「ありふれた祈り」とコヘレト・ヨブ・そしてフランクル
お友だちが
「ありふれた祈り」というミステリーを
紹介してくださいました。
お友だちが紹介なさっている文章をちょっと読んだとき、
これは私に関係のある本だ、とすぐにわかりました。
いろんな思いがあふれてきて、
アウトプットせずにはいられない気持ちなので、
ここに書きます。
キリスト教信仰深い牧師家庭に生まれた愛すべき娘が何者かに殺された。その時、牧師である父ネイサンは、それでも神への信頼を持ち続ける。一方母ルースは神に怒りを向ける。なぜこうなるんだ、と。ルースはまさに、私の姿そのもの。だから読まないわけには行かなかった。
私Clavisは、13年前に父を自死で失った。それ以来へばりついて離れない問いと悲しみがある。それは複雑で形を成さなかったけど、5年前ぐらいから言葉になってきた。それを包括的に言うなら、「神がいるならなぜ世の中は不条理なのか。神はなぜ沈黙しているのか」というもの。遠藤周作に「沈黙」という作品があるけど、それに似ているかも。
父の死は私が覚醒しているすべての瞬間において私の心のど真ん中にあった。あるいは、意識から外れることがあっても、ふとした拍子にいきなり戻ってきて、私の心を引き裂いた。PTSDについて知ってはいたけど、これはフラッシュバックってやつだとわかったのは何年も経ってから。渦中にあると冷静に判断できない。睡眠中も父の死から解放されることはなかった。当時、たくさん夢を見たが、その多くはテーマが一環していた。「期待外れ」である。その時神は私にとって期待外れだった。私は祈れなくなった。祈りが叶わなかった場合自分がどうなるか恐ろしかったから。これ以上の期待はずれがあったら、もう生きていることも不可能かもしれない。讃美歌は苦しかった。神は愛だとかいう歌詞が全く受け入れられなかった。聖書はまあまあ読めたが、斜め読みになった。何も入ってこない。
当時の私は苦悩のあまり気がおかしくなったし、身体的な病も負うことになった。今もそれをひきずっているが、5年ほど前に「神はいるんだろうけど私のことは無視している」という納得をつけたあたりから、なんとか日常を過ごせるようになった。神がいるなら起こりえないことが起こった、でも神はいるという。だったらこういうことだよね、という悲しい納得だ。
私の経験のようなものは、多くの人も、多かれ少なかれ持っているだろう。ならば、他の人はこの問題にどのように対峙し、折り合いをつけて生きているのか。あるいは、この問いを抱いた私に神はなんと語り掛けるのか。
このことはそう簡単に話題にできる問題ではない。神を信じて疑わない純朴なキリスト者でも、キリスト教を知らない方でも、私を理解できないから。もし礼拝で取り上げられたら、牧師に聞いてみたい。でもそのタイミングはなかった。あったかもしれないけど、私が神に対して背を向けたか、あるいは斜に構えているせいで、神の声が聴こえなかったのかもしれない。聞こえたけど対峙するのが辛すぎたのかもしれない。わかってはいるけど、その自分をどうすることもできなかったし、神が神であるなら、神は私の苦悩をどうにか取り扱ってくれるだろうとも思っていた。そうした神への甘えも同居していた。神よ、こんな私を納得させてみろ。
聖書を読んだり礼拝に出たりすれば、神は愛である、あなたを責任をもって導き、守る、というメッセージに満ちている。しかし欲しいものを手に入れても、願っていたことが現実になったとしても、自然の美しさに神の天才を思っても、父の死を前にしては、すべてが吹き飛ぶ。そんな13年を過ごしてきた。
そんな私に神が与えた書物、それが「ありふれた祈り」というわけ。娘を失った母ルースが、神への失望と怒りを抱いている。「あと一度でも私にむかって神という言葉を口にしたら、出ていくわよ」とルースが言う。信頼していたのに裏切られた、神は詐欺師だ。私も同感だ。ルースに対して「どうしたらその怒りから君を解放してやれるだろうな」とネイサンが言うけど、私はルースと一緒に「どうしてネイサンはそれでも神を信じ、信頼できるのか、それを説明して!」と言いたい。
