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【自作推理小説①】世界の終わりとハードボイルド探偵

世界の終わりとハードボイルド探偵


1938年 10月28日、ニューヨーク

午前10時、部屋の中には鋭い緊張感が漂っていた。中央には大柄な男が立っている。その存在感は、まるで空気を押しつぶすかのようで、そこにいる誰もが言葉を飲み込んだ。照明の下で影を落とすそのシルエットが不思議なほど劇的で、何かが始まる予感だけがあった。
 男は深呼吸し、手にした紙束に目を落とした。赤インクの修正跡が幾重にも残るその原稿には、彼自身の苦心がにじんでいる。
「みんな、準備はいいか?これは練習だから緊張しなくていい」
 男が声を張り上げると、その顔には鋭い笑みが浮かんだ。しかし、その瞳の奥にはわずかに不安が残っていた。彼は手元の時計をちらりと見て、思考を振り払うように語り始めた。その声は重厚で、抑揚をつけて聞く者を引き込んでいく。
男は思っていた。これが成功すれば、アメリカ国民の心を鷲掴みにし、現実と虚構の境界を曖昧にすることができるはずだ、と。期待と不安が入り混じる中、彼は自分を信じるしかなかった。

1938年同日、ロサンゼルス
 
 空は重たく鈍い灰色に覆われ、街は湿り気を帯びた匂いを放っていた。大恐慌から抜け出したと言われても、こいつはまったく別の話だ。街角に足を踏み入れると、凍りついたような空気が張りつめていて、誰もがその冷たさに耐えている。
 アメリカは未だに大恐慌の傷跡を引きずっている。高層ビルの影の中、浮浪者たちが暖を取るための焚き火を囲み、うつむきながら過去に思いを馳せているようだ。ラジオから流れるのは、明日の天気と戦争を予感させるようなニュースだ。あのナチスの野郎どもがヨーロッパで暴れまわって、次は何をしでかすのか、それを心配する余裕もない。そんな状況でも、街を歩く奴らは目を合わせることなく、足早に過ぎ去る。
 時折、子どもたちの奇妙な笑い声がどこかから響くが、それすらも冷たい空気に飲み込まれて消えていった。明後日は、ハロウィンだと言うのに、この街に色を添えるものなんてなかった。
 先の事なんてどうでもいい。そう思っている奴らがほとんどだ。自分のことすら満足にできない奴らが、世界の行く末なんか心配してるわけがない。俺だって同じだ。俺の仕事は変わらず、依頼を受けることだ。
 
 俺の名前はマービン・カーディナル。探偵業を営む俺の事務所はロサンゼルスの片隅にある、埃と煙草の煙にまみれた小さな空間だ。窓は薄汚れ、昼間でも光を遮るほどの埃がこびりついている。机の上には使い古した地図や、調査に使った資料が乱雑に広がっていて、真新しいものなんて何一つない。金を稼ぐ方法は決まっている。浮気調査や、逃げ出したペットを見つける手間仕事で、何とか生き延びているだけだ。  
 
 10月29日、金曜日。その日も、俺はいつものように煙草を燻らせながら、冷たくなったコーヒーを啜っていた。事務所の薄暗い午後、秋の風が窓を叩きつける音が響いていた。助手のローザは古びたデスクに腰掛け、退屈そうにペンをくるくると回しながら、新聞に目を通していた。俺は煙草に火をつけ、デスクの上に積み重なった未処理の書類を眺めていたが、どれも今すぐ手をつけたいものではなかった。
「ねえ、マービン」
ローザが、まるで何か悪巧みを思いついたような口調で言った。
 ローザ・ハーパー。彼女は俺の助手で、金髪のカールに鮮やかな青い瞳を持つ。小柄な体にエネルギーがみなぎり、いつも快活な笑顔を浮かべている。彼女がいるだけで、この薄暗い事務所が少しは明るくなる気がする。どうしてこんなところで働いているのかは、俺にもわからない。
「また謎解きか?」
俺は足を組み直し、煙を細く吐き出した。ほかにやることはないから、まあ、いい。
「頭の体操には、ちょうどいいじゃない」
そう言うとローザは新聞を目の前にひらりと差し出してきた。
「これ。今度やる舞台のキャスト求人の広告よ。『この度、マーキュリー劇場はArs Magna(ラテン語:大いなる芸術)の為に追加キャストを募集します!』。でも肝心の演目の名前が書かれてない。代わりに変な文章が書かれてるの」
俺は手を組みながら、再び煙を吸い込んだ。
「で、その変な文ってのは?」
と、少し冷ややかな目で彼女を見た。。彼女の指先が文字をなぞる。
「『Mechanic For The Event(イベントの為の整備士)』よ」
ローザは指を新聞に滑らせ言った。俺は呆れて肩をすくめた。
「ただの舞台装置係の募集だろ?」
「違うわよ。マーキュリー劇場は古典戯曲で有名なニューヨクの劇団よ」
俺は煙草を灰皿に押しつけた。
「脚本家が古いものに飽きちまったんだろ」
彼女は不服そうに答えた。
「そうかしら。でも、キャストの募集って書いてあるし……。なんでも、主宰のウェルズって人はシェイクスピアを大胆にアレンジするんですって」
「……なるほど。シェイクスピアか」
俺は、煙を吐きながら少し考えた。
「うーん、『ロミオとジュリエット』……『終わりよければ全てよし』……それと……」
ローザは指を折りながら、シェイクスピアの戯曲を誦じた。
「……アナグラムだな」
俺の言葉にローザは、軽く首をかしげた。
「あなぐらむ? どういう意味?」
「『Ars Magna』ってのがヒントだ。文字を入れ替えると『Anagrams』になる。アナグラムってのは、文字を入れ替えて別のものにするくだらない言葉遊びさ。さらに『Mechanic For The Event』を入れ替えると、『The Merchant of Venice』。シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』だ」
ローザが微かに口元を引き締めた。しばらく黙っていた後、軽く拍手をした。
「さすが、マービン! でも、なんでこんなまどろっこしい事を?」
「……さあな、まったく、手の込んだ野郎だ」
 その瞬間、事務所の扉が急に開き、スーツ姿の男が現れた。髪は薄く、額に汗をにじませ、目元には深い疲労の影がある。男の表情には焦りが浮かんでいて、まるで何かに追われているかのようだった。 俺は目を細めて男を見た。
「依頼人のお出ましのようだな。さて、本番といこうか」

