【エッセイ】村上春樹「鼠三部作」と解説本について
全く意識しなかったけれど、
私も「ネズミ三部作」がある。
私は製作完了まで合計30分程度だが、
村上春樹は何年という単位だろう。
質、内容ともにまるで別モノ。
そもそも私のは文学ですらないので、
比較もできないけれど。
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村上春樹の「鼠三部作」とは
デビュー作から「風の歌を聴け」
続く「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の三作。
その作品中に「鼠」という友人が出てくることから、ファンの間?ではそのように名付けられている。
その三作は私はとても好きであり、
特に好きなのは 「1973年のピンボール」
下記の記事でも少し触れている。
普段、私はどの本も1回読めば終わりだが、
「1973年のピンボール」だけは何度も読み返してしまう。
それだけ本当に素晴らしい作品と感じる。
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小説には、別の方が書いた解説本がある。
先述した「鼠三部作」にも当然ある。
私は全くこの解説本を読まないので、
どういうモノかわからない。
なのでChatGPT先生に聞いてみる。
何となくは知っていたが、これを読むと小説に対して理解が深まり、便利なのが分かる。
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私が小説を読んだ後、
解説本を全く読まないのには理由がある。
ここからはあくまでも、
私の小説に対する姿勢なのだけれど。
小説というのは、受け取り手(読み手) 自身がどう感じるかであって、多様な見方が出来ると感じている。
ある人がその文章を読めばネガティブに感じるし、またある人がその文章を読めばポジティブに感じる。
それが小説の面白いところであるし、必ずしもこの見方が正解、というものではない。
例えば、極端な話でいうと1冊の小説を読み、そこから何も感じなかったり全く理解できなくても、それはその人にとってはそういう事であり、それで良いのだと思う。
読み手の理解や見識が乏しいのではなく、その小説の書いてあることがその読み手に伝わらなかった、ただそれだけという気がする。
なので、村上春樹が理解できなかったり、宮沢賢治が理解できなかったり、トーマス・マンが理解できないというのは、それはもうどうしようもない事であり、それ以上でもそれ以下でもない。
そういう意味で言うと、全く理解できないモノを、比較的誰にでも理解しやすく噛み砕いた「解説本」で「そういう事だったのね」と分かる事ができる。
しかし、その解説も解説本を書いた人のモノの見方 (角度)であり、その角度は多様な角度の、一つの角度でしかない。
その小説に対し「全く理解できない」というのも一つの角度なのである。
もちろん、3歳児や全く何も本を読んだことない人が、いきなり「失われた時を求めて/プルースト」を読んでも読めないというのは当たり前の事なので、それはもう少し文字を読んでいく必要はある。
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ある程座文字を読んでいくと、色々な小説に対して内容を理解し分かる事がたくさん出てくる。
そしてそこから、自分の人生に少しの栄養を与えることが出来るかもしれない。
ただ「何も感じない」というのも一つの理解であり、その事に対し咎められる必要はない。
私も「何も感じない」小説がある。
「グレートギャッツビー/フィッツジェラルド」は、読んでも何も感じられなく、ページを繰る事が苦痛になる。
それでも、私は解説本を読んで理解を深めようとはしない。
もっと感性が磨かれ再読したら何かを感じるのかな、とは思っているけれど。
つづく。
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