「人は誰でも暗い秘密を、自分を押しつぶそうとする秘密をかかえて生きている」。それは、ネイサンにとっては戦争だったようだけど、ネイサンはこの経験を通して方向転換したらしい。そもそも地位ある弁護士になれたのに、戦争から帰還後、田舎牧師になってしまったのだから。私にとっては父の死がそれにあたり、私は変わったけど、ネイサンとは違って、的外れな転換。
「逃げられないものがいくつかあるんだよ」と吃音の息子ジェイク。ジェイクにとっては自分の吃音であり、父にとっては戦争経験、私にとっては父の死。
「死ぬことと死んでることとは違う」。私はずっとそのことを考えてた。死ぬというのはその瞬間を指し、死んでいるというのは死んでから先の、ずっとのその状態を指す。死ぬとき、どれほどの苦しみがあるのか。死んでいるというのは、無なのか、闇なのか。光であって安息であってほしい、でも父の死という経験はそれをイメージすることを許さない。
死んだ娘の葬式で、ネイサンが食前に祈ろうとしたとき、ルースは神に感謝する祈りに耐えられず、「せめてありふれた」祈りにしてくれ、という。それはまさに、私が日々している祈りだ。せめて、ありふれていなければ耐えられないのだ。ルースは神に失望し怒っているけど、信じているからこその失望と怒りなんだよね。この場面は一体どうなるんだ?とはらはらしたとき、吃音を恥じていたジェイクが、葬式という人前であるにも関わらず、自分が祈る、と申し出た。言葉は母の願い通り、ありふれていたけど、ジェイクが自ら人前で祈ると申し出たこと、全然どもらなかったこと、そしてそれ以来吃音が治ってしまったということ、それはありふれてはおらず、むしろ奇跡だった。ジェイクが言う。「奇跡は起きるんだよ。でもそれはぼくが考えているような奇跡じゃない」。奇跡とは、死人が生き返るようなものではない。でも、あの怒りで満ちていたルースが幸せになること、吃音だったジェイクがもうどもらないこと。それが奇跡だという。これを私に適用するなら、奇跡とは、父の死によって失った人や健康を取り戻すことではなく、小さな日常の中に起こる小さな奇跡の積み重ね、それが奇跡であって神からのプレゼントということになる。さらにジェイクのことば。「物事はそのままほうっておくべきなんじゃないかって思うんだ。すべてを神の手にゆだねるってことだよ。小さな奇跡を望むべきなんだ」。さらに「すべてを神の手にゆだねたら、ぼくたちはもう怖がらなくていいってことなんだ」それは確かに、私が13年間神に抱いた一種の甘えと少し合致する。「(アイスキュロスは)知るものは苦しまなければならないと書いた。眠りにあっても、忘れられる苦しみは心に滴り落ちてくる。我らの絶望に、我らの意志に反して、神の恐るべき恵みによって叡智がもたらされるまでは」。その通り。では、神の叡智とは?苦悩するものに神はなんと語り掛けるのか?それを知りたい!
こんな思いでいっぱいになりながら最後の章を読み終え、エピローグを読もうとしたその矢先、何も知らない旦那がふとテレビにスイッチを入れた。Eテレの「心の時代」が始まってた。「それでも生きる~旧約聖書コヘレトの言葉」というタイトル。これはもう聖霊の働き感じて、テレビに見入った。神は私に何を語るのだろうか。ついにその時が来たのだ。
「空の空。すべては空」で有名な、コヘレトの言葉。またの名を「伝道者の書」。「空」とはむなしい、ということ。「諸行無常」と言ってる平家物語と何が違うんだ?って感じだけど、よくよく読み込めば、だいぶ違うことがわかる。人生は、実は自分との闘いで、自分は自分の人生から逃げられない。この書はこの戦いに対する励ましでもある。「逃げられないものがいくつかある」とジェイクが言っていたことと重なる。
コヘレトは「日の下でどんなに苦労しても、それが人になんの益になるだろうか」という。これは、一見、一般的な反語表現だとすれば「いや益にならない」という意味にとってしまいそうになるけど、実は、そうではない。後になってわかることがある、ということ。「神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」。人間が絶望するとき、わかったような気になっていたりしないか。人生ってこんなものだったんだ、と。でも、わかっていないことがあるんだよ、とこの書は教えてくれる。わからないままになっていること、それが神の愛でもある。人生には苦悩がある、でもその神の愛に信頼して、安心して苦しんでよい。このようにして、不条理を引き受ける。
