤコブ先生をはじめ、先生たちが「何のために、どんな人を育てたいか」という信念を持ち、共有されているから。democraticな社会に生きる一市民を育てようという目的が根幹にあるからです。
難関校の合格者数を増やすためでもなく、保護者のためでも、経済界で役立つ人材を育てるためでもない。私がデンマークで出会ったのは、生徒ための教育であり、democraticな社会を持続的に作っていくための、社会の土壌を耕していくための教育なのだと思います。
(文=ゆうか)