「マービン・カーディナルさんですか?」  
 低く震えるような声が俺に向けられた。俺は煙草をくわえたまま頷いた。
「……俺だ」  
 男は少し戸惑ったような顔をしながら、名刺を差し出してきた。俺は無造作にそれを受け取り、ざっと目を通したが、特に興味を引くものはなかった。名前はバート・エヴァンス。実にありふれた名前だが、そんなことを口にするほど俺は無粋じゃない。
「私は、エヴァンスという者です」  
エヴァンスは、ためらいがちに続けた。
「あなたに、頼みたいことがあるんです」
俺は机に肘をつき、コーヒーを軽くすすった。エヴァンスをカウチへと促す。
「……どうぞ」  
リチャード・エヴァンスは、見たところ四十代半ば。痩せて長身、スーツは体に合いすぎているほどぴったりしている。顔つきは繊細で、表情は硬く、緊張を帯びている。髪は薄茶色で整髪料で滑らかに抑えられ、灰色の瞳には常に疲れの色が浮かんでいる。口元に浮かぶ笑顔はいつも引きつっているようで、どこか安心しきれない様子だ。客相手の商売人だなと思った。エヴァンスは言葉を詰まらせた後、声を絞り出すように言った。
「私は、銀行員をしています。単刀直入に言います。私の所有しているホワイトリバー天文台を売りたいんです」  
 少し興味が湧いた。ホワイトリバー天文台はこの街の外れにあり、昔は大勢の天文学者や好事家たちが星空を眺めに集まった場所だった。だが今は廃れていて、忘れ去られたように立っているだけだ。
 その歴史は、物語のように壮大で悲劇的なものだった。20世紀初頭、ホワイトリバー天文台は孤高の天文学者であるドクター・エドワード・ケンジントンが設計した。当時、彼は星々への情熱に取り憑かれたように働き、その場所で無数の天文の観測をしていた。しかし、ある冬の夜、彼は忽然と姿を消したと言われている。噂によれば、彼は天文台の中で星を見上げながら命を絶ったとか、あるいは謎の光に誘われてどこかへ連れ去られたという話もある。以後、天文台は不吉な場所として囁かれ、訪れる者は次第に減っていった。天文台は次第に荒廃し、彼の名も忘れ去られつつあった。
「……で、それを売りたいって?」
俺は眉をひそめた。
「俺は星を見るのは嫌いじゃないが、天文台を買うほどの天文馬鹿じゃないぜ」
男は苦々しい笑みを浮かべ、頭を横に振った。
「そうじゃないんです。売れないんです」
言葉の端に焦りがにじんでいる。
「あの天文台は叔父の遺産で譲り受けることになったのですが、先の市場崩壊を受けて、私も所有している財産を整理をする事にしたのです。つまり、持て余している財産を売ろうと。そこで使われていない天文台も売ることにしたんです。しかし、なかなか買い手がつかなくて……」
「原因はなんだ?」
「……噂です。あそこには幽霊が出るという噂があるんです」
俺は一瞬、呆れたように目を細めた。オカルト話なんて、この国では珍しくない。特に今みたいな、暗い世相の時は尚更だ。
「…………幽霊ね」
煙草をくわえ直し、わざと冷ややかに言った。俺は宇宙人はいるかもしれないと思っているが、幽霊は信じていない。
 その時、事務所の奥から軽やかな足音が響き、ローザが現れた。ローザは手にコーヒーマグを持っていた。
「どうぞ、コーヒーよ」
エヴァンスはローザの登場に一瞬目を丸くしたが、すぐに顔を引き締め、さらに深刻な表情を浮かべた。ローザは、そんな男の反応を楽しむように小さく笑ってみせる。
「お嬢さんが助手か?」
とエヴァンスは疑い深そうに問いかけた。
「その通り。彼女はただの飾りじゃない。俺の頭脳とこの事務所の心臓みたいなもんだ」
俺は煙草の灰を軽く落としながら応じた。ローザは片眉を上げ、
「ありがとう、マービン」
