【短編】明日の起きがけの一杯を酒にしようと思う
——————ワインに対して「飲みやすい」は褒め言葉じゃないと思う。
僕
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今日の飲み会は断った。同僚は朝から張り切って仕事を進め、なんとか定時から少し溢れるくらいの時間に退社していた。僕もお誘いを受けていたが、「明日が早いので」と嘘をついた。優しい嘘はついても良いと思う。誰も傷つけていないのだ。学生のころみたいに、なぜか何回も身内に不幸が起こる愚かな真似はしていない。
明日の予定も空けた。友人に珍しく遊びに誘われ、当然心は動いたが今回は丁重にお断りをした。3〜4人で集まるのがその仲良しグループの常で、だからという訳では無いが、まぁ僕一人くらいいなくたって大きな問題はないのである。そして次の予定が立ったらみんな誘ってくれる、気の良い子達だ。今回はスミマセン。
忙しない足取りで、我が家に程近いスーパーに入る。三週間前にネットで買った、ちょっと良いワインにあう惣菜を探し、手に取る。ザーサイ、ポテサラ(20円オフ)、タコの唐揚げ、刺身3点盛り(30%オフ)。
税込1233円。支払い方法はゆうに10を超え、やれスマホにポイントをつけたり、やれ月末を狙ってカードに入金して百ポイントを貰ったり、このスーパーでならむしろビニール袋をもらったほうが得だなと思案したり、レジ前の準備は以前に比べ随分と慌ただしい。プログラムされたロボットかのように手順を済ませ、さっさと帰路に着く。さて、ここからはお祭りの準備だ。
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風呂から上がってスキンケアをする。
会社で隣の席の、中町という男がいる。中肉中背で決してハンサムとは言えないが、しかしそれでも清潔感と人から見られることに対してのケアが抜群で、いつ見ても顔はツヤツヤしている。全身脱毛もしているらしく、個人的にはやりすぎではと思いつつ、本音はちょっとアドバイスなんかを聞きたい。しかしながら、今のところは出来ることをするまでよと化粧水と乳液を浸透しろ、浸透しろと念じながら塗ったくり、カサつく唇にはワセリンを塗る。ドライヤーをしながら、メールで送られてきたPDFをチェック。週末ではあるが今日中に先方に送る資料を仕上げなくてはならないので、やむを得ないところである。早く帰れたのだから文句は言えない。内容に不備がないことを確認して、メールを返す。ようし、これで今日はもう自由の身だ。ザヒューマンオブリバティだ。ドライヤーを松明のように頭上に掲げ、ケータイを左腰に抱えてみたが、鏡の前に映るぼくはただただ普通の日本人男性であった。
買ってきた惣菜、そして大ボスであるワインをテーブルに並べる、前に、タコの唐揚げをアルミホイルを敷いたトースターに放り込む。こうすると衣のサクサク感とタコのしっとり感が簡単に取り戻せるのだ。
さてワインに戻るが、本日はブルゴーニュ地方にある、やや酸味の強めなピノ・ノワールである。ラズベリーやチェリー、少しコショウっぽいニュアンスと程よいタンニンのバランスが味わいどころであるが、空気を含ませることによって、鼻に抜ける香りがより風味豊かになり、全体的にフルボディとまでいかなくても多少の重厚感も楽しめるエレガントな一本———だそうだ。
これは全部ネットに書いてあったことであり、普段はビール党なので他のワインとの違いなんてよくわからないが、こういうのは気持ちである。今日の僕はエレガントなのだ。キュッと栓抜きでコルクを抜く。キャップじゃないだけでなんだかテンションが上がる。
チーン。トースターの高らかな音が、至高の時間の始まりを知らせた。
ワイングラスにトポトポと注ぐ。他の誰のことも考える必要はない。飲みたい量を、飲みたい分だけ飲む。最近はだいぶ時代の変化に対応するようになり、結構なベテランでさえ「自分で注ぐから気にしないで」と言ってくるようになった。ありがたいことなのだが、しかしそれでも「いやいやいや〜」と言って注いでしまう自分がいるし、周りがやっていたらやっぱりやったほうが好印象なのかしらんとも思う。過渡期というのは難しいものだ。
「かんぱーい」
なるほど、非常に飲みやすい。
ザーサイをつまみながらテレビをつけると、物騒なニュースが流れる。
《刃物所持の男 警察官が発砲》午後8時ごろ、都内某所の集合住宅で110番通報があり、警察官数名が駆けつけるとそこには刃物を持った男性がいた。警告をされるも男は近づいてきたため、拳銃2発を発砲、男は病院に運ばれたが命に別条はないという———。
