見出し画像

一度目の教師を辞めた話①

2019〜2022年度: 教師生活ラウンド1
2023年度: 回復期(大学事務員)
2024年度〜: 教師生活ラウンド2

こんにちは。2024年度から二度目の教師生活をしていますnowakoと申します。
今回は一度目の教師を辞めた話をしたいと思います。辞める決断をして2年、ようやくその時の事を「過去の出来事」として客観的に振り返ることができるようになりました。それまでは、「頑張れなくなった自分」を思い出すのはとても心が痛む行為でした。

しかしここ数ヶ月、担任を持っていた当時高1だった生徒から大学合格の連絡がチラホラ来たことや、教師生活ラウンド2で「再び立ち上がれた自分」に出会えていること、そして単純に2年という時間的距離が開いたことで、振り返ることができるようになりました。

教師生活ラウンド1で4年間お世話になった学校の状況は軽くこちらに書かせていただきました↓

どこの学校の教員も多忙を極めてギリギリでやりくりをしていると思いますが、私ももれなく自転車操業でした。学校改革で様々なことの過渡期であり、常に安定せず無から有を生み出しているような状況でした。
どこも私学はそうなのだろうと思っていましたが、今勤めている学校は一先ず昨年と同じようにやっていれば回るので、やはりそこは大変だったのだと思います。

2022年度、教師として少しずつ力がついてきた4年目。初めて学年を持ち上がり、ワクワクする新年度でした。部活は3つ目の運動部。ようやく自分の経験のあるスポーツになり、こちらもワクワクするスタートでした。しかし、、、


1. 研修日がハズレだった

この学校は土曜も授業があるので、私が就任した年度から「研修日」といって各教員に日曜以外にもう1日、休みが割り当てられていました。
この年度は私は初めて土曜日が研修日でした。
ただ、土曜日は試合の引率や保護者会、学校説明会、分掌が企画する行事、学年行事、土曜しか来られない保護者との面談などがあり、後から数えてみたら45回のうち21回は出勤していました(研修日は書面上は勤務日なので出勤しても手当のようなものは発生しない)。それに日曜が試合引率だったりすると休みがないまま週が続いてしまう感じでした。

もともとそんなに人との予定を入れる方ではなかったですが、それにしてもこの年度は家族や職場以外の人と食事や遊びに行った回数が見事にゼロでした。
(45回中24回の休めた研修日はというと、平日にできなかった家の掃除と授業の資料作りをして何とか生活と仕事を回していました。)

そんなこんなでおそらくその年度、出勤日数だけは職場内でトップだったのではと推測しています。体力が比較的あり負けず嫌いだった所と、人と争うのが嫌で「自分が少し損してその場が収まるのなら」という精神で、休みを死守する=自分を守る、ということをしないことを同期に「あんたダメになるよ」と指摘されていました。
だから自己管理にも問題があったと今では反省しています。

因みに今の勤務校は、土曜の授業がないので休み扱いなのですが部活があるので結局毎週出勤です(手当は出る)。なので前の学校は他の学校の教員より勤務日数が特別に多かった訳ではないです。
ただ、同じお給料で働いているのに周りの先生はちゃんと週2回休めていていいな、ちゃんと授業準備ができていいな、という相対的なものがあり少し辛かったです。「考えちゃ負けだ、周りを見て比べたらダメだ」となるべく封じ込めるようにしていましたが。
担任をしていて運動部の顧問で土曜出勤率が高いのに土曜に研修日が当たったこと、これが私がダメになった理由の根底かなと思います。
(※因みに今その学校は土曜の研修日はなしになったそう。)

運動部の顧問で大会引率で休みが潰れまくることは、自分が好きなスポーツだとしても、正直しんどかったです。
確かに喜びや悔しさを共有し、生徒と一緒に青春はできるけれど、我に帰ると「他の先生は1日ちゃんと休んで家族や友人と時間を過ごしたり授業準備もできただろうに、私は他人の子がスポーツするのを見て『やり甲斐』を持ち帰るだけで休みが終わった。明日の授業どうしよう。眠いし身体は疲れているし。」と帰り道に沈みゆく太陽と夕焼け空を見て絶望に暮れるのです。

2. コロナ禍の2年を取り戻すべく

2022年度ははコロナ禍の制限が少しずつ明けた年でもありました。担当学年はコロナ禍の年度に行くはずだった海外研修に行けなかったので、この年度に代替プログラムを国内で企画しました。
最大限生徒に満足感を与えようと、学年主任のバリバリの先生が引っ張ってくれました。試験等で生徒が早く帰る日や校外行事の後を使って複数の施設や場所の下見へ行き、英語体験型の宿泊行事を2本企画しました。また、日本文化を校外で体験し、地域の留学生を学校に招いて英語で交流してそれを伝える行事も企画しました。とにかく色んな場所へ下見と打ち合わせに行き、企画をし、生徒が海外研修に行けなかったのを少しでも埋めるために奔走した覚えがあります。

ある宿泊行事では、生徒が英語の施設で活動している間は学校で別の学年の授業をし、ホテルに戻って晩御飯の指導と宿泊の指導をして泊まって、また朝は電車に乗って学校に別の学年の授業をしに行き、生徒のいるホテルに戻って、のような過ごし方をしました。

なかなかにハードでしたが前年度から持ち上がった学年の生徒だったこともあり、コロナ禍で様々な行事がキャンセルになる現実をやむなく受け入れてきた悲しい表情も前年度たくさん見ていたので、校外で思いっきり生き生き楽しむ生徒の姿を見て、一緒に過ごせたことは嬉しかったです。

この教師ならではのやりがいのようなものもあり、走っている時はアドレナリンで走れてしまいました。

3. 心身に現れた異変

しかし少し身体がおかしくなり始めたのが11月頃。文化祭も終わり忙しさがピークを過ぎた時でした。久々に2連休があり、出勤の朝。いつもなら行きたくなくても理性が働いて起き上がるのに、なぜか心が向かず、欠勤することに。連休だったのに授業準備をしなかったことや、久々に実家で家族と週末らしいことをしまって、力が抜けて仕事モードに戻れなかったのです。足を止めるとダメなマグロパターンですね…。

次の日。
昨日ズル休みをしたのに仕事を何も進めていないのもあり、心が向かず、1,2時間目が空きだったので3時間目から遅刻で出勤。
きっといつもの週明けみたいに、学校に行ってしまえば平気だろうと思っていたのに、学校に足を踏み入れた途端、生徒たちのエネルギー量に魂が吸い取られそうになりさらに辛くなりました。
いつもだったら生徒のエネルギー量に引っ張られて元気になっていたのですが、完全に負けました(何に?笑)。
ひとまず3限の授業に半泣きで行き、途中までやって力尽きて、最後の方は演習の時間として自習にしてしまいました。教科主任に話して帰らせてもらい午後は別の先生に代講に入ってもらいました。


この週から、起きると焦燥感と恐怖感に包まれ、動悸がして、朝一でお腹をくだし、身体がこわばって息が苦しくなるような一連の症状に襲われるようになりました。

→②へ続く