「セクシー田中さん」から考える「改変」とは何なのか。
原作者が自殺した。
そんなやるせないニュースを目にして以来、原作の映像化について、あらゆる意見が飛び交っています。
その中で、「改変自体が悪」という論調が増えました。
さらに、「改変されて辛かった」過去を発信する原作者の方々も現れ、
「改変ありき=原作を大切にしていない」
という前提で物事を捉えている方が、多い印象です。
日本テレビ、小学館、両者の報告書も開示され、一通り目を通しましたが、両者、両者の立場からの、お粗末な経緯を露呈させたのみで、本質が見えず、これでは、より「改変自体が悪」の論調に傾くのも無理はありません。(残念ながら、力量のない制作者の改変事例だけを読んでいても、余計に本質が見えなくなるばかりです)
小説や漫画が大好きで、その映像化作品にも親しんで来た”一読者”、”一視聴”として、私なりに、「改変」とは何なのかを、客観的に整理してみたいと思いました。
(ドラマ『白夜行』『のだめカンタービレ』『JIN~仁』『IWGP』など大好きです。黒沢明監督の『羅生門(藪の中)』、宮崎駿監督の『魔女の宅急便』、山崎貴監督の『ALWAYS三丁目の夕日』は名作です)
第三者の立場で、映像化作品の「改変」について、客観的な視点を、ここに記すことで、少しでも、誰かの多面的な思考の足しになれば幸いです。
原作と映像化作品の関係性
前提で、良し悪しに関わらず、映像化の際、「改変」は必然的に生じるものだと捉えます。映像化作品で、改変が一つも行われていない作品はありません。
この時点で、「そんなわけないだろ!」と憤慨する方もいらっしゃるかもしれませんが、読み進めて頂ければ、趣旨をご理解頂けると思います。この考え方は、原作者さんや、原作を愛する人の、心の拠り所にもなるはずです。
「原作者がその原作を書いた思い」は、厳密には、原作者本人にしかわかりません。
「一読者が原作から受け取る思い」は、作品の世界観から、大きく逸脱はしないまでも、千差万別、人それぞれ異なるでしょう。映像制作者も、この”一読者”です。
ゆえに、原作を託す制作者が違えば、その「世界観の表現方法」も、千差万別、それぞれ異なるのは必然であり、そこが、映像化の醍醐味とも言えます。『とんび』も、数々映像化されましたが、全て違いました。(私は、NHK版が一番好きです)
しかし、細かな設定や構成、セリフの細部にまで、忠実さを求めてしまうと、映像制作者の腕の見せ所である「世界観の表現方法」を規制することになり、それは、暗に、制作者を、表現者として認めていないことにもなります。これが、原作者と制作者、両者の間の大きな溝になるのではないでしょうか。原作者の「原作に忠実に作って」は、制作者には「誰が作っても同じクローンを作って」と、同義に聞こえるのだと思います。
『寄生獣』の原作者・岩明均先生は、Netflixドラマ化の際、下記のようなコメントを寄せています。
仮に、原作者が映像化作品を面白がったとしても、”一読者”であるファンが「原作と違う!」と批判する現象が起こるのも、そこには「(私が思う)原作と違う!」があるからで、”一読者”であるファン、それぞれの解釈が存在するように、”一読者”である制作者にも、それぞれの解釈が存在することは、尊重すべきです。
この「"制作者には制作者の解釈がある"という認識」が、岩明先生の仰る『子ども』と『孫』の感覚に繋がるのではないでしょうか。
つまり、映像化作品とは、制作者の解釈によって、新たに生まれる「別作品」であり、あえて改変しようとしているのではなく、「映像化に取り組む行為」そのものが、おのずと違うものになる「改変行為」なのです。
これが、冒頭で、「改変」は必然的に生じる、と言った意味です。
もう少しわかりやすく、例をあげてみます。
"資格が必要な立場"に置き換えてみる
たとえば、画家が、とても素敵な家の絵を描いたとします。
その絵に感銘を受けた建築士が、「この絵の家を建てたい」と申し出ます。
ほどなく、建築士が、画家に設計図を見せると、広い吹き抜けのリビングのはずが、真ん中に大きな柱があります。
画家は言います。「こんな柱がある家、私の描いた家じゃない」
建築士は言います。「実際に建てるためには、この柱が必要です。私があなたの絵で素敵だと思ったのは日の当たり方です。それは大切に設計します」
ここで、画家が「自分の絵のまま忠実に再現して」と、柱を拒否すれば、この家の建設は中止になるでしょう。危険で人が住めないからです。もし、押し通し、無理に柱抜きで建てれば、事故が起きうる家が完成します。
建築の場合、専門性が高く「明確な基準」があるため、設計図を見ても、細かいことはわからないので、専門家が言うならそうなのだろう、と、受け入れやすいのですが、
映像制作には、このような「明確な基準」がありません。
境界線が曖昧なため、「紙に書かれたもの」と「映像で映されたもの」が「別作品」という認識が難しく、「なぜ原作どおりにしないのか」という疑問が細かく沸き起こります。
しかし、生身の人間が、物理的状況下で成立させる映像作品には、建築の「明確な基準」に匹敵する、「緻密な計算」が、あらゆる場面で発生するのだと思います。
それを一つ一つ細かく全て理解するためには、自らが映像制作者となって、一から学ぶしかありません。建築士の資格を持たない画家が、設計図を引こうとするのは危険なのです。
これを、さらに「改変」に近い状況にしてみます。
建築士は、画家の絵を見て、包み込むような温かさに惚れ込み、