この手のニュースや記事は、なぜ見出しがこうも変なのか。警察官が発砲。彼らは職務として特定の状況下では使用が認められており、当然今回も警告を無視して警察官や近隣住民に対して危険なシチュエーションを強いた男がいたため、結果的にそうなっただけだ。大切なのは“放っておくと危険な人物がいて、警察官がそれを無事取り押さえた”ということである。そこに発砲の有無は全く関係ない。今では違うらしいが、その昔は発砲をしたらいかなる理由であってもその警察官は昇進ができなくなっていたと聞く。時が変わって現代であっても、メディアが警官をまるで悪者かのように扱う癖がありそれがこの見出しになっているのだ。正義なんて社会に求めちゃいけない。正しいことは自分で決めて、その正しさは自分の手に届くところで使うしかない。その正しさでさえも、他人からしてみれば間違いなのかもしれないのだ。
手元にあるグラスの中身はいつの間にかに空になっていた。これは思ったよりスイスイいけちゃうぞ、とまたなみなみ注ぐ。ザーサイとポテサラのしょっぱ&甘い組み合わせが最高なのだ。これももしかしたら人から見れば微妙な組み合わせなのかもしれない。それでも、自分だけがわかっていればそれで良いのである。
タコの唐揚げを口にほおる。噛んだ瞬間にジュワッと広がる塩味の効いたタコの旨みに悶絶する。いつもならこのギットリとした油をビールでキリッと流すのだが、今日の僕は違う。何度も言うが、エレガントなのだ。上等な赤ワインでとろりとフュージョンしちゃうのだ。僕は嫌なことしか言ってこないテレビを黙らせて、ケータイに手を伸ばす。今は便利な世の中で、アプリで簡単にラジオが聞けてしまう。過去一週間分、しかもバックグラウンド再生可能。そんなに尽くしてくれなくても、ちょっとくらいお金払いますよ?と思うが、かと言って有料になっても聞くかと言われれば微妙なところである。
つい先月から、好きな芸能人のラジオが始まったので欠かさず聴くようにしている。30分の短い尺(CM込みなので、実質20分ほど)で、雑談&リスナーからのお便りに反応して終わりという至って普通のラジオである、が———それがまぁ、とても、つまらない。雑談にオチもなければお便りに対するレスポンスも非常に凡庸。毎回途中で寝てしまうか、別のラジオかポッドキャストに切り替えてしまい、欠かさず聴いていると言ったが同時にもれなく最後まで聴いていない。
自分でも「なら聴かなきゃいいじゃん」とわかっている。わかっているのだけどそれでも毎週律儀に流してしまうのだ。好きな人にはいつだって盲目———この場合は耳が支配されているのだが細かいことはどうでもよい———、である。そうやって今日も、つまらない音声を肴に酒を飲む。
気のせいか、少しワインに堅さを感じる。ワインも生き物だからラジオを聴いているのだろうか。風味まで変わると良くないのでやっぱりラジオを止めることにする。また明日にでも、どうせ聴きます。いつかメールも送ります、「いつも楽しいラジオをありがとうございます」って。
*
水も飲まずにたらたらやっていると、当然ではあるがそれなりに酔ってきた。気持ち悪くなるのも嫌なのでこの一杯で終わりにしようと決めた。刺身の三点盛り。ビンチョウマグロ、サーモン、アジのラインナップ。本当は貝類があると嬉しいのだが、赤貝が含まれる刺し盛りは値段が上がるうえに割引もされてなかったので断念。
今日は自由だとか思ったのに、結局どれも安くて明日の朝にも食べられそうな惣菜を選んでいる僕は、廓の中の鳥である。わざわざ巨人に見下ろされなくたって社会からの支配を毎日感じているが、僕のような人間が丸ごと自由な世界に解き放たれたとて今と変わらない生活と行動をするのは目に見えているので関係ない。ルールの中で自由に生きたいだけよ、ルルル、ラララ。
刺身には日本酒だろという、従来までの私が問い詰めてくる。でも大丈夫、今日の僕は控えめだけど飛べるのだから。ドリップが出たマグロを食べ、えいやっと赤色の波で胃という名の大海に送り込む。なかなか悪くない。酔ってて味覚音痴になっているだけかもしれないが。サーモンも、サバも一緒に流されろと食べまくり、一切れずつ残ったところで箸が止まる。
「ふぅ」
今日はこの辺にしといてやるかとお腹をさすると、やる気がなくなる前に余った惣菜たちをくるりとラップして冷蔵庫に入れる。ワインもコルクを差し込み一時休戦状態へ。また明日会おうぜと誓いの眼差しを送っておいた。あとは歯磨きをして、そのまま寝るだけ。幸せだ。僕の幸せってこんなもんでいいのかと思うけど、幸せのハードルは低いに越したことはない。そしてこのユーフォリアは明日もつづく、明日は一日フリーなのだから。お昼からまた飲んじゃうもんね、と考えただけでにやけてくる。自分で一品二品くらいは作るかなと思っている途中で、僕は夢の世界へトリップした。
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