と皮肉っぽく言ったが、その目は輝いていた。彼女は机に手をついて俺の隣に腰を下ろすと、腕を組んでエヴァンスを見つめた。
「幽霊の話をもっと詳しく聞かせてください。どんな噂があるの?」
 彼女はこううい類の話が大好きで、古い伝説や民間伝承を聞くと瞳が輝く。俺はローザの興味に苦笑いしながらも、エヴァンスの話に耳を傾け続けた。
「夜になると天文台から奇妙な声が聞こえるんです。若い男の声や、どこか古めかしい老人の囁き。私も最初は信じなかった。しかし、ある大嵐の翌日に見に行ったんです。どこか壊れてないか心配だったからです。その時、それを聞いた。誰もいないはずの天文台から……、女の歌う声が囁くように響いてたんです」
ローザは興味をそそられたように身を乗り出した。
「興味深いわね。何か合理的な説明はあるの?」
「合理的ですって?」
エヴァンスはローザを見つめた。
「そう言ってくれればどんなに楽か……だが、そんな話が広まるたびに、天文台はますます忌避されていく。誰も近づきたがらない。売ろうとするたびに、買い手はこの噂を聞きつけて逃げていくんです」
俺は机に置いた冷めたコーヒーカップを指で軽く弾いた。
「つまり、俺にその幽霊話を片付けろと?」
エヴァンスは力なく頷いた。
「あなたは、信頼できる探偵だと聞いています。ぜひ、あの天文台の調査を頼みたい。何が起こっているのか解き明かし、噂を払拭してくれませんか?」
「幽霊だの何だの、俺の仕事じゃない」
ローザはそんな俺を見て、不満げに口を尖らせた。
「マービン、幽霊話もたまには面白いじゃない!」
彼女は笑って俺をたしなめるように言ったが、俺には信じられない。幽霊だろうがオカルトだろうが、現実とは無縁だと思っている。だが、金にはなる。
 金があれば、俺の世界は少しは楽になる。苦々しい笑みを浮かべ、俺はこの依頼に乗るべきか、天秤にかけ始めた。煙草に火をつけ、煙を吐き出した。そして、ローザに視線を送る。彼女の碧眼が眩しく光っている。断れそうになさそうだな。
「幽霊なんて非科学的なものは存在しない。だが、もし噂が本当だとしたら、それは何か理由があってのことだ。その謎を解き明かすのが俺の仕事だ」
エヴァンスは俺をじっと見つめた。その瞳には期待と不安が入り混じっていた。
「では、受けていただけるんですか?」
とエヴァンスは少し声を上ずらせた。
「……まあな」
と俺は軽く頷いた。
「では、早速明日、現場を見に行こうじゃないか」
そう言いながら、俺はエヴァンスの顔を見据えた。彼は一瞬、目を逸らし、ハンカチで額の汗を拭う。どこか落ち着きのない様子だった。依頼人が怯えているのは今に始まったことじゃないが、ここまで露骨に不安を隠せないとなると、少しばかり話が変わってくる。依頼というのは、時に依頼人の心の奥底まで引きずり出すものだ。今回も例外ではなさそうだった。エヴァンスが、声を絞り出すようにして言った。
「その……実を言いますと、私はその手の話がどうにも苦手でしてね。幽霊なんて馬鹿げてるとは分かっているんですが、あの場所に足を踏み入れるのはどうにも……」
彼の声が途切れた瞬間、俺は軽く首を振った。
「幽霊なんてものがいようがいまいが、それは俺にはどうでもいい。ただ、あんたが何かを聞いたと証言してる以上、あんた自身が現場にいなきゃ話にならん。それとも、自分で聞いた声について、俺に説明できる自信があるのか?」
エヴァンスは唇を噛んだまま、しばし黙り込んでいたが、やがて観念したように頷いた。
「わかりました……。あなたの言う通り、一緒に行きましょう」
「決まりだな。明日の夜明けとともに天文台を見に行く。準備を整えておくんだ」
エヴァンスは深く息をつき、肩の力を抜いたが、彼の目には依然として拭えない怯えが宿っていた。


