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【短編】ミラノ・ブルース

   湿気のない太陽の照りつけが肌を焼く。さっきからツンと鼻を刺すような臭いがする。ほぼ全裸で地面に横たわる人。男か女かもわからないその生き物は、生きているというより”死んでいない”と言った方が正確だった。赤信号を次々と渡る群れにおいてかれまいと、大きなライフルを持った警察を横目に歩く。
 薄汚れた建物。小便とたばこの吸い殻が混ざった異臭。砂糖の含有量が頭を抱えたくなるエスプレッソ。ミサンガを体に当ててくる陽気な黒人たち。汚いし、変なことがいくらでもある。
 それでも——それでも、この町は美しい。何百年も前の先祖たちが同じ景色を見た。今はもう夜の9時。けれど、まだ、ミラノの空は信じられないほどに青かった。







「Buona giornata」

「Ciao, buona giornata」

 最寄駅に帰って来て、宿からすぐにあるスーパーで適当に買い物を済ませる。この国はご飯が美味しい。ちょっと変色していたり一部分が腐っていても平気で陳列されている食品もあるが、チーズやパスタ、生ハムやソーセージのコーナーに行くとそんな些細なことはすぐに忘れるくらい楽しいのだ。冷凍食品も山ほどあるし、コーラなんて狂ってるくらい大量にある。僕は6本売りされているドリンクの包み紙を乱暴に破り1本取るのが好きだ。床に破り残った紙が散乱していようと、誰も気にしない。目当てのものを揃えレジに向かう。僕が慎重に選んだ商品たちをバーコードで読み取り、まるでごみを捨てるようにホイホイと奥に投げていく。だが、不思議と悪い気はしない。不機嫌そうに袋の有無を聞いてくる。勿論何を言っているか聞き取れないが、繰り返し買い物をしているうちに聞かれている内容は何となくわかるようになった。

「ah, no. Can I use this Card?」

「uh, si. si」

英語とイタリア語の混ざった会話。それがぼくにとってミラノの普通だった。イタリア語は10個くらいの決まり文句だけ覚えて、後は英語。郷に入っては郷に従えではあるが、流石に新たな言語をまた覚えるのは骨が折れる。どこまでいっても僕は旅行者であり、観光客であり部外者だ。それが心地良いからここにいる。イタリア語をちゃんと覚えるつもりはこれからもなかった。
 そんな僕でも、一つ覚えようと思った言葉があった。「Buona giornata」。いわゆるHave a nice dayである。日本語だと「良い一日を!」ではあるが、正直この訳は好きじゃない。たいして長くは生きていないが、少なくとも僕の人生で「良い一日を」と日本で言われたことはない。というかそんな文化はハナから存在しない。だからこそ、この言葉に強く惹かれた。買い物をしたとき、ホステルから出かけるとき、出ていくルームメイトとすれ違ったとき、見知らぬ人に写真を頼んでお礼を言ったとき。当たり前のように交わされるこの言葉が好きだった。買った商品を雑に放る店員も、この言葉を無意識的に口にするのだから、決して憎めない。出入り口にいつも立っているお父さん体型の警備員と、しつこく話しかけてくる物乞いに目もくれず、僕はスーパーを出た。


 通りを歩くと、昼から汗をかきながらエスプレッソを飲んでいる人を見かける。ミラノのカフェテリアはテラス席が当然のようにあり、大聖堂ドゥオモの横の通りなんて、さまざまな店のテラス席が隣接していて間を通り抜けるのが大変なくらい狭い。サングラスをして、相当に甘いパンをかじりながらすするエスプレッソは酸味がガツンときて旨い。旨いのだが、こんなものを毎日食って飲んでをしていたらそりゃあんなダイナマイトボディが出来上がるよなとも思う。日本では身長が高い方の僕だが、ここでは変に目立つこともない。背の高い女性に「デカい」なんて言葉を投げかけるナンセンスなニンゲンは、だったらお前は「ありがとうございます。あなたはチビですね」と言われる覚悟があるのだろうか。この国では、そんなことを考える必要すら無い。想像より洒落た街では無いが、それでもヨーロッパの風に吹かれるのは悪くない。今日は午前から行きたかった古着屋さんに行って、メイドバイイタリーの軍モノを買った。ただそれだけで、フフンと得意な気持ちになるのだから、多少汚くてもこの街の魔法にかかっているのは間違いなかった。






