小学生になる息子と電車で12時間、行って帰って見つけた旅の終わり。
「とにかく、とおくにいきたい!」
彼は、元気よく言い放った。
本気か?
本気だった。
+
この春、小学生になる長男に「春休みどこいきたい?」と聞いたら、こんな答えが返ってきた。
「電車に乗って、とにかく遠くに行きたい」と。
彼は鉄道大好きキッズ、いわゆる子鉄である。それも、乗り鉄マシマシだ。
以前、実家に帰省するときに羽田空港までのルートを任せてみたら、1時間20分の道のりに4時間30分かかった。なんでだ。わからぬ。だが、そこに理由はない。好きは超特急なのだ。とにかくノンストップでいろんな電車を愛し、乗車を愛し、乗り換えを愛してやまない生粋の子鉄なのである。
本気か?
本気と書いてマジと読むか?
喉から半分飛び出しかけた言葉を、ぐっと飲み込む。……いったん落ち着こう。まだ慌てるような時間じゃない。
こころの中に仙道を召喚しつつ、口では「そっかそっかぁ……」とやんわり受けながら、こっそりスマホで調べてみる。
なるべく乗り換えできるように特急を使わず、日帰りで行ける一番の「遠く」。
それは……、福島県だった。それ以上いくと当日中には帰ってこられない。
「うーんと、日帰りで行けそうな一番遠くは、福島とか……」
「ふくしま!そこにする!!」
旅は道連れ、世は情け無用。
ああ無情、既に子は動き出してしまったらしい。
もちろん旅はたのしい。たのしいが、子連れの旅は格段に難易度が上がる。たぶん10倍は腰が重い。
なんだ10倍って?もはや界王星、ナメック星への修行の旅じゃん。口は災いのもとじゃん。
いつの間にか、こころの仙道はいなくなっていた。慌てる時間である。
なにせキッズとは100メートル進むのに10分、いや20分はかかる生き物なのだ。(子どもの性質・性格によると思うけど難易度アゲなのは間違いない)
犬も歩けば棒に当たる。子ども進めば虫を見つける。そしてじっと座り込み、動かない……。と思えば、ふいに空を仰いでは雲で遊ぶ。そして、動かない。
山の如し風の如し、ビュンビュンしゃがんだり見上げたり。そしてなぜか地上の車にはいっさい気が付かないのだ……。リスクとリソース両手持ち、盆と正月が一度にやってきたような最強生物である。
加えて、ごはん、トイレ、グズりに疲労。考えることは多岐にわたり、気がつくと体が重くなっていく。そしてやってくる、時間との戦い……。大人ならちょっとの我慢で乗り切るところが、ぜんぜん無理を通せない。
無情にも過ぎていく時間。それをなんとかしようと足掻くうちに夜がくる。最後に寝落ちした子どもは、石のように重いのだ。どうにか抱えて、家まで辿り着かなくてはならない……。
「どうやっていける?どのルートがいいかな……?」
いそいそと図鑑やら路線図の本やらを集めてきて、最寄りの駅からどうやったら福島県に辿り着くかを探していく。
もはや、後戻りはできないのか……。
なんだ10倍って?そう。子連れ鈍行の福島県はまさに界王星行きくらいの気概で想像いただきたい。遠いな、界王星。いったことないけど……。
福島県。赤べこ、TOKIOに、桃・まんじゅう。あとは、ラーメン?それにしても往復534キロメートルか……。界王星よりはマシだが、どう見積もっても修行である。あらためてアプリを見てみると、だいたい12時間弱くらい電車に乗り続ける計算だった。
え?嘘やん。ほんとに修行じゃん。こんなんしたら、お尻カッチカチやぞ……。もしロード・オブ・ザ・リングだったら指輪をもらって捨てるまで、中つ国をまるっと救っても余裕じゃないか。まじかよ、勢い余ってホビットまで観られるよ?長い。
いや待て長い。長すぎる。スマホ親指でスクロールする挙動すらワン・ツー・スリーくらいある。
あったでしょ?