「絵には階段が描かれているけれど、この絵の温かみを表現すべく、階段を無くし、居住者の為のバリアフリーを実現したい」と提案します。
しかし、画家は、階段は子供たちの憩いの場として大事に描いていました。
「改変悪」の論調に当てはめると、
「絵に階段が描いてあるのだから、絵の通りに階段を作ればいい」
「建築士の発想など、入れる必要はない」
「そこに住む人間の住みやすさより、最初に考えた人間の想いが大事」
のような言葉が、飛び交うことになるでしょう。
しかし、この建築の例においては、そうでないことがわかるはずです。
絵から受け取った建築士の解釈、「バリアフリー」という発想は有益であり、「家は住む人間に住みやすく建てる」方が良いに決まっているのです。
あえて、この極端な例を出したのは、日本テレビと小学館が開示した資料の改変内容では、「改変」自体の不信感が募るばかりだったからです。残念ながら、力量のない制作者がいるのも現実でしょう。
しかし、つまらないものを作ろうと臨む制作者は、誰もいないはずです。
厳しい言い方ですが、託す相手を選ぶのは、原作者自身です。最初の吟味が重要です。
「改変が嫌なら、映像化は一切断る」
「制作者の解釈を聞き、その制作者になら託せる、と思うならば、その制作者の解釈を尊重する」
託したあとに、細かな否定ばかり続くと、相手もどんどん委縮し、気力を失うでしょう。そういった中で、良い作品が生まれるとは、考えにくいです。
岩明先生が仰るように、映像作品は、原作者の『子ども』ではなく『孫』。血は繋がっているし、そっくりだけれど、別人。
この適度な距離は、結果的に、原作者自身の心のケアにも繋がるはずです。
もし、映像作品がつまらないものになったとしても、原作の面白さは色褪せません。別物だからです。むしろ「原作は面白いのに!」と、我々ファンが全力で守ります。
(私も面白い原作で、ドラマがつまらないと、ものすごく残念な気持ちになりますが、それはそれ。原作を好きな気持ちは一切変わりません)
「不満0」はありえない
もちろん、尊重し合えたとしても、折り合い地点を見つける過程は、100か0の話ではないので、大なり小なり、人間だれしも不満は出ると思います。都度都度、総合的に見て、飲み込まなければならないことは、互いに発生し続けます。(それは、どんな仕事、人間関係でも同じでしょう)
それを、時に「妥協」と感じ、辛い思いをすることもあるでしょう。
建築の例で言えば、柱の件で、画家が建築士を尊重し、「だとしたら、せめて狭く見えないように工夫できないか」と要望を出す。建築士も、画家の想いを尊重し、「では、柱を出来るだけ目立たない色で塗ります」と応じる。
その後、完成した家を見て、画家が「やはり柱は嫌だな」という思いを拭えないこともあるでしょう。一方、建築士は、階段の件で、「バリアフリーで居住者を喜ばせたかった」という思いを抱えているかもしれません。
しかし、それをSNSで第三者に発信してしまえば、何も知らない第三者は、
画家には「あなたの絵なのに、柱で台無しにされて可哀そう」と、
建築士には「バリアフリーを却下するなんてひどい、横暴だ」と、
SNSで、互いの良き理解者たちが、相手を非難するかもしれません。
たとえ、本人たちが、そんなことを望んでいなかったとしても、です。
どんな過程や不満があったとしても、出来上がったものに対する、”覚悟”と”誠実さ”が、その仕事に携わった全ての人に、必要ではないでしょうか。
「尊重」とは何か
どの立場でも、一方的な意見を押し通そうとすれば、歪みが生じます。
「尊重」とは、自分の意見だけを押し通さず、相手の意見に耳を傾け、自分とは違う考えを受け止めることだと捉えます。どちらか一方ではダメなのです。互いに尊重し合うことでしか、解決策は見出せません。
「映像化は別作品。だからこそ、互いを尊重し、折り合わせる」
この前提の上でこそ、原作の映像化はうまく行くのだと思います。
そして、それは、人間関係全てに、当てはまることだとも思います。
トラブルが起きるのは、いつも人間関係において、です。
今回も、互いを尊重しきれなかった「ディスコミュニケーション」と、「当事者以外の人によるSNSでの誹謗中傷」が、深刻な事態へと繋がりました。
SNSは、社会と繋がるツールです。利用するにも、社会性は必要です。
自分が発した言葉に、受け取る誰かがいることを、私たちは常に想像しなければいけません。小説、漫画、映画、ドラマ、舞台など、素晴らしいエンターテインメントは、その想像力を鍛えてくれます。
この先も、素晴らしい原作、素晴らしい映像作品が、互いの尊重のもと、生まれ続ける未来を、”一読者”、”一視聴者”として、切に願います。
さいごに
余談ですが、画家が建築士の資格をとって家を建てた例(=原作者自ら制作者になった事案)を思いつきました。井上雄彦先生です。
映画『THE FIRST SLAM DUNK』は、「漫画」と「アニメ」という、近しい媒体ゆえに、それが成立したとも言えますが、井上先生が、映画制作者として、原作を自ら大改変することで、傑作に仕上げました。
宮城を主役にし、ルカワ親衛隊など、コミカルパートを一切排除した改変は、"映画監督・井上雄彦"が、制作者として、映画の最良を求めた判断であり、"原作者・井上雄彦"は複雑だったかもしれません。
ちなみに、私は、映画に満足しながらも、桜木花道が主役のまま観たかった…なんて思ってしまう、貪欲な”一読者”です。