フリーレン楽しい
ほとんどの人は1日の1/3は働いている。
その中には、自分が世界(社会)に何かしらの原因(影響)を与えていると肯定的な実感がほとんどない仕事が沢山ある。
無意味でないという装いで無意味な事をやるというような、いつも何かの欺きを他者から強いられるあの感覚。
X(Twitter)はほとんどやらないけど、NYの地下鉄並になんかヤバい人たちが沢山いて、threadもそんな人達ばかり。
自由な時間とか、自分の人生とか、人間中心主義(anthropocentrism)的キャッチコピーが蔓延しすぎて嫌になる。
自然環境家のベアードキャリコットは自然社会と人間社会との密接な環境について、人間中心主義的合理性に基づいた都市開発、街づくりが最も最悪だと否定している。
人も街も同じ。
一緒にいたい人、住みたい街。
合理性に基づくと、人は力を無くし、街から人は離れていく。
合理的の反対は非合理的。
非合理的なものは不確実。
だから、不確実性こそが唯一の生き物。
不確実性は、日々の娯楽として消費するギャンブルなどではなく、時には臨死体験を引き起こすほどの恐怖を感じる。
死が遠くなった現代。
平和で温厚の裏にある怠惰で無知。
もし誰かの為に成長するなら、見かけの平和さに満足せず、自己の成長や学びを怠らないよう現実をしっかりとみる必要がある。
ただ、何も悪い事をしてないのに、なんで自分を顧みるみたいな不快を強いられないといけないのかという思いもある。
成長なんて目的がないなら別に必要ないはずなのに、本能なのか、社会的な期待なのか、自己実現の為か、ただ不安を軽減したいだけか、なんで人は成長したがるのか。
成長自体が目標ではない場合もあるが、何らかの形で他者や環境との関わりがある限り、そのプロセスを避けることはほぼ不可能なのかもしれない。
ストレス社会でも全力で関わるか、
農業とかしながら社会から離れるか、
もう全部辞めて土に還るか、
何も考えずにボーッとして生きていけないのか
そういえば、ケインズは技術革新と生産性の向上により、21世紀には人々が1週間にわずか15時間の労働で生活を成り立たせることができるようになるだろうと予測していた。
でも、依然として週40時間以上の労働をグレーバーの指摘する「ブルシットジョブ」(意味のない仕事)に多くの時間を費やしている。
資金を右から左に流す人も、人を右から左へ流す人も、書類を右から左へ流す人も。
自分の仕事には意味、価値があるのか。
仮に意味、価値がないなら自分は一体生きているのか死んでいるのかも分からない。
これは、AIや自動化技術が生産を行う時代になんでまだ人々が無駄な仕事を続けるのかという問い。
現代社会には存在する必要がないにもかかわらず、書類仕事のように経済構造や社会規範によって続けられている仕事が多く存在していて、これらの仕事が従事者に疎外感や無力感をもたらし、社会全体の幸福感を低下させている。
日本の会社によく見られる、本質的には生産に寄与せず、むしろ管理職や官僚的な業務、無駄な会議や文書作成など、現実的な価値を全くといって良いほど生み出さない労働が増えている。
"管理などの役職に就いている人が無駄"
なのではなく、そういった業務が無駄。
そして、AIやロボット技術が進歩し、多くの物理的な生産や単純労働が自動化される一方で、なぜ多くの人が依然として働きすぎなどによるプレッシャーで自殺してしまう人がいるのか。。
その一因には、僕たちが生きる社会の根底にある価値観や宗教的な思想が関与している可能性があると思う。
例えば、西洋社会に根付くキリスト教的価値観、とりわけプロテスタントの倫理は、労働と勤勉を道徳的に重要視してきた。
宗教改革以降、勤勉と労働は神の意志を体現する手段であり、仕事を通じて自己の価値を見出すことが重要とされている。
つまり、「プロテスタント労働倫理」
仕事(たとえそれがブルシットジョブでも)を通じて成果を挙げ、世俗的な成功を得ることは、神(かなにか)の恩寵を示す一つの手段とされ、生産性を追求することを社会的な義務として内面化してきた。
きっとこんな背景が、AIや自動化が労働の多くを代替できる時代になっている今でも、労働そのものを手放すことに対する社会的な抵抗感を生んでいる(のかもしれない。)
働かざるもの食うべからず!みたいな。
その証拠に、飲食店など経営者に携わる多くの人が、コロナ下で政府からの助成金が下りるにも関わらず、仕事がなくて鬱になったり、無気力に襲われたりしていたでしょ。
そして、怠惰や無価値とみなされるという社会的なプレッシャーが、「仕事があること」そのものに価値を見出してしまっているおかげで、その仕事が実質的な意味を持たなくとも、働き続けることが道徳的であり、社会的な承認を得るために重要とされている。
それが例えクソだとしても!
しつこくてすいません。
労働から解放されることが理想的な未来像とされてきたにもかかわらず、現実には多くの人が仕事に執着し続ける背景には、以前書いた全体主義に絡め取られてしまうような現代特有の心理的・社会的な要因が作られる。
仕事を持たないことで生じるアイデンティティの喪失や、社会的な役割からの疎外感を恐れるため、たとえ無意味な仕事であってもそれを続ける傾向が強まるという、なんとも不毛な世界観。
そんな暗いことを事を考えずに、もっと明るく生きようよ!とか、簡単にそれが出来るなら未来がある若い人が自殺なんてしねぇよ馬鹿。
幸せになりたいって感情がポジティブだと思っているなら、それは実は歴史的に見ても異常だという事実も知っておくこと。
幸せに生きたいなら、たまには暗い道も歩かないといけない。
こういう事実から一切の目を逸らしてきたポジティミズムが昔から違和感を感じずにいられない。
ネガティヴは決して悪いだけではない。
ある種の人にとって、ポジティブとネガティブはどちらも必要。そしてネガティヴも使い方次第。