一番の心配なのは、『落ち着いて電車に乗っていられるか』である。子鉄の彼は比較的おとなしく電車に乗れるほうだと思うけれど、なにせ12時間だ。
乗り換えを考慮しても、2時間以上弱は乗りっぱなしの区間があるし、あたり前だけど行ったぶんは戻ってこなくてはならないわけで。
好きに一直線の超特急は最高だけど、代わりにまわりが見えなくなることもある。騒いで誰かに迷惑かけないかな?大丈夫かな?……と、気を張っての移動はかなりタフで胆力が問われる。ほんとに落ち着いて、座ってられるのだろうか。
そういえば小学校の授業って何分だっけ?大丈夫なんだろうか。先生の話を聞いたり、座って勉強したりできるんだろうか。
教室にいる息子くんを思い浮かべてみる。いや、ぜんぜん想像つかないぞ。なんか心配がどんどん増えてきた……。
遠いな、福島県。
春から小学校までの通学路、その10分くらいですら心配してるのに。だって、なんかいつも落ち着かなくて、ふにゃふにゃしてるし。好きなものを見つけると、途端にまわりが見えなくなるし。道の端っこ歩ける?車に轢かれないか、まじで不安だし……。
身近な心配ごとと、彼から出てきた「遠くへ行きたい」の言葉。そのギャップにクラクラする。
いいのか……?……いいんだろうな。きっと。
これで、これが大正解かもなのしれない。
衣食住、そして旅。旅は遺伝子に組み込まれた欲求なのかもしれない。
人間は、移動することで発展してきた。同じところにずっといると土地が痩せる。いざこざが増える。なにより飽きる。そんなこんなで旅をして、旅をすることで、進化してきたのだ。たぶん。
目先の難題から主語をバカでかくして逃避してみたけれど、地上の答えは変わらなかった。
ここではないどこかへ。人は迷えばなぜか北へ。そんな根っこの部分にある欲求に、時代も年齢も関係ないのかもしれない。
なにより目の前でキラキラがはじまっている。彼のなかで、すでに旅がはじまったのだ。
そのキラキラした目は、成長は、もう止められない。
手持ちの図鑑や本には東北の路線図まで載っていなかったらしく、乗換案内を印刷して渡した。
「うーん、ここでのりかえして……。ここで、おかしをたべて……」
A4の紙1枚を穴が開くほど眺め回し、夢いっぱい詰めていく顔を見てたら、なんだかやる気が出てきた。まあ、途中で飽きたらそこまでだし。無理せず引き返してくればいいし。なんとかなるだろ。
それに、行くなら今かもしれない。春になれば、彼もついに小学生。それはどういうことか?……そう。こども料金がはじまる。むしろ今しかない。
「よし、いってみっか」
「うん!」
「福島で何する?」
「うーん……。ラーメン、たべる!」
ラーメン、か。ラーメンはすごい。たいていどこにでもあるし、どこでもいつでもうまい。生まれ変わったらラーメンになりたい。吹き荒ぶ年度末の忙しさをなんとかやり過ごしながら、バタバタしているうちにどんどん旅が近づいてきた。年度末って、毎年速度を上げて矢のごとく過ぎ去っていくよね。
仕事帰りに青春18切符も買えてしまったし、西友でお菓子も用意したし、そんなこんなで気がついたら出発の前日。
「おやすみなさい!」
早めに寝たほうがいいのに、ワクワクが止まらず眠れない息子をなんとか抑えて、結局いつも通りの時間に就寝。電気を消してからも、しばらくぶつぶつと呪文のように駅名を唱えていた。
いや、寝てくれ……!と祈っているうちに、いつの間にかわたしも眠りに落ちていた。
+
本気か?
午前4時。目覚ましにツッコミ入れながら起きる。
疑問符を浮かべたまま目を開けると、ちゃんと真っ暗だった。本気か?眠い。眠すぎる。
始発に乗るには、あと数十分後には駅にいなくてはならない。なんだそれ。寝起きのモヤモヤが、納得を霧のように薄くする。
だって、当然のように息子は横で爆睡しているし。このまま目を閉じて朝になったら、まあまあ……なんていいつつ、少し近場までいくでお茶を濁してもいいし。でもまあ、一応、形だけは声をかけておこう。
「……朝だよ。始発、遅れるよ」
ガバッ。
ガバッ、キッ、スタッである。ベッドから飛び起きてからの10点の着地。そのままピューン。漫画なら流れるようなコマ割りに太字でスババンッとテキパキの擬音がつくだろう。はやい!
