地方自称進学校出身で発達気味の凡人が一浪して東大合格するまで
まえがき
もう十年以上前の話です。文三です。逆転合格のような、ビリギャル的エンターテイメント要素はありません。順当に落ちて順当に受かりました。下層東大生のリアルとして読んでいただければ幸いです。
~小学校卒業
某県地方都市で生まれました。父母と姉がいる