1938年 10月29日、ロサンゼルス郊外

 エヴァンスから依頼を受けた翌日、俺とローザはエヴァンスの車に乗り込み、ホワイトリバー天文台へと向かっていた。夕方の柔らかな薄明かりが車の窓から差し込み、静かな道を寡黙に照らしている。
 運転席のエヴァンスは何度もハンドルを握り直し、時折深い息をつく。助手席のローザは、いつも通りの静かな面持ちで窓の外を見つめている。夕陽が彼女の横顔を金色に染め、凛とした美しさが浮かび上がっているのが妙に胸に響いた。
「エヴァンスさん、天文台にはどれくらいの頻度で通っていたんですか?」
と、ローザがふと尋ねた。
「いや……もう何年も行っていないんです」
と、エヴァンスが声を震わせながら応じる。
「ケンジントン氏が亡くなってから、あの場所はまるで別のものになってしまいました。かつては夜ごと星の観測が行われ、天文を愛する者たちの熱気で溢れていたんですが……。今じゃ、噂のせいで誰も近づこうとはしません」
俺は目を細めて彼の言葉を受け止めながら、問いかけた。
「噂ってのは……その、いわゆる『声』ってやつか?」
エヴァンスはぎこちなく頷き、顔を伏せる。
「ええ、そうです。数年前のある晩、あの声を聞いてしまったんです。誰もいるはずがないのに、天文台の奥から囁き声が聞こえてきました……。それ以来、足を踏み入れる気にはなれなくなりました」
助手席のローザは、俺の目には冷静に見えたが、その瞳にはどこか興味と不信の入り交じった光が浮かんでいた。
「ということは、噂は誰かが作り出したもので、ただの錯覚や妄想というわけでもなさそうね」
エヴァンスが再び重い声で話し出した。
「実は、その噂の出所が地元の不良グループだって話もあります」
俺は少し眉を上げ、疑問を投げかけた。
「ほう、それはどういう事だ?」
「最近、夜な夜な若者たちが天文台に忍び込み、建物のあちこちを荒らしてるらしいんです」
と、エヴァンスは緊張気味に答えた。
「もしかすると、あの噂も彼らが作り出したものかもしれません。住民が近づかないようにするために……」
「なるほど。彼らが流した話だとすると、噂の『声』もそうなのか?」
と俺は問いかける。エヴァンスは微かに首を振り、
「でも私の聞いた『声』は違うんです。ただの騒ぎ声なら、単なる悪戯と片付けてしまえるかもしれません。しかし、私が聞いたあの声は……普通の声とは違っていました。低く、ひそひそと囁くようで、どこからともなく聞こえてくるんです。まるで建物そのものが語りかけているような…」
ローザはその話を聞き終えると、小さく笑った。
「若者の悪戯か、それとも別の何かか。いずれにせよ、見てみる価値はありそうですね」
 日はほとんど沈み、暗闇が空を包み込み始めている。雲間から微かに差し込む夕陽の残光が、遠くに見える鉄塔を不気味に照らし出していた。
「まもなく到着します」
とエヴァンスが緊張を隠せない声で告げた。俺はエヴァンスに向かい、確認するように訊ねた。
「鍵は持ってるんだな?」
エヴァンスはうなずき、ポケットから錆びついた鍵の束を取り出した。
「ええ、これが天文台の全ての鍵です」
 その古びた鍵束は、ただの鍵に過ぎないはずなのに、奇妙な重みを感じさせた。遠くに見える天文台の白いドームは、夕陽の光を浴びて赤みを帯び、地平線に浮かび上がっていた。空には重々しい暗雲が垂れ込め、あたかもその場所へ足を踏み入れる者を拒むかのような、不吉な静寂があたりを包んでいる。天文台は、かつて夜空の秘密を解き明かそうとした建物とは思えないほど、陰気で、時の流れに飲み込まれようとしているようだった。
 天文台の周囲にはアカマツが一本、城兵のように立っていた。たった一人の城兵に守られるように屹立するその建物は、年月を経てずいぶん傷んでいる。屋根には重そうなドームが載っていて、かつて星々を追って動いていたであろう鉄のフレームが今は深い錆に覆われ、冷たい空気に溶け込んでいた。

 ドームの端には薄くひび割れたところがあり、登り始めた月の明かりがそこを照らしている。錆びついた鉄の色は、赤茶けていて、長年放置されたことを物語っている。壁には苔が這い、湿った空気を吸い込むたびに鼻に腐食した鉄の匂いが刺さる。入口のドアも見るからに古ぼけ、錠もかけられていないらしい。
 ローザは、天文台を見上げたまま、一歩踏み出す。足元の瓦礫を軽く避けて、時折こちらをちらりと見る。風が少し強くなり、髪が顔にかかる。
「見てよ、この場所……。昔は誰かが夢見てた場所だったんでしょうね」
ローザの声は、少し寂しげだった。
 俺は目を細めて、天文台の歪んだドームを眺めた。
「夢か。そんなものはほとんど幻だ。ここに残ってるのは、ただの廃墟さ」
 荒れ果てた天文台の内部は、かつての栄光の残り香すらも忘れ去られたような光景だった。薄暗い懐中電灯の光がその中をなぞるたび、剥がれ落ちた壁の塗料が無残に散らばり、無骨なコンクリートがむき出しになっているのが見て取れた。壁際には年代物の機械が埃をかぶって放置され、まるで長い眠りから目覚めることなく静かに朽ちていく墓石のようだ。
 天文台には電気が来ていないので、俺は持ってきた懐中電灯のスイッチをつけた。天井には蜘蛛の巣があちこちに垂れ下がり、夜露がしみ込んだのか、まるで何かが腐りかけているような湿っぽい匂いが漂っている。足元に目をやると、そこには泥のついた靴の足跡がいくつも無造作に散らばっていた。どこか荒っぽく、若者たちが無遠慮に踏みつけた跡だ。泥の跡は複数重なり合い、奥へ奥へと続いている。通路のあちこちに捨てられた紙くずや、誰かが持ち込んだ飲みかけの空き缶が転がり、かすかな金属音がこだました。
 さらに奥へと歩を進めると、かつて星を追い求めたであろう大型の望遠鏡が、ひしゃげた脚で床に倒れ込んでいた。レンズはひび割れ、フレームには赤茶色の錆が染みついている。脚の一本は完全に折れていた。
「これはひどいな。以前訪れた時より、だいぶ荒れている」
エヴァンスが肩をすくめて、気味悪そうに周りを見渡していた。
「若者の遊び場にはうってつけってことさ」
俺は足跡のかたちをじっくり眺めながら答えた。何足かの靴跡が互いに重なっているように見えた。
後ろにいたローザがそっと俺のそばに寄ってきた。暗がりの中でも彼女の緊張が伝わってくる。彼女は周囲に視線を走らせ、ぼそりと呟いた。
「マービン、何か分かった?」 