「パパ、いくよ!」
テキパキ。テキパキだ。テキパキが着替えてテキパキが歯磨きして、テキパキといつの間にか、気がついたらふたり、リュックを背負って玄関に立っていた。なんなら、わたしがお待たせしたくらい。
間に合う。
間に合ってしまうな、これは……。
彼は、朝がかなり弱い。幼稚園のときも朝起きてから出発までぼんやりぼーっとしていて、気がつくとドタバタなんとか間に合わせてバスに突撃、よろしくお願いしまーす!……な日が多かった。
小学校はもっと早起きになるし、自分の足で通わなくてはならない。大丈夫かな。いける……?
しかし、そんなこちらの心配を他所に、そのテキパキは驚くほどテキパキだった。好きのちからはすごい。びっくりである。
「しゅっぱ〜つ!」
まずは駅までチャリでいく。後部座席から、控えめな元気が飛んでくる。心地よい冷たさの空気を吸い込み、「レッツゴー!」と重たいペダルを踏み込んだ。
そういえば、もうそろそろ後部座席もいっぱいだ。自転車の後ろに乗せられるのも、あと少しかもしれない。
往復534kmの12時間。
こうして、長い旅がはじまった。
+
「日の出は、浦和くらいかなぁ」
「ひのでって?」
夜みたいな朝を抜けて始発駅に着き、電車にどっかりと並んで座り込んだ。
日曜日の早朝、誰もいないかと思ったらまだらにお客さんがいる。ゴルフバッグに朝帰り。家族でお出かけ。二日酔い。車両ごと、みんなそれぞれの朝だ。わたしたちみたいな電車旅っぽいひともちらほらいた。
「日の出っていうのは……」
片手でチョップ、もう片手で丸をつくりながら、日の出って出た瞬間だっけ?ぜんぶ出たときだっけ?……とわからなくなる。だんだん子どもの「なんで?」もレベルアップアップしてきて、すぐに答えられないものが増えてきた。
「ごめん、ちょっと調べてみる」
グーグルによると、日の出の時刻は出た瞬間だった。
そのまま東北本線に乗り換えて、栃木県を抜けていく。宇都宮で乗り換えて、さらに北上。
JA、ウェルシア、ダンロップ。駅の近くにコイン精米機。どんどん看板が大きくなり、企業名だけとか「くすり」「タイヤ」とか、シンプルな文字と原色に変わっていく。
動体視力と景色の残像。目まぐるしく変化する景色に、脳がついていかない。旅を浴びるような感覚が心地よい。
東京にいると、世界が駅のまわりばかりに広がっていく。電車での生活は、円と円を飛び石でジャンプしてるような感覚になるときがある。
駅と駅の間には生活と暮らしがあって、ああ、ほんとうにちゃんと、遠くまで線路はつながってるんだなぁ……なんてあたり前のことを思い浮かべていると、
「せんろ、どこまでもつながってるねぇ」
横で車窓を食い入るように見ていた小さな目から、同じような感想が漏れてきて、うれしくなった。そうだよね。ちゃんと、まじでつながってるわ。
「にほんはつのペンは1949年にできたんだよ!」
「ジンベエザメは、おおきいけど、いがいとやさしい」
電車に揺られながら、どこで知ったのかわからない知識を大発見みたいに話してくれたり、好きなものの話をしたり。話すことがなくなったら、息継ぎみたいに景色を観た。でね、あのさ、それで。話題は尽きない。ときどき、まじめな話もしてみる。
「小学校、たのしみ?」
「うーん……。たのしみが、はんぶん。あとはんぶんは、ふあん」
そっかぁ。そうだよね。でもさ、新しいことって、だいたい大人もそうだよ……と言いかけてやめる。
そのうち電車は、黒磯駅に到着した。
+
黒磯駅。東北に抜けていく鈍行電車では必ず通過する駅で、青春18切符旅ではおなじみの場所らしい。同じような電車旅の装いの人たちが、いそいそと階段を上がってそそくさ乗り換えホームへ向かっていく。
「おトイレに寄っていくよ」
子どもの尿意は突然訪れる。ゆえに、行けるときに行っておかねばならない。これ鉄則。駅間の広い路線ならなおさらだ。
うかつに降りるハメになれば、唐突になにもない駅で長丁場に陥る危険性がある。それに早起きからずっと電車に揺られていたから少し足を伸ばしたい。尻と腰もガチガチである。
ほんとうにいい天気だ。トイレに寄ったり、陽気ににつられて伸びをしたり、ホームで写真を撮ったりしているうちに、気がつくと乗り換え予定時間を過ぎていた。
まあいいか、次に乗れば。
そんなに急がないさ。
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……油断!!!
