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恩寵への不可避な道程

読書のアウトプットです。
若松英輔著「涙のしずくに洗われて咲きいずるもの」と
「悲しみの秘義」。

両者のテーマは同じだと思います。

みんなそれぞれに、
悲しいこと、別れ、
時にははらわたがちぎれるなんて言う言葉では
表しきれないような別離を
経験するものだと思います。

私にもその経験があり、
それ以来私にとって世界の見え方が
まったく違うものになりました。
それ以来、クリスチャンとしての私は
腐ったと思います。
時々自分を腐れクリスチャンと呼びますが
それはほんとにそうなんです。

そんな自分をどうすることもできないし、
腐ったままにするも、
どうにか変えるも、
それはもう神さまがどうにかするしかない
というレベルでした。

破壊的な別離を
人はどうやって乗り越えるんでしょう。
私は乗り越えられないんだけど
他の人はどうしているのかな。
そんな思いで14年生きてきました。

氏もまた激しい別離を経験した人で、
その中からにじみ出てきたものを
著したんですね。

以下はその抜粋です。

 愛するものを失って悲しみに暮れる。
 だが、悲しみを通じてしか
 垣間見ることのできない真実のあるとしたら、
 悲しみは単なる苦痛ではなく、
 恩寵への不可避な道程となる。

 彼(柳宗悦)は
「悲しみ」と書かずあえて「悲み」と書く。
 悲みと書くことで
 その感情が単に悲嘆に終わらないことを
 示そうとする。
 「涙」と「悲しみ」は同義である。
 それは単なる悲嘆に終始しない。
 むしろ、人と他者をつなぐものである。

著作の中で引用されていた
柳宗悦の「死とその悲みに就て」の抜粋。
 苦みの中から生まれでない悦びは、
 真の悦びではあらぬ。
 苦みし事なき悦びに、
 どうして人類を慰め得る力があるだろう。
 だが一同それが涙で洗われる時、
 それは人を希望に誘う。

柳氏は関東大震災で家族を失った人です。

二人とも共通して言っているのは
苦しみこそ真の喜びの源泉である、
ということ。

似たことを、V.フランクルも、
神谷美恵子も言ってる。

ヨハネの福音書に
「光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった」
ってあるのを思い出しました。

これは。。本当に
『悲しみの秘義』というに足る。

私は音楽が好きですけど、
若い頃から本当に美しいと感動する音楽というのは
ただただ明るい曲ではなく、
明るいメジャーな和声の中に
ふとマイナーコードが仕込まれいてる時だよな、
それってどうしてかな、
と思ってきました。

本当に感動するときって
涙が出るけど、それって
超嬉しい!すてき!というよりは
何か、腹の底から湧き上がる悲しみが
混ざってるよな、
それってなぜかな。

と思ってきました。

この本を読んで
その謎が少し解けたかもしれないです。

バッハは陰鬱な苦しみや
試練といったことを題材とした曲に、
世にも稀なる美しい曲を作曲しました。
BWV622「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」
BWV641「我ら悩みの極みにありて」
など。
それはほとんど必ずといってもいいパターン。
私は過去にここで
BWV653「バビロン川のほとりにて」って
バビロン捕囚という
苦難と罪と苦しみとにまみれた時を
歌った曲なのに、
こんなに牧歌的ともいえる
美しい曲になっちゃったんだろ?と
考えていました。

そうしたネガティブな主題の曲であれば
暗くマイナーキーを用いた
陰鬱な曲があてがわれるのではないかと
思うんだけど、
バッハの場合はそれがまったく逆。

若松氏が言いたいのは、
悲しみの向こうにこそ本物の光があり、
本物の光を見いだすためには
身を引き裂かれるほどの悲しみこそが
必要なのだということなんだよね。

若松氏・柳氏・バッハ氏は
同じことを言っているような気がしてきました。

なんだか腑に落ちるような落ちないような。
でもすごく気になって、
心の中のコルクボードにピンして
生活していました。

で、昨日、朝の出勤途中に
あ。と思い至ったことがありました。

これ。
キリストの十字架。

少しだけ思考を整理できたので
BWV622の練習を始めてもいいかな。

バッハって、
ほんとは思想家だったりとか!?
数字オタクだったらしいことは知ってますが、
それだけじゃないね。

バッハの曲がどんだけ深いか、
それをちょいと垣間見た思いです。

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