ローザの声が静寂に溶け込んで、薄闇の中でさざ波のように揺れた。
「さあな。ただ、不良たちが妙な声を聞いたって話……案外、嘘じゃないか
「どういうこと?」 

「見ろよ、あの足跡だ」 
 
俺は懐中電灯の光を足元の跡に向けた。荒々しく刻まれた靴の跡が、天文台の奥から入口に向かって続いている。深くえぐられた足跡の向こうで、ある一点から急に広がるように大股になっているのがわかる。逃げるように、まるで背後から恐怖に追い立てられたかのように。
「走って逃げたんだ。『声』を聞いたのかもしれない」 
ローザが小さく息を呑むのが聞こえた。彼女の手が俺の袖を掴んでいた。俺たちは足跡を逆に辿り、不良どもが逃げ出した原因を探ろうと奥へ進んでいった。
 足跡が途切れた先、そこにあったのは無骨なスチール製の本棚だった。冷たい金属の重々しい質感が夜の闇の中で一層存在感を放っていた。
「ここだ!」 

不意にエヴァンスが叫んだ。 

「私が……声を聞いたのも、この場所でした!」 
 
彼の震える指が本棚を指し、その声は恐怖にのどを締め付けられたようにかすかに震えていた。頼りない月明かりの中で彼の顔は青ざめていた。
「なんだって?本当だろうな。今は……何も聞こえないが」 
 
俺は懐疑の念を押し殺し、周囲を懐中電灯で丹念に照らし始めた。埃まみれの本が乱雑に棚からはみ出し、足元に無造作に散らばっている。
「本当です」
エヴァンスの声がかすれて聞こえる。
「夜、この天文台に来て……そう、確かこの辺りに立っていた時でした。人の声が……そう、女の声が、突然聞こえたんです。あの時、心臓が止まるかと思いました」
彼の恐怖は、嘘をついているとは思えないほどに真に迫っていた。俺は懐中電灯の光を一つずつ棚の隅に向け、埃をかき分けながらさらに奥へと目を凝らした。棚の陰には、過去の残骸がひっそりと隠れていた。無造作に積み上げられた本、誰かが置き去りにした古い手紙、そして、散らばった埃が沈黙の中に漂うように静かに横たわっている。
 エヴァンスは、まるで幽霊そのものを見るかのように息を詰めてこちらを見ていたが、夜の闇の中、俺たちの耳には結局、何の声も届くことはなかった。窓の向こうから、秋風がアカマツを揺らす音だけが聞こえた。

 天文台からの帰り道、俺はエヴァンスの車に揺られながら、埃に塗れた街の景色が流れ去っていくのを、ぼんやりと眺めていた。遠くにぼやける街の灯りは霧にかすみ、どこか冷ややかでよそよそしい。エヴァンスに車を出してくれた礼を言い、俺とローザは言葉少なに事務所に戻った。扉を開けると、いつもの馴染みの薄暗い空間が俺たちを迎え入れる帰る場所と言うには味気なさすぎるが、それでも他に行く当てがあるわけじゃない。
 ローザは疲れた素振りを見せることもなく、いつもと変わらずに鼻歌を口ずさみながら、窓際に置かれた観葉植物に水をやり始めた。小さな緑の葉が彼女の手のひらで揺れ、静かに生命を謳っているようだ。そんな彼女にふと目を奪われた。
「で、何かわかったの?」
と、彼女が言葉を投げかけてくる。背を向けたまま、振り返りもせずに、その声だけが俺の耳に届いた。
「いや、正直、大した収穫はなかった。妙な『声』なんてのも、エヴァンスの単なる幻聴だと片づけたいところだ。だが、あの泥まみれの足跡……あれが引っかかる」
俺は言葉を飲み込みながら、デスクの上に放り出してあった古びたラジオのつまみを回した。雑音ばかりが混じっている。途切れ途切れにかすかに音楽が聞こえたり、ニュースらしき声が割り込んできたりするが、何一つ明瞭には聞こえない。
「まったく、電波の調子まで悪くなるとは……」
と、呟きながらラジオに視線を落とす俺に、ローザが興味なさげに一瞥をくれた。水やりを終え、窓際から離れる彼女の背中越しに、ふいにラジオから天気予報の声が流れてきた。
『……ザザッ……明日は、一日を通して晴天……絶好のハロウィン日和になるでしょう……』
 その時、ある仮説が、俺の頭に浮かんだ。何かが繋がったような気がした。エヴァンスが話していた妙な『声』のこと、泥まみれの足跡、そして、アカマツ……。俺は静かにポケットから煙草の箱を取り出し、一本を口に咥え、マッチに火をつけた。薄暗い部屋の中で、小さな炎が揺らめき、俺の顔を一瞬だけ照らす。
 そんな俺の仕草を、ローザはじっと見つめていた。いつもの余裕ある表情の奥に、かすかに好奇心が覗いている。その視線に気づき、俺は煙草の煙を一息吐き出すと、ふと目を細めた。ローザが軽く片眉を上げて微笑む。
「どうやら、何か掴んだみたいね、マービン」
「……ああ。まだ仮説にすぎないがな」
紫がかった煙が渦を描きながら空気に溶け込み、青白い煙が視界の端で揺れた。