 ホステルに戻ると、仲良くなったルームメイトの女の子に英語で話しかけられた。今日はちょっと遅いね、どこいってたの?と。ナヴィリオ・グランデの出店と、近くの古着屋だよ。と答えながらそろそろいい加減に彼女の名前を聞かなきゃと思う。彼女がアルバニア出身なのはわかっているが、発音があまりに難しい名前を言われてなかなか覚えられずにいた。ベティと言うニックネームはわかっているのでそれで済ませてしまっている自分を責めたいが、今更聞き直すにはだいぶ仲良くなってしまっていた。

Anyway how about you? そっちはどう?How have you been today今日は何してたの

Nothing special, just did my works, little walking around, that’s it特には。課題やって、ちょっと散歩したくらいよ

Really? Sooo many things what you should see are out there I guessマジで?見る場所なんていくらでもあるじゃん

ah, it’s just too hot to go outいや、暑すぎて外出たくないだけ

 まあそうだけど。というか、ミラノに来て「いつも通りよ」と言えてしまうのは良いことなのか悪いことなのか。他愛のない雑談が、さっきから鳴り続けていた扇風機の轟音を思い出させる。僕らが泊まっているここにはエアコンはなく、ただただ流れる汗を垂れ流す他なかった。
 学生でコンピュータグラフィックを専攻しているらしく、たまにデザインを見せてくれていたが僕にはさっぱりだった。わからないなりに思ったことを伝えるとそこからご飯を食べるようになり、シャワーを浴びた後ののんびりとした時間は毎日彼女と過ごしていた。外暑すぎ、とか共同の冷蔵庫からまた食い物が盗まれたとか、ここのオーナーの態度悪いよねとか、悪口で盛り上がるのはどこの国の子も一緒なのか、そういった愚痴から入った会話がいろんな方向に流れていくと言うのがいつものパターンだ。家庭環境が芳しくなく、飛び出すように海外に来たベティは次に行く国を考えている。とはいえ貧乏学生なのでリッチなことは出来ない。僕もこのホステルにいる時点で相当逼迫ひっぱくした金銭状況なのは変わりないが。

She is a cautionary tale for me. 母は反面教師なの

huhはぁ

What I need to learn from her is nothing, あんなふうになっちゃダメってことしか教わってないけどbut I could say the only thing that she taught me was I should never be like her」

Oh, that’s… that’s harsh, yeahあー、そりゃ、すごいね、ホント

割と言い方のキツイ彼女だが、聞いててスカッとするところが楽しい。お互い、別の国から来た同士なのでぶっちゃけて言えば“どうなっても良い関係性”であり、だからこそ仲のいい人や自分の国では言うのがはばかられることも、ぽろっと言えてしまうのかもしれない。ベティはあと5日ほどでミラノを発つつもりらしいが、また具体的な計画はなく、国を変えるのかエリアを変えるのかもあやふやだった。水面上昇でいつか無くなると言われているヴェネツィアに行ってみては?と提案したところ「泳げないから無理」と即答したが今それは特に問題ではないような気がする。







 夜になっても消えない、街にそこはかとなく漂うアンモニア臭に安心感を覚えるようになった。スーパーで買った、真っ赤なパッケージのグラノーラをお菓子代わりにつまむ。ここにきてから、何もせずぼーっとする時間が増えた。Twitterを見て、閉じた後すぐインスタをスクロールして、その後にまたTwitterを開いてしまう最悪な“無意識的浪費”はもうしてない。ただ、砂っぽいベンチに腰掛け、ちょっと甘く香るヘロインの匂いを外から感じ、少し離れたところで彼女と電話しているアラブ系の男性の大声をBGMにあくびをする。
 ここにきた理由も、ここで何かしなくてはいけないこともどうでもよくなる。ただ、また明日もきっとエスプレッソを飲むし、ミサンガを当ててくる人を無視するし、物乞いを横目に通りを闊歩かっぽするだろう。それが僕にとってのミラノだから。
 そろそろ10時。ドゥオモが浮き上がり、スプリッツの色がキラキラと輝く時間だ。広い空を見上げると、さっきまでバカみたいに青かった空は紫とオレンジのグラデーションを作っていた。

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