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NYNJメンバーのつぶやき。性に着せられた「らしさ」が背負うもの

ジューンブライドに、というわけではないですが、結婚をしました。

式や友達に会ってのお祝いはできず、そっと婚姻届を出しに行っただけではありますが、沢山の方にお祝いの言葉をいただき、NO YOUTH NO JAPAN(以下、「NYNJ」)メンバーにもSlackやオンラインミーティングの場で沢山お祝いしていただけて、とても幸せです。

一方で、様々な手続きを進める中で、「女性は」「男性は」という言葉に何度も出会いました。今回は、NYNJのいちメンバーが感じた「性のらしさ」に着せられた役割についてのモヤモヤを、とりとめもなく共有してみたいなと思います。

男性が「主人」というメッセージ

冒頭でお伝えしませんでしたが、私は女性で、そして、異性愛者です。
パートナーと新生活の住居を探すべく、不動産屋さんに行ったときのことでした。

新婚生活なんですね、おめでとうございますと、住居の要望を聞き始めてくださった不動産屋さん。言葉はとても温かく親身に話を聞いてくれるものの、なんだかずっと違和感がありました。

なんでだろう?と考えていて、ふと気づきました。担当の方の目線も、身体の向きも、ずっと「パートナー」のほうしか見ていないことに。

名義の話になり、私の名義で借りることを伝えて始めて、その担当者の方は少し驚いたような顔をして、初めて私のほうに身体を向けてくれました。

私だって一緒に住むのに。一緒に借りるのに。家の借主になるのは「男性」という当たり前が、きっとご担当者の方のどこかにあったのかもしれません。一方で、その方から「女性だから」「男性だから」という差別的な言葉は一切聞かれることはなく、目線や身体の向きは、故意ではなくて本当に無意識に出てしまったものなんだろうなぁとも思いました。

家の「主人」は「男性」。男性は〜、女性は〜、という性に着せられる役割の意識は、もしかしたらこんなふうに、日々生まれている小さな態度の違いや、自分に向けられる言葉だけではない無意識のメッセージから作られているのかもしれないと感じた瞬間でした。

(※たまたま、一つの不動産屋さんで体験したことであり、全ての方がそうであったわけではありません。)

結婚の次にあるもの

結婚を一番に喜んでくれたのは家族。一方で、結婚の「次」、子どもを生み育てることについての話題が度々あがるようになりました。

子どもを育てることに大きな幸せがあるということも頭では分かるし、友人の子どもは本当に可愛らしい。

でも私自身は、子どもを持ちたいんだろうか?ということを考えると、今はよく分かりません。ふと、どこからか、子どもがほしいなと思う瞬間もあります。でも、仕事でやりたいこともあるし、経済的な不安もこれからの日本の社会の不安もあり、今自分はどうしたいののか良くわからないというのが率直な気持ちです。

「孫の顔が見たい」という両親の気持ちを否定することはできず、自分を育ててくれた頃の話を幸せそうにしてくれる顔を見ると、なんだか情けない気持ちにもなり、私はどうしたいのか何だかよく分からなくなってくることがあります。
「女性なんだからやっぱり子どもを」というその言葉を聞くたびに、私という存在は、女性という存在は、結婚して子どもを産むための装置でしかないのだろうか?と悲しくなってしまうこともあります。

けれども身近な人であればあるほど、そうしたモヤモヤを思い切り吐露するのはなかなか難しい。毅然と「私がどうしたいかはパートナーと一緒に決めるよ」とか「子どもをもつことに大きな幸せがあるのは分かるけれど、今はまだ考えたい」と言えたらいいのかもしれません。でも、私は「それはまたゆっくり考えてみるよ」と、笑っていることしかできません。

私の中にもある無意識の「らしさ」

ここまで、「女性らしさ」「男性らしさ」に着せられた役割が、少しだけ苦しいということを書いてきました。一方、私自身もまた「男性らしさ」「女性らしさ」の意識を前提にした行動をとっていたと気づいて、はっとしたこともありました。

例えばプロポーズ。法律で男性からするなんて規定はないし、本当は私からすることだってできました。一緒にいたいとずっと前から思っていたのに、自分から言い出すイメージを持てていなかったと思います。

一時期、私の検索結果を反映してなのか、Youtubeでふとしたときに流れてくる広告が、婚約・結婚指輪ばかりになったことがありました。でもそこに描かれていたのは全て、「男性から女性へ」プレゼントをするシチュエーション。日常で何気なく目にするこうしたメッセージが、私の中の無意識の感覚を作っているような気がしました。

もし自分が男性の異性愛者として生まれ、生きていたら、結婚に際して思うことや感覚が違っていたかもしれません。「ジェンダー研究」「女性学」という言葉を聞いたことがある方は多いかと思いますが、最近は、社会の中で男性が背負ってきた役割や、男性らしさ、男性ならではの問題について研究をする「男性学」という学問領域も耳にするようになってきました。「女性らしさ」に着せられた役割があるように、家の主人であること、家を支えること、強くあること…という「男性らしさ」に着せられたものもまた、とても重く横たわっているように感じます。

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個人の行動に違いをつくる。社会に違いをつくる。

私たちNYNJは、個人のモヤモヤは社会の問題であるとして、少しずつ社会に違いをつくっていくための行動をしていこうと呼びかけています。

でも、自分の中の無意識の「らしさ」の意識に気づくのも、そうした言葉に直面するときの振る舞いも実際はすごく難しい。
なんだか変だなという場面にであったときに、いつも毅然とその場に向かえるわけではありません。モヤモヤするポイントが分かっているのに相手との関係上どうしても言葉にできなかったり、そもそも自分が何にモヤモヤしているのかすら分からず言葉に詰まってしまったりすることも、正直あります。

違うと思うことを違うと伝える練習はまだまだ必要です。

一方で、このモヤモヤを感じる原因は「私」にあるのではなくて、そうした意識や制度を作っている「社会」の側にあるのだという思いが、私のエネルギーにもなっています。

先月、夫婦別姓を認めない民法規定に対し「合憲」との判決が出されました。国会では、LGBT理解増進法(※)の成立が見送られました。
※性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律

「自然に個人がありたい姿でいられる社会を」という声は、社会の中で少しずつ大きくなっているように見えるけれど、法や社会の枠組み的にはまだまだ何も変わっていない。

個人のレベルで違和感を言葉にすること、違うことに対しては違うと示すこと。
社会のレベルで法制度の枠組みを具体的に変えていくこと。
より多くの方にとって、息がしやすい社会になるには、どちらも大切なはずです。

NYNJの活動の中で、そのきっかけを沢山届けられたらいいなと思っています。

文=ペンネーム・とき

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