1938年 10月30日、ニューヨーク

ニューヨークの朝は秋の冷気が漂っていた。男はアパートの窓から灰色の空を眺め、深く息をついた。
 男はお気に入りのトレンチコートを羽織り、帽子を深くかぶって外に出た。道行く人々は皆、ハロウィンを前日に控え、少し忙しそうに見えた。男の胸の奥には何か予感じみた不安が静かに渦巻いていた。
 男の計画したがどのように受け取られるのかは、まだ誰にも分からなかったからだ。

1938年 10月30日、ロサンゼルス郊外

 夕方、俺とローザは、ウィズの車で天文台へ向かうことになった。エヴァンスは都合がつかず、急遽友人のウィズに運転を頼むことになった。
 ウィズ・マクレガー。こいつの父親は街では有名なちょっとした金持ちだ。ウィズ自身はその金をほとんど自分の遊びに使ってるが。俺たちが乗り込んだシボレー・エアフローは、数年前に発売されたばかりの新車だ。カーラジオからはボレロが流れていた。
「ウィズ、新車みたいだけど、運転はどうかしら?」
ローザが冗談混じりに言うと、ウィズはむっとして答えた。
「おいおい、任せろって。こんな車で事故を起こすような真似はしねえよ」
ウィズはそう言ういと、フロントガラス越しに広がる景色を見ながら、ふっと笑った。その笑みには、何か企んでいるような、ちょっとしたイタズラ心が込められていた。
「それより、お二人さん」
ウィズが突然、マービンとローザに向かって話しかけた。
「最近は、うまくやってるのか?」
俺は運転席に座ったまま、無視を決め込もうとしたが、ローザは一瞬だけウィズに目を向けた。ウィズはその視線に気づくと、さらにニヤリとした笑みを浮かべて続けた。ローザが顔を赤くして口を開きかけたが、ウィズはそれを遮って続けた。
「まあ、いいけどな。こういうの、俺は結構好きだよ」
ウィズは意味ありげに後ろを振り返り、笑いながら車を走らせた。
俺は黙って窓の外を見ながら、タバコを吸う手を止めて軽くため息をついた。こいつ、相変わらずだ。だが、内心では少しだけ苛立ちが湧いていた。
ローザは、ちょっと顔をしかめたが、すぐに何事もなかったかのように微笑み返す。
「ウィズ、あんたが言うことなんて、いつも気にしないわよ」
車内に漂う煙草の煙と、ウィズの軽口、それが微妙に絡み合いながら、天文台へ向かう道を進んでいった。

 シボレーが天文台の駐車スペースに滑り込んだ。ウィズは、運転席から降りる気配もなく、背もたれに体を預けながら、顔をあげた。
「じゃあ、二人とも。俺はここで待ってるから、調査の方はよろしくな」
ウィズは窓を少し下げ、クールな調子で言った。どうやらその場で何か音楽でも流しながら時間を潰すつもりらしい。心なしか、ボレロの音色が大きくなっていた。
ローザがドアを開けて、車から降りるとき、ウィズは軽く笑いながら言った。
「マービンに、もう一仕事頼まれてるしな」
「もうひとしごと?」
ローザが首を傾げながら、こっちを見た。
「後でわかるさ。さあ行くぞ」
俺は、煙草に火をつけ言った。ローザは一瞬、俺の顔を見たが、すぐに頷いて天文台に向かって歩き出した。俺たちはエヴァンスから借りた鍵を使い、再び天文台の扉を開けると、中は相変わらず静まり返っていた。
「声のこと、説明してくれる?」
ローザが小声で言った。俺は鍵をポケットにしまいながら、ふと顔を上げ、天文台の広がりを一度見渡す。
「……ああ」
俺は一息ついてから、低い声で返事をする。
「ローザ、覚えてるか? 噂になった声のこと」
俺はゆっくりと歩きながら、続けた。
「ええ、覚えてる。若い男の声とか老人の声とか、エヴァンスさんは女の声を聞いたって言ってたわね」
ローザはじっと俺の顔を見つめながら答える。
「そうだ。注目すべきは、声の主が一人じゃないって事だ」

