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ショートショート『ここで5秒思考を止め、深呼吸をしましょう』
文章には、指示がない。
私たちは、誰かが書いたテキストを読むとき基本的に自由である。映像のように枠はなく、音楽のように響きはない。楽譜のように、音の上がり下がりや休符、速度の指示は書いていない。読み手が自由に想像し、好きな速度で、いつでもやめられる。
例えば、テキストにこのような一文が書かれていたとしよう。
ここで5秒思考を止め、深呼吸をしましょう。
このテキストにあたり、思考を止めるか止めないか、止めるとしたら何秒か、その5秒はどのくらいか、深呼吸をするかしないか、するとしたらどのくらい息を吸って、吐くか。
ほとんどの作品は、全ては読み手の判断に委ねられている。本テキストでは、そのほとんどから外れた、例外の一作品について紹介する。
インターネットによる総クリエイターが謳われて久しい現代、ひとりの作家がいた。
クロキスグル(仮名)
彼の名前を知る人は少ないが、その作品の特性から仮名にて記載する。
クロキは平凡な男で、ただ脳科学とスクリプトに詳しかった。彼はささいな承認欲求と、ささやかな社会実験をガソリンにして、ひとつの作品をインターネットで発表した。
なお、以降本文中でも、同作は仮称で『A』とさせていただく。(賢明な読者諸氏はお気づきかもしれないが、現在までにおいて発売禁止となっているあの作品である。改めて作品の検索等はお控えいだきたい)
『A』は、読み手の自由に、思考に、ほんのひとつ枠を設けるような仕掛けが施されていた。内容は凡庸な日常を綴るエッセイに読めるが、エンドマークに向けて脳内にコマンドが蓄積される。そして、終わりの一文、そのスクリプトが実行される。
ここで5秒思考を止め、深呼吸をしましょう。
今となっては彼の真意は知る由もないが、社会においてほんのいっとき、文字通り一息つく時間を増やしたかったのかもしれない。インターネット作家の性質として、彼が存命なのか、実際はどのような人物なのか、個人なのか団体なのかも明らかにはされていないのである。機会があれば、直接聞いてみたいものであるが。
人は、無意に耐えることができない。
例えば、夢。夢においてはどんなに荒唐無稽な展開でも、脳は真実を付する。浮かんだ無意は、意味のあるものとして処理され、その最中は現実と認識される。件の『A』において、彼のささやかな実験の結果は、思考の空白だった。それは成功したが、悪用も容易かったのである。
空白の中に置かれた指示は、真実として実行される。
一見無意に思えるエッセイを読み、空白中に指示を出されると、読者の脳はそれを真実として処理する。それが例えどんな指示であっても。
賢明な読者諸氏においては、この作品が引き起こしたであろう各事件に覚えがあるだろう。(ただし、因果関係の立証が困難でありクロキスグル氏の直接の責任は問われていない。報道を受け、作品のプラットフォームや出版社において自主規制の下発表を禁じたのは記憶に新しい)
XXはYYが好きだ。
明日の提案を決済しろ。
駅のホームに立ったら、前に走れ。
人は現実を認識するのに脳を頼っている。そこに介在するスクリプトは、一切の疑義を得ない。
文章においては、全ては読み手の判断に委ねられている。そのほとんどは。
クロキスグル氏は、意図せず文章と読み手の例外について、社会に立したのである。
賢明な読者諸氏においては、ここでひとつの疑問が浮かぶだろう。
ここまで読んだのは、果たして自分の意志なのか、と。それについては、各社発表の自主規制のガイドラインに沿って、お伝えすることはできない。ただし、ひとつ書けるとすれば、あなたは、思考の迷宮の入り口に立っているということだ。
どうしてもということであれば、もう一度このテキストを最初から読んでみていただければと思う。そして、再びこのテキストを読んでいるということは……。
しかしながら、本テキストにより迷い込んだとしても、責任は取りかねる。諸氏においては、自己の判断の下で実行いただくことを承知おきいただきたい。
ここで5秒思考を止め、深呼吸をしましょう。
おわり。
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