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わたしの感動は孤独から。
あなたの感動はどこから?
わたしは孤独から。
感動には、孤独が作用する。
+
映画が好きだ。
映画が好きだが、映画館で観たい。
映画館にいきたい。
3行で映画って、4回書いた。後生だから行きたいけど、ローマは一日にしてならず。泣く泣く子どもがもう少し大きくなるまで我慢。やっぱり、悔しいが、当分行けそうにない。(語感だけで書いたけど1と2はない)
映画館で観た映画は、響く密度が違う。
映画館は映画を観る専用の空間なのがいい。
時々観てない人もいるけど、建前上はそうなってるし、スマホの電源切ったりとマナーもある。場内は暗くて、みんなで同じ方向を向く。
同じ場所で同じ時間、一人ひとりが映画に向き合える環境が作られている。
そう、物語にふれるときには、孤独でいたいんだ。
+
みんなでわちゃわちゃ観るのも楽しいけど、わたしはできれば感動と共有は区分けしたい。
速度が早すぎてリアルタイムの共有が苦手だから、しっかり味わってからあーだこーだ話したい民である。
観る自分。
感動する自分。
話す自分。
伝える自分。
その他、たくさんの雑兵たち。
一人ひとりの戦力が低いから、同時並行で歩を進められないのだ。足並みが揃わない。ちぐはぐなまま、見失ってしまう。
だから、物語にふれるときには全軍動員のわたしオンリー孤独で臨みたい。
最近はネット配信で、家でもどこでも映画が観られる。でもやっぱり集中できない。
それは、観ているのを見られている感覚がするからだと思う。
集中力のなさかもしれない。家のテレビで映画を観ていると、たとえ一人きりでも見られている感覚がうっすらとあって自意識がふらふらする。上京したての大学生くらいふらふらしている。落ち着いてほしい。落ち着いてほしいのだけど、型抜きしたあとのクッキー生地みたいに外に流れ出て、自分の中にとどまってくれない。
笑ってるね。
泣いてるね。
面白いね。
つまんないね。
それは置いてあるものや匂いや生活の感覚が残ってる影響かもしれない。
そうこうしているうちに、もう映画を観てるんだか、映画を観てる自分を見てるんだかわからなくなる。なにこれ。
没入できない。
家は圧倒的に孤独が作りづらい。
+
同じようにYou Tubeがちょっと苦手だった。
共感共有型のコンテンツがほとんどだから、面白い可笑しいぜんぶひっくるめて大小さまざまな感動と共有が一緒に起きる。コメントとかシェア含めて、観ると一緒に共有の意識がにじむ。
観ているとき、同時に見られている感覚がしちゃう。
過剰だと言われたらその通りなのだけど、自意識をぎゅっと自分の中に捕まえておけなくてふらふらと出ていってしまう。落ち着いてほしい。落ち着いてほしいのだけど、見ている自分込みで見られているような気持ちになる。集中できない。
最近は息子くんと一緒に観て「おもしろいねー」とか「たのしそうだね!」とか言ってるうちに慣れてきて、ああYou Tubeはみんなで観るものなのかと納得したら大丈夫になった。一人でもみんなで観るコンテンツだから、孤独は生まれにくい。
もちろん共感型のコンテンツにも、分け合える感動があって面白い。孤独じゃない感動。そういうのも楽しめるようになってきた。
でも、時にはやっぱり感動だけしたい。
孤独がちゃんと作用すると、自分だけのものになる。すぐに言葉や文字にはできない、奥の方に波紋みたいに残る響き。
心の底から揺さぶられて、
価値観がひっくり返るような。
しばらく席から立ち上がれないような。
ちょっと帰ってこれないような。
一切合切ぜんぶ抜きにして、そんな感動だけしたい。そんな思いに駆られる夜がある。
+
家族が寝静まってから、イヤホンをしてネットフリックスを観ている。これってふとんかぶってゲームボーイしていた頃と変わってないな。
こそこそと、自分だけの感動を食べる。
おわり。
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