俺は煙草をくわえたまま、煙をゆっくりと吐き出した。ローザの視線を感じながら、続けた。

「確かに。私も妙だと思ったわ。でも噂なんて尾鰭がついて、細部が変化するなんてよくある事じゃない」

ローザが軽く頷き、腕を組みながら言った。
「その通りだ。だが本当に色んな声がしていた可能性もある」

「どういうこと?」

「……ラジオ放送だよ」

「……ラジオ?」

ローザの声に驚きが含まれていた。俺は、ゆっくりと天文台の中を見渡す。
「ああ。ここ10年でアメリカのラジオ局は500以上にもなった。今やあのフランクリン・ルーズべルトでさえラジオ演説する時代だ。恐らく、エヴァンスの聞いた声は、クルーナーの歌手だったんだろう。最近はやりの『囁くような歌声』ってやつだ」

「でも、ここには電気がないじゃない。どうやってラジオ放送が聞こえるの?」

ローザは疑問を口にした。俺は一瞬黙り込むが、やがて低い声で答えた。
「この建物全体がラジオになってるんだ」

言葉の意味がローザの脳内で反芻されるのを感じ取った。彼女の表情がほんの少し歪んだ。もちろん、俺の言っていることが常識外れだと感じるだろうが、無理もない。
「ラジオの音声を増幅させるために、真空管が使われる以前はゲルマニウムという金属が使われていた。電気を必要としないラジオだ。この天文台の中を囲む錆びついた鉄骨、パイプ。それらがゲルマニウムの役割を果たしているんだ。実は、酸化した鉄も電波を受信することがある。そして、望遠鏡を囲っている、あの巨大なドームが集音装置の役割を果たしているんだ。ちょうど音が一番大きくなる場所が、あのスチール本棚の場所なんだろう」
 ローザは少し黙り込んだが、やがて眉をひそめながら、低い声で言った。 
「でも、それならどうして昨日は何も聞こえなかったの? 今だって、何も聞こえないじゃない」

ローザのその問いに、俺はちょっとだけ間を取ってから答える。
「条件があるんだ」
「条件?」
「そうだ。この足跡を見てみろ」
そう言って俺は、足元に目をやる。
「やけに泥に塗れた足跡だろ? それと、エヴァンスがここに来たか理由を覚えてるか?」
「えーと、確か……嵐が来たから、様子を……あ!」
「気づいたか。そうだ。エヴァンスが声を聞いた日は、雨が降った日の次の日だった。そして、おそらく若者達が侵入したのも雨の日の次の日だったんだろう。前日の雨でぬかるんだ地面を歩いたから、こんなに泥がついてるんだ」
「でも、なんで雨が降らないとラジオが聞こえないの?」
「それはアカマツさ」
「あかまつ?」
ローザの問いに、俺は軽く肩をすくめてから言った。 

「晴れてる日はアカマツが、鉄塔からの電波を遮っているんだ。しかし、雨が降ると、アカマツの葉が水分を吸収して僅かに頭をもたげる。それによって、普段は届かない場所に電波が届くようになるんだ。つまり、雨の日の翌日のみ、この天文台でラジオ放送が聞こえる条件が整うってわけだ」
ローザは一瞬、俺の言葉に驚いたように目を見開いたが、すぐにその驚きが薄れて、理解したような顔をした。

「なるほど。でも、実際に声を聞かないと、私納得できないわ?」
ローザの目は、挑戦的に俺を見つめてきた。直感と理屈、どちらも手に入れなきゃ納得しない。いつものことだ。だから俺も冷静に、そして少しだけ得意げに言った。

「そう言うと思って、ウィズに頼んである。斧でアカマツをぶった切ってくれってな」
「いつの間に斧なんて!」
「もちろん、エヴァンスの許可も得ている。おそらくもう作業は済んでいるだろう」
そう言って俺はスチール本棚へと歩を進めた。後ろをついてくるローザは、少し興奮気味だ。俺も、自身の仮説を証明できる悦びで、自然と足の運びが速くなった。
 
 
しかし、この時、俺たちはまだ知らなかった。
アメリカ、いや、世界の終わりがゆっくりと近づいているという事実を。

『…………かな大気の乱れがノバスコシア州上空で報告されており、低気圧が北東部の州上空でかなり急速に降下し………』
「ここだわ! 聞こえるわ!マービン!」
ローザが小さな拍手をしながら叫んだ。俺も、ローザの顔の近くに顔を近づけた。
『…………から、ラモン・ラケロと彼のオーケストラの音楽をお届けします。スペインの音楽。ラ・クンパルシータです……………………』
「決まりだな。あとはエヴァンスに報告すれば、仕事は上がりだ」
その時、ラジオ電波が不穏な内容を告げた。
『……中部時間の8時20分頃、イリノイ州シカゴにあるジェニングス山天文台のファレル教授は、火星で一定の間隔で発生する白熱ガスの爆発を数回観測したと報告しました……』
 ローザは無意識に息を呑んだ。その視線は俺に向けられたが、そこにはいつもの冷静さは微塵もなかった。
「マービン……」