ところで神は、不条理に対して「なぜ」と問う人間に対して、言葉をもっては答えらえない。
ここでヨブ記。40章にわたって、神に人生の不条理を訴え、なぜだと問い続けたヨブ。41章で神が登場する際、神は、直接的な言葉による答えは、ついに与えなかった。でも、言葉でない何かを、与えた。それは、書全体を通して感じられるものである。お前は何者なのか、とヨブは問われている。というか、実は答えはすでに与えられている。私たちは、神の光に照らしながら、自分の中にあるそれを、発見するだけ。それは「逆に自分が問われている」ということ。その時ヨブは方向転換し、新しく生きる決心をする。そして問い続ける者だったヨブが、逆に自ら語る者に変えられている。
ここで、V.フランクル。言わずと知れた「夜と霧」の作者で、アウシュビッツというヨブ記的経験を生き延び、それを乗り越えた偉人。2011年の3.11のあと、再び注目を浴びてる。彼は、「生きる意味を求める問いにコペルニクス的転回が生じる。人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を求める必要なんかないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのでなく、人生からの問いに応えなくてはならない」。問う者から問われる者へとコペルニクス的転回をしたのは、例えば戦争体験を経たネイサンなんだろう。私は、ずっと父の非業の死について「なぜだ」と問うてきた。でも本当は、父の死を経た私は、人生に何を差し出せるか、それを「問われている」のだ。応えるべきは私の方だった。不条理を引き受けて、神に応える生き方をする。人生の責任を負うために存在している、それが私という人間だということを、知った。
コヘレトもヨブもフランクルも、そして「ありふれた祈り」の作者も、言葉にできない答えを持っていた。同じ経験をした人たち共通。
この答えは、言葉にして表すと、意味が矮小化してしまう。だから彼らは答えを知りつつも書けなかった、というか、書かなかった。しかしここでは、意味が小さくなってしまうことを承知で、あえて「答えは、自分が問われていること」なんだと、教えてくれている。確かに、それで私の中のすべてが納得するわけではない。まだまだ高くて深い神の叡智を知り尽くせないちっぽけな存在であり続けながら、わからないことはわからない、でもすべてを知っているわけではない、すべてを知っている神が、私にはわからないやり方で責任持ってくれている。そういう信頼があれば、生きていくことができるのではないか。
今回、私にこのような形で神からの語り掛けがあったこと、これが奇跡である。
テレビを見終えてから読んだエピローグに書かれた、スー族の知恵の深さに、ぞっとする。「彼らはおれたちの近くにいるんだよ」「彼らって?」「死者だよ。違いは一息分もない。最後の息を吐けばまた一緒になれる」そうだ、そうだ。永遠の別れではなく、近くにいる。
ところで、私は言葉に期待しすぎるきらいがあるんだな、と自覚した。答えは聖書のことばの中にある、思考するときに言葉が必要なのだから、答えは言葉で表現できるはず、と思い込んでいた。確かにそれは一理あるし、牧師の説教は聖書のことばを調べつくすことによって紡ぎ出されている。でも、そうでないものもあるってことがわかった。あるいは、調べつくして初めて、全体からのメッセージとして、言葉でない何かとして浮かび上がるものなのだろう。
ちなみに今日の礼拝でも、牧師は相変わらず聖書ということばを「調べつくす」という態度で説教を語った。それはある意味で正しい態度である。今日は「闇があっても光がある」と語っていた。闇は光に打ち勝たなかった、と。それは私にとって励みになる言葉である。
「ありふれた祈り」は、
ただミステリーと言ってしまうには
あまりにも優れ過ぎた作品だと思います。
特に36章から先は知恵の宝庫で、
上記でたくさん引用しました。
作者は聖書もフランクルも
知っているに違いないです。
そして、「なぜ」という苦悩に満ちた問いを
持ったことがあるのでしょう。
私のこの文章では、
ミステリーそのものには
ほとんど触れていないけど、
でも神の叡智の方が
私にとってはよっぽど大きなミステリーなんです。