喪失からの回復
私は長年、父の死という喪失体験から
立ち直れないでいる。
どうしてこんなことが起こるんだろう。
「なぜ」という疑問でいっぱいの15年を過ごしてきた。
そんな折、2021年の末に
突然私の目の前に、
ある「答え」らしきものが現れた。
それをつかみかけている。
「ありふれた祈り」に登場するルースは
私と同じ性質の葛藤を抱えていた。
読んだ直後、
偶然にしてはあまりにもできすぎなタイミングで、
若松英輔氏の語りをテレビで聞いた。
私は突然天上から照らし出されたような気がした。
これ、なんだろう。
なかなか言葉にならない。
言葉にならない思いを宿した時、
人は詩を書くんだと若松氏が言ってた。
ずばりこれだと指し示すのが難しい、
抽象的、普遍的な、何か。
だから、文字化することが難しいんだと思う。
でも私は、これが何だか知りたい。
そこで、気の向くままに
本を読んできた。
そもそも私は全然読書家ではない。
その私にしては本当に珍しく、
ここ1年半ほどで何冊か読んだ。
ありふれた祈り に始まって、
このように続いた。
悲しみの秘儀 若松英輔
夜と霧 フランクル
「生きがい」と出会うために:
神谷美恵子のいのちの哲学 若松英輔
今読みかけなのは、
「生きがいについて 神谷美恵子
若松氏のテレビの語りから、芋づる式に
読みたい本が湧いてきてつながった。
この複数の本が述べていることは
実は共通していると私は思う。
それは私が知りたいことそのもので、
それをいろいろな形で多面的に述べているようにも思う。
夜と霧 は、私にとってはとても気になる本で、
20年以上前に購入して、ずっと書棚にあった。
でも、あの時は、フランクルが言わんとすることが
全然わかっていなかった。
今なら、若松氏の助けを借りて
少し理解することができたと思っている。
ここで、ちょっと聖書に触れておきたい。
聖書って、私が所属する教会では
本の中の本。
それは誰もが同意するかもしれない。
うちの教会では、なんとなく、
困ったら、悩んだら、聖書を読む、
聖書こそすべて、みたいな、
そんな扱いになっている。
そうかもしれないのだが・・・
それをあまりに強調しすぎると
まずいことになるかもしれない。
そもそも、1冊の書物に
この世界のすべてを書き記すということは
そもそも不可能。
大事なことは全部書いてある・・・そうだろうか。
少なくとも、万人がわかる形では
書かれていないと思う。
私は腐っても一応クリスチャンで
聖書は身近な存在なのだが、
私が属する団体は、
どうもファンダメンタルに過ぎるように思っている。
聖書を突き詰めればそうなのかもしれないが、
誰もが聖書を突き詰めることができるわけではない。
これを教会で言ったら、ひんしゅくだろう。
だから誰にも言わず、
ひそかに胸にしまってた。
でも、そろそろしまっておくのをやめよう。
教会では、言わないかもしれないけど
ここは私が自由に語ってよい場だから
ここで開示したいと思っている。
とはいえ、まだ言葉にならない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?