彼女の声は、ささやくように震えていた。それは、ただの驚きではない、もっと深い恐怖の兆しだ。
「火星……?」 

ローザは言葉を絞り出すように呟いた。だが、その目の奥に浮かぶのは、不安そのものだった。俺も無意識に手を握りしめ、唇をかんだ。何が起きているんだ?
ラジオが切り替わり、ニュースがまた進んでいくのを感じながらも、俺の脳内は今や完全に停止していた。
『……観測された爆発は、今後の火星探査に重大な影響を及ぼす可能性があり、関係機関は警戒を強めています。この情報を受け、軍および防衛関係者は……』
ローザが口を開けたまま、さらに言葉を続けようとしたが、言葉が詰まっていた。
『……報告された爆発の原因については、現在、地球外生命体の関与の可能性も含めて調査中です』
「……火星人が……来るのか?」
ローザが顔を上げ、俺の目を見つめてきた。その目には、信じたくない現実を見つめる恐怖が浮かんでいた。
「ウィズのところに戻ろう、マービン!」 

彼女が、急かすように言った。だが、俺は動けなかった。恐怖が、いや、恐怖を通り越して、何かもっと重くて冷たいものが、胸の中にあふれ出していた。ローザの視線を受け、思わず言葉が漏れた。
「ローザ……待て、その前に伝えたい事がある!」

声が震えていた。自分でも驚くほどに声がかすれていた。でも、それを止めることができなかった。俺は手を少し震わせながら、目の前のローザを見つめた。彼女の顔が、白くなり、青くなっていくのを、俺はただ見つめるしかなかった。
「…………何?」 

彼女の瞳が揺れた。。しかし、その言葉の裏に隠れた恐怖が、俺の胸をぎゅっと締め付けた。彼女はまだ、逃げることができると信じている。車に戻り、目をつむり、何もかも忘れて、この世界が崩壊するのを待つだけだと。でも、俺には分かっていた。逃げても、もう何も意味がないことを。
「この世界が終わるんだ、ローザ」 

「マービン……」 
 
彼女は言葉を続けようとしたが、何も言えない。彼女の唇が震えているのを見て、俺はその時、初めて自分の心がどれほどまでに揺れているのかを痛感した。もっと早く、もっと強く何かを言うべきだったのかもしれない。でも今、すべては遅すぎる。
 俺は静かに、そして確信を込めて告げた。 

「ローザ、俺はずっとお前を守りたかった。ただ……もう、無理なんだ。世界が終わってしまうなら、俺もお前と一緒に終わりたい」
その言葉が、まるで崩れるように喉からこぼれた。全てを告げた瞬間、もう後戻りはできないことを、俺は理解していた。ローザが静かに、しかししっかりと俺を見つめ返してきた。その目に浮かぶものは、恐怖ではなく、静かな、強い意志だった。
「私も。マービン……」

彼女が呟いたその声は、震えていたが、確かに届いた。俺は強く誓った。無論、逃げられないのだとしても、もしこの世界が終わるならば、俺は絶対にお前と一緒にいるんだと。俺たちは手を握り合い、出口へと歩を進めた。ウィズの車が見えてきた。愛する女と親友、この三人で世界の終わりを迎えるのも悪くないか。俺はそう思った。
「どうだい、マービン、仮説は証明できたか? おや、なんだ?いい感じだな、お二人さん?」
ウィズの陽気な声が暗闇に響いた。俺たちは足を止め、視線を彼に向ける。ウィズは車の運転席に座って、どこか冷静な様子でラジオの音量を絞り、俺たちを待っていた。
「ウィズ、聞いてくれ。大変な事が起きているんだ」
「そうよ、ウィズ。ラジオで……火星の爆発で、火星人が地球に…」
俺たちの言葉を聞き、ウィズはしばらく黙っていたが、しばらくしすると笑いながら口を開いた。
「はははははは。もしかして、ラジオドラマの話か? 『宇宙戦争』の演出だよ、マービン。あの話、昔からあるだろ。火星人が地球に侵略してくるってやつ」
ローザは驚いた表情でウィズを見つめていたが、すぐに目を伏せる。
「じゃあ、あのニュースは……」
ウィズがうなずく。
「ああ、演出だよ。冒頭で、ウェルズってやつが言っていたぜ。『これから放送するのは、ラジオドラマです』って。あれは、全部嘘のニュースだ。オーソン・ウェルズってのは、まったく、手の込んだ野郎だ」
俺は言葉がなかった。ローザも言葉が出ないようだった。呆気に取られた俺たちを見ながらウィズはニヤついていた。
「まぁいいんじゃないか?」
俺とローザの握られた手を見ながらウィズが続けた。

「終わりよければ全て良し、だ」

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