「46歳で計算障害とわかる」

私は、46歳(1971年生まれ)で、発達障害の中の学習障害の中の計算障害と、わかった。自分は計算が弱いのは知っていて、工夫してそれと付き合ってきた。
今回わかるようになったキッカケになったのは、
給料日前、家計簿に合計を出す時の事です。計算が苦手な私は計算器で計算する時、合計を別の紙に書き写していき、一回揃ったらその数を家計簿に書き写していた。それがその時、10回やっても合うものがでない。これは駄目だと思って諦めた。それを病院で、話した。
前に物覚えが悪くなった話を先生に話した時は「まあ皆んなそんなものだよ」と言われた。
が、今回は学習障害みたいだね。という事になった。まぁ、ここまで育ってきたので、そういう仕事しなければいいだけなのだけど。一応テストしたいとやってもらったが、軽度の物だった。

一番最初に自分が計算が弱いと知ったのは、小学3年生。割り算の筆算を習った時、居残りさせられた。やり方は理解していた。
居残りはされてない親友のとーこが、先生に言う「なゆたさん、やり方はわかってるけど、計算が間違ってるだけですよ。」で、とーこに救われ帰宅する事ができた。筆算の割り算は、かけ算、と引き算を必要だ。まあ、この時点で先生が気づくべきだったのかもしれないが、まだ学習障害というもの知られてなかったのであろう。
私は自分を理解し工夫し、中学の頃には、自分で「数学は得意だが、算数は弱い」と言っていた。
小中の間は一年に一度、図形の単元があったがいつも100点だった。計算の部分は少ないのでなんとかくぐり抜けていた。

中学の時、父に「なゆたは、右脳(未だに右脳か左脳かも覚えられない)ばかり使ってる。感覚ばかり使ってる。左脳(右脳か左脳か全然覚えられない)を使え。」と言われ、なるほどと思った。

中高は、学校を休む時期、行く時期を繰り返しながら
育って行く。高校は2年生の11月11日からは、ほとんど休まずに行った。
春休みになると、先生達は私のためだけに補習をしてくださった。一番ちゃんとしてくださったのが古文の先生で、一対一で、教えてくれるというので、全然分からないといけないので、もらっていた薄い教材を読んで行くと。「すごい。受験もバッチリじゃないか」
・・・か、き、く、くる、くれ、こ・・・
学校中で一番若い男の先生で、ほぼ女子校なのでモテた。友達は、二人っきりの教室で教えてもらったのかと、ぎゃーぎゃー騒いだ。私はなんとも思ってなかったけど。

次に被服の先生。の話の前に書いておかなければいけないなのが、うちは普通科普通コースだが、女学校時代の名残りか、いいお嫁さんを育てるための、学校だった。

で、被服の先生は、浴衣の作り方を時間を割いて教えてくれた。学校を休んでいた時、家でお裁縫をさせてもらっていて、浴衣も母に教わっていた。被服の授業の時には、だいぶ進んでいて、背中で嫌味を言われた「私達苦労してやってきたのにねぇ。」

数学の先生は、私の一年の担任の先生に丸投げした。数学の先生の風貌も覚えていない。私の一年の時の担任の先生は、国語の先生で図書館の先生で、私は図書委員だった。ベテランの先生で冴えない風貌で、変な噂もあって嫌ってる子もいた。が、私は優しい先生が好きで、本当に感謝している。
国語の補習は、図書館の本を読んで、感想文を書く。これは普通ですよね。私は宮沢賢治の長文の童話を読んで感想文を書いていた。
で、数学は、図書館で教科書を読んで、単元の最後ある問題を解いては、その国語の先生に丸つけしてもらった。

高3に、なった。うちの学校は進学する子はほとんど、推薦で行った。私は推薦はもらえないので、受験と決まっていたのが、よかった。
春休みに進学希望の子は模試を受けた。数学は、14点だった。みんな0点だった。先生達、数字の先生も驚いて、「すごい」と話した。苦笑。
受験のために塾に通わせもらった。父母に感謝している。短大は、国語、英語での受験と決まっていた。一つ四大を第1志望にしていた。選択科目で、私の中では数学を選ぶべきと思った。
で、塾で、国語、英語、数学を勉強させてもらった。国語、英語は理論的でわかりやすく大変伸びた。が、数学は、全くわからない。うちの学校は数一も終わっていなかった。数学は数三までありその先もある、進学校では2年までに数三まで終わらせていた。そんな事知らなかった。全くたちうちできず、暗記の苦手な私は、歴史を選択する事になり撃沈した。

