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【エッセイ】「信者」と「教祖」の関係
先日、私は'とある'昔の「新興宗教」のYouTubeを見ていた。
近代の日本史の勉強でYouTubeを見ていて、関連のレコメンドで引っかかったのかもしれない。
1980年代~90年代は「新興宗教ブーム」であり、さまざまな新興宗教が表に出てきて、私くらいの年齢の若者も多数入信していたらしい。
今、私の周りでは新興宗教にハマっている人は一人もいない。
00年代以降は廃れてきているが、それは新興宗教に縋る若者が減ってきていて「私は一人で自立心を持って生きていける」と言うような立派な若者が増えたのだろうか。
いや、たった10年や20年で人間の在り方が変わるとは思えない。
昔の若者が新興宗教にハマった様に、今の若者は新興宗教に代わる何かが必ずあるはず、と考えるのが一般的な思考。
では、一体それは何なのかと思えば、まず思いつくのが配信者への「投げ銭」もっと大きく言えば個人への崇拝だろう。
それはyoutubeなどの配信サイトだけでなく、SNSやオンラインサロンといったような、個人の思想を多数へ向けて呼びかけるような仕組みだ。
この事をChatGPTにまとめてもらった。
#プロンプト
日本の80年代~90年代の信仰宗教ブームと、00年代以降の配信者への信仰、いわば投げ銭ブームというのは紐づいているように思えます。 この関係性が紐づいているのであれば、まとめてください。
日本の1980年代~90年代の信仰宗教ブームと、2000年代以降の配信者への「信仰」や投げ銭文化の関係性について、以下のようにまとめることができます。
### 1. **背景の共通点:社会不安と個人のアイデンティティ探し**
1980年代~90年代の信仰宗教ブームの背景には、バブル経済崩壊や社会的混乱がありました。この時期、人々は精神的な拠り所や救いを求め、オウム真理教のような新興宗教に集まる人が増えました。社会的に疎外され、アイデンティティの喪失感を感じる人々にとって、カリスマ的指導者が提供するコミュニティや精神的なメッセージは強い引力がありました。
同様に、2000年代以降の配信者文化や投げ銭文化は、デジタル社会における個人の孤立感や、リアルなコミュニケーションの不足感が背景にあります。配信者(ストリーマーやYouTuber)は、カリスマ性や共感を通じて視聴者とつながり、特に若者や孤独を感じる人々にとって、精神的なつながりやコミュニティを提供しています。
### 2. **カリスマ的リーダーシップとファンの忠誠心**
1980~90年代の新興宗教では、指導者はカリスマ的な存在として信者を引き寄せ、その力を強化しました。彼らは、教義や精神的な救いを通じて信者に影響力を持ち、時には信者が全財産を献金するなど、物質的な捧げ物も行われました。
これと同様に、配信者文化ではカリスマ的な配信者がファンとの密接な関係を築き、視聴者は彼らに「信仰」を捧げるかのように投げ銭を行います。配信者の「応援」や「支援」としての投げ銭は、信者が宗教指導者に捧げ物をする行動に似ており、配信者がファンとの結びつきを強める要因となっています。
### 3. **コミュニティの構築と帰属意識**
信仰宗教において、信者は同じ価値観や教義を共有するコミュニティに参加し、帰属意識を得ました。孤立感や不安を感じていた個人が、同じ志を持つ仲間と共に活動することで、精神的な安心感を得ました。
配信者文化においても、視聴者は配信者のコミュニティに参加し、他の視聴者との交流を通じて、共通の話題や目標を持つ「ファミリー」や「仲間」としての帰属意識を得ます。特にライブ配信や投げ銭の際には、配信者からの直接的な応答が得られることで、参加感が高まり、コミュニティの一体感が強まります。
### 4. **金銭的献身の形態**
新興宗教では、信者が宗教団体に対して献金や寄付を行うことは珍しくなく、これが信者と指導者、または団体との精神的結びつきを象徴するものでした。献金は単なる金銭的行為にとどまらず、信者の信仰の強さを示すものであり、団体の存続や活動のために不可欠なものでした。
同様に、投げ銭文化は視聴者が配信者に対して直接的な金銭的支援を行う方法です。視聴者は、投げ銭を通じて配信者に対する支持を表明し、また配信者に「認識」されることで一種の承認欲求を満たします。この投げ銭は、宗教的な献金と同じく、配信者とのつながりや忠誠心を表現する一つの方法となっています。
### 5. **デジタル時代における宗教的な側面**
00年代以降の配信者文化では、カリスマ的な人物への盲信や崇拝がインターネット上で展開されています。これにより、視聴者が配信者を信仰的な存在として扱い、その人物を「支援」することで自らのアイデンティティや目的を見出すという点で、80~90年代の宗教的体験に近い側面が見られます。
結論として、80~90年代の信仰宗教ブームと00年代以降の配信者への信仰や投げ銭文化は、社会的・心理的背景、カリスマ的リーダーシップ、コミュニティ形成、そして金銭的献身という共通の要素を持っています。社会不安や個人の孤立感が強まる中で、カリスマ的存在への信仰や支持は、時代や媒体が変わっても共通の現象として現れています。
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ふと思ったのだが、私はこれからの人生において特定の「宗教団体」に所属しないだろう。
これは何故か、以下の3点が思いついた。
・自分で「物事」を考えることが好き
・他人に「絶対的な神」を押し付けられるのが嫌
・「物事」を自分の中で「結論付け」て消化して終わることができる。
私にとっての絶対的な神は「私の心」なのだ。
確かに「私の心」というのは、生まれてからの環境や他人の意見に翻弄され介入された挙句に、現在の「私の心」になっているので「私の心」と言うのは生まれつきの絶対的なモノではない。
しかし、すでにその「私の心」を自分自身である程度コントロール出来る事から、これからの人生は「私の心」が絶対的な神となり、対話していきながら生きていく。
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また、私は好きな人やファンというのもいるにはいるけれど、全面的に肯定をするのは出来ない。
例えば、好きな歌手の歌は全部良いと思ったり、好きなYouTuberの言ったことを全面的に肯定する、と言うこと。
先述でもした通り、
それは教祖と信者の関係である。
私は「私の心」が「教祖」であるからして、他人を「全面的に肯定」するような「信者」にはなれない。
もちろん、生きている中でこの考えは変わる可能性もあるので、20年後何かにどハマりして、よく知らない人と結婚させられてよく知らない国のよく知らない農家に嫁ぐ可能性もある。
私の心は絶対的な神であり教祖である、とはいえ人間の心なんて言うものは移り変わりが激しいモノなので、思想が長続きするかは不明。
こればかりはどうしようもない。
しかし、今の時点で他人を100%信奉するようなことが無ければ、今後60年~70年くらい生きるとしても、多分大丈夫だろうという感覚はある。
つづく。
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