そう。次の電車が来るのは、当然のように1時間後だった。そうか、それでみんな急いでいたのか。……くぅ……わかっていたはずなのに……。
「どうしようか……」
「なんにもすることないね!なんにもない、しかない!」
しかたなく駅を出て、ぶらぶらと周辺を歩き回る。まあ、急ぐ旅じゃないし、なにかあるだろう。
な〜んもやってない!!
なぜなら、まだ朝8時だから!!!
8時って。いや、8時って。
一周回ってなんかもうおもしろくなってきた。早起きハイだ。大晦日とか、初日の出とか、キャンプとか。ああいう、いつもは活動していない時間に見知らぬところにいるたぐいの可笑しみ。
さっきまで知らない場所で少し緊張していた息子くんも、ようやくがほぐれたのか、繋いでいた手を離して走り出す。道路だから!危ない!と思ったけれど、ちゃんと信号で止まって、手を挙げて横断歩道を渡っていた。……えらいじゃん。
ぴょんぴょん跳ねて、宙に暇を飛ばしているうちにすぐに30分くらい経った。けれど、さすがにやることがなくなり駅に戻ってくる。
よ〜し。
長い乗り換えの橋を渡り、いざ、東北本線へ。
「ジュース、かう〜!」
ホームに降りて、中ほどの自販機へ意気揚々と駆けていく。最近お金のことを覚えはじめた息子くんは、この旅にも張り切ってお小遣いを数えては財布に詰めてきていた。買う。渡す。お釣り。もらう。お金を使う一連のものごとがぜんぶたのしい。とにかく使ってみたくてしかたないのだ。
その足がピタッと止まった。
ナッツ、柿ピー、スルメイカ。キャップ、ジャンパー、スポーツ紙と、自販機の手前で人生の三連単みたいな役満揃いおじたちがベンチに陣取っていた。おかしい。近くに賭場かレース場があるはず。なければおかしい布陣である。
おもむろに、おじのなかのひとりがスポーツ紙から顔を上げ、ジロリとこちらに目を向けた。
「東京からか?」
「……」
追いついたわたしの手をキュッとにぎって、無言で停止する息子くん。いや、わたしでもちょっとたじろぐよ。二の足踏むだっけ?平然装いスルーが染み付いているやつだよこれは。
「あ、はい……」とかなんとか濁して通り過ぎようとすると、にぎった手はそのまま動かず、
「……こんにちは!」
「おう、こんにちは」
ニカッと笑い、おじはまたスポーツ紙に目を戻す。半歩先のわたしをニコニコと通り越し、息子くんは小銭をていねいに数えてぶどうジュースを買った。おじたちはベンチを譲ってくれた。
子どもは真っ白で、まっすぐだ。目があったらあいさつをする。そんなあたり前に少し恥ずかしくなる。ぽかぽかの陽気が気持ちよくて、少し眠くなる。あいさつって、すごい。
まどろんでいると、いつの間にかホームに人が溢れてきた。1時間に1本の電車が到着する。窓際、膝があたりそうなボックス席に座った。反対側にはおじたちが座って変わらずスポーツ紙を読んでいる。
電車は、福島へ向けて出発した。
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山やトンネルを抜けてどんどん北へ。グーグルマップを見ながら福島県へ入ったのを確認する。
「ついに、きた〜!!!!」
「いや、まじに来たね……!!」
ほんとに来た。福島県。新白河駅でイエーイ!ピースサインで写真を撮り、さらに乗り換えて郡山駅経由で福島駅を目指す。
ここからさらに2時間、電車に揺られながらひたすら北へ福島県を縦断していくのだ。しかし福島県。めちゃくちゃ広いぞ。とにかく広い。乗れば乗るほど駅間が広がり、永遠に乗ってる気になってくる。
横でまったく飽きずに車窓を眺める息子くんを尻目に、我が尻が悲鳴をあげはじめた頃、電車は福島駅に到着した。
感慨深い。ほんとうに感慨深い。
始発からここまで、遠かったな……。
我々はついに成し遂げたのだ。
いえーい、着いたぜ!
やったー!!
ちゃんちゃん!!!