数学では、公式も複雑になり、テスト直前にみんな必死で公式を覚えていた。暗記は、私は苦手だった。
試験を始まると、うちの学校の試験はまず親切に、公式を書けと出る。私は、暗記は苦手なので、公式をその場で編み出すというめんどくさい事していた。その後問題は、当てはめて計算していくのだが、当てはめるのは合うのだが、計算が合わない。みんなは当てはめる事は出来ない。という訳で、みんなより少し点はよかった。こんな事をしていたのは、計算障害とわかりまで、人には秘密してやったいた。

そして、象徴的なことが起こる。物理。ほぼ女子校なので、みんな理系が苦手だった。教えてくれたのは、おじいちゃん先生。可愛くて、おじいちゃん先生の中では一番人気だった。おじいちゃん先生達の授業はいつも皆ざわざわしていた。
テストの結果を配る前に、先生が言う。「100点がいます。」まるで、小学校で、褒める時やるように、答案用紙を前に出し。
「計算は間違ってますが、やり方があってるので、100点にしました。」先生は自分の授業を理解してくれる生徒がいて嬉しかったのだろうか。この時点で、私が計算障害と気づく事は、おじいちゃん先生には無理ですよねー。
卒業にはまだ難関があった。珠算の授業。そろばん。そろばんは、母から小さい時に教えてもらっていた。素晴らしい道具で、やり方は理解していて、喜んでやっていた。
「1+2+3+4+5+・・・」そう、計算問題を見ながらやっていなかった。計算器が、そうなのだが、紙に書いてある数字を移す事が苦手なのだ。確か6級だったか、(覚えてない)をとらないと単位を取れないというのだ。確か5桁を10段くらい足すのを8問くらいを、確か3分で、やって、たぶん何問以上正解しなければいけない。(全部ぐらいしか覚えていない。)
ヤバイ。そろばんを打っている時は、数字がたくさんの蝶々のように飛んでいて、ふわふわしている状態。ヤバイ。
なんとか、合格した。

選択の授業は、当然音楽を取ったいた。先生は、合唱部の担当の先生でもあった。音楽は数学とも言われる。楽典の授業では、面白くて釘付けで、先生は、私の目を見て、思い込みだが、私のためだけに授業してくれて、範囲を超えていた。
受験の内申点は3年間で出されるので、当然、私はは全部2がつく所、音楽だけは5がついた。そして、児童教育学科、音楽コースにだけ合格でき、ピアノを習い始めることができた。先生のお陰だ。感謝申し上げます。
音楽のテストはなく、面接の時にピアノを習ってない事を伝え、両手で指を一本ずつ折る事と、ドレミファソラシドと歌うように言われやった。

短大は中退する。

フリーターになった。接客業が好きでレジも好きだった。ポスレジで、商品のボタンを押して「何々がお一つ、何々がお二つ・・・。おいくらお預かりします」とお預かり金額を押し。お釣り金額出るので、お金を揃え、渡す。おつりを揃えるのも苦手だったと思う。店長に「時間帯で誰がいつも間違ってるかわかる」とか嫌味を言われてた。
経験と信頼を積むと、レジ締めもやり、こういう風にやるのかと感心した。ちゃんとやってたのかなぁ。セールストレーナーにもなる。「時間帯で、誰が間違っているかわかる」と言われたが、その頃には自信があったので、自分の事を言われてるとは思ってなかった。

結婚し、38くらいから派遣で接客業をたくさんの種類をやった。

一番最初にハマったのがコンサートのグッズ販売。これはレジのものでなく、釣り銭箱というダンボールでできた素晴らしい箱がある。こちらの素晴らしさはまた語りたい。
で、計算器、「何々がお一つ」一つずつ横に商品をずらし「何々がお二つ・・・」「いくらいくらです。もう一度確認させていただきます。」とまた、商品を元に重ねながら、ずらす。さっきと同じ金額なのかを確かめ請求する。覚えてる訳がない。「いくらいくらお預かりします。」はマイナス、金額。おつり。レジではないので、追及される事はなかった。グッズの金額 は500円単位だったからましだった。ほとんどが、2桁か3桁で、極まれに、3桁になった。が、ぐちゃぐちゃだったと思う。すみませんでした。各芸能事務所の、グッズ担当のサブの方。サンデーフォークさん、ご迷惑おかけしました。

レジも進化し、お釣りが勝手に出る物で、お客様がお釣りが、細かくならないようにお金を出される。これは私も買い物する時できるので、私のお財布はジャラジャラではない。で、
「いくらいくらお預かりします」とお預かり金額を打ち、ガシャン。ジャラジャラン。
やっちまった。999円出てきた。
ひどかったのが、ポスレジでもなく、商品を打つボタンはなく、金額を打つ物で、ボロボロで、緊張しっぱなしで、2日目は首になった。悪夢だった。

レジも皆さんご存知の通り、進化し、バーコードで、ピッピっと預かり金額を打たなくてもお金入れるだけでお釣りが出るようになる。するとレジ締めで、1円でも合わないと、皆帰れないとかなってきて、みんな震撼と静まり返る。ヤバイ。
しかし、素晴らしい店長さん達だったので、様子を見て、私をフィッティングルームや、売り場に配属してくれた。入り口で、大きな声で満面の笑みでお出迎えし、商品整理しながらセールストークをし続けカゴを配りまくってると、エリマネとか来ると、大抵、あの人の名前は?と大変褒めていただいた。
列の最後尾の看板持ちとか大好きだ。頼まれもしないのに、声出し続け列を整えお客様対応した。
本当はレジの仕事は好きなのには変わりない。確実にお客様に触れれて、ロールプレイングで、話して行くのが好きだ。さすがにもう出来ない。

販売業をやってくるとついてまわるのが、検品と品出し。検品は数を数えるだけなのでバカでも、やれるものと思われがちだが、できない。私にとって数は不確かな物で、移り変わって行くもの。ここで、さすが詩人の表現。
できるだけ逃げた。もちろん、工夫した。10ずつ向きを変えて置いて、メモを取ったり。2回数えるのが決まりだが、合わない。もう一回数えてと言われ。結局別の子に代わってと言われる。

お金が欲しくてピッキングの仕事もした。接客業でなく、声も笑顔も出せず苦手だとわかっていた。こちらも誰でもできる簡単な仕事とされてるが・・・。数字とアルファベットの発注書をみて、商品を探し出すというものだが、数字が覚えれない。どこの棚にあるか、もちろん、番号順に並んでいるのだが、当然列が変わるのが、どこが切れ目かわからない。これは正直に最初から人についてもらいながらやった。もう、明日からはキャンセルしようかと思ったが、次の日も来ると、私の顔はできそうにみえるので、パソコンに同じ発注書を打ち込むという仕事に回される。パソコンもできないし、できないと訴えたが、簡単だからと言われやる羽目に。
この仕事なんとか3日間やりきった。

好きで楽しくやっていた仕事があった。バスの運行管理の仕事を2種やった。
笑顔で「いらっしゃいませ。」と降りてくる人を数え、「ありがとうございました」と乗降者数を管理し、数台で回るシャトルバスのペース配分をする。乗降者数を数えるのはカウンターを最初から貸してもらえた。前は指を折って数えてたそうた。累計を出して行く。計算器をつかえたが、3桁に繰り上がる瞬間は緊張した。用紙を反対側から見てる社員の責任者は暗算し、男の人はすごいなと思った。
バスのペース配分も時間の計算60で繰り上がる。自分で間隔を8分とすると、8足さなければならない。さらに、出発時間の何分前かを、列を揃えてくれる警備の人に指で示す。引き算。
始めは、時計や、計算器をスマホでやっていたが、その後は、アナログの小さい時計、カウンターは、二つ用意し色違いにし、さらに「乗り」「降り」と書く。のと計算器。
「なゆたさん、これ全部が用意したんだ。」これを楽しくやりこなしてた。すごくない?
だが、同じ派遣会社で、レジの仕事で失敗し、仕事を紹介してもらえなくなってしまう。


計算障害とわかって、少し経ったある日、ラジオ聴いて爆笑して、音楽が流れると体を動かし、トークになると真剣になる。目線は写真立ての中の娘達を見てるのだが、家族からは、空(くう)を見てるように見える。で、下の娘が言う。
「ボーッと、ラジオ聴いてないで、数独でもやりながら、ラジオ聴いたら」
「計算障害なんですけど。」

彼女は勉強ができる。というか小学生の時から、努力してきて、賢い可愛いいい子に育った。努力が当たり前だからこの台詞が出てくる。

自分の子が、発達障害とわかっても
「あなたはこれができないんだから、人一倍これを頑張りなさい」と言う事になる。

2.3歳で、また、小学生になって、今まで苦労してきた事が、発達障害とわかり、飲む薬もつける薬もなく愕然とする親もいるだろう。なんとか、順応させてあげたいと努力しても、泣く事もあるだろう。

発達障害は、個性と言われるが、それは理解への入り口でしかないように、私は思う。私には工夫してお付き合いして行くもののような気がする。学習障害と、わかってたった数年しか経ってない私の話は無責任だが。
もちろん、個性を発揮され成功されている人もたくさんいる。
私は個性を、発揮できているのだろうか。個性を発揮できるようになるのだろうか。


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なゆた
ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?