完
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……てな感じに筆を置きたいところが、こちとらあと2時間もしないうちに帰らなくてはならないのだ。また6時間、電車に揺られて……。
わたしは天を仰ぎ、気合いを入れ直す。主に尻に。もみもみ。
数時間の福島を堪能し、西日が傾きはじめる前に帰路へと発つ。東京は遠いのだ。
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広大な福島県を南に一刀しながら、帰路東京へ。一度通ったルートだからか、緊張も薄まり乗り換えも恐れず進んでいく。子どもの適応力はすごい。
宇都宮を越えた頃には日もすっかり傾き、いつの間にか車窓から見える景色が真っ暗になった。駅ごとに東横インと居酒屋が光り、街は夜の装いになる。
「ねぇ、みて!おしろがある!」
ああ、そうね。お城だね……。車窓を流れていった煌めくネオン、カリフォルニアホテル(的な名前だった)。そして、でかめに響いた息子の声と歯切れの悪いリアクション。答えにくい無邪気にやられて、気まずいトークが車内に残響する。
そのお城にはクッパはいないけれど、おそらく燃え盛ってはいます。スターです。はい。
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「おトイレいきたい!」
「おお」
「つぎの小山えきは、のりかえがあるえきだから、たぶんひろいトイレあるよ。おりよう!」
「オッケー」
宇都宮線に揺られていると、図鑑を見ていた息子がトイレを申し出てきた。さらり伝えてきたけど、これには驚いた。
ちょっと先の自分の尿意と、我慢できる具合。今の電車の位置と、本から得られた到着する駅の様子。そういうのをぜんぶ想像して、考えたり備えたりできる範囲が広がっている。これはちょっと、すごくないか?朝から心配してトイレの声掛けしまくってたけど、そんなのはもういらぬ心配だったのかもしれない。
さらに栃木県を南下、埼玉県へと入る。電車を乗り継ぎ、わたしの尻が限界を迎えた頃、ようやく家の最寄りの駅に到着した。
さっき出発したような暗がり。尻はガッチガチ。すっかり夜である。早朝出発の一日お出掛けって、こういう時間の飛び方みたいな感覚があるよね。
「さっき、しゅっぱつしたばっかりみたいだね〜!」
おんなじような感想を漏らす息子に、思わずまた笑ってしまう。ほんとそうだよね。たのしい時ほど早く過ぎていくのだ。
もうひと尻踏ん張ってチャリを漕ぎ、家路に着いた。出迎えてくれたママにこれやったよ、あれやったよ〜とたのしそうに報告する息子をなだめながら、お風呂に入ったり歯を磨いたり。なんとか寝る準備を済ましていると、いつの間にか息子は寝落ちしていた。
よっ!と抱っこして寝室まで運ぶ。
やっぱり、重たい。
その重さに、なんとなく安心する。
ベッドにそっと寝かせて、布団をかける。規則正しい寝息が上下して、笑ってる顔はきっと夢の中でも旅が続いてるに違いない。
うーん……と、寝返りで飛び出てきた手を、掛け布団にしまった。そういえば、帰り道はほとんど手を繋がなかったな。
トン、トンと布団の上から軽く胸をなでる。
おやすみなさい。
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旅からひと月。あんなに心配していた通学路にもすっかり慣れて、息子は小学校に通っている。
「バイバ〜イ!」
さいしょのうちはバイバイと振った手をキュッと握り締めて歩いていったけれど、今じゃ、なんのその。振り返りもせずに元気よく駆けていく。
背中。
ついこの間まで、手を取って歩く練習をしたり、離乳食を食べさせたりしていた気がするのに。起きてから寝るまで、目の届くところにいて、抱っこしてずっと一緒だった。
でも、いつの間にか横に並んで座って景色を見るようになった。ひとりでごはんをちゃんと食べて、ひとりでトイレにいくようになった。そして気がつくと、その背中を見送っている。
きっと、これからどんどん君は君の世界に出ていく。わたしの知らない「君だけが通った道」が増えていって、君だけの世界ができていくんだろうな。
うまく言えないけれど、旅から帰ってきて確実に子育てのフェーズがひとつ終わった。そんな気がする。
もう君はしっかりと歩きはじめた。はじめていた。
これからどんどん距離が開いて、だんだん追いつけなくなって……。そんな前向きなさみしさをじんわり噛みしめる。
それでも、君がちょっと疲れたときにほんのちょっとでもたのしい思い出が残ってたらそれでいい……のかもしれない。
まだ小さな背中を見送りながら、そんなことを思う。旅の終わりと、春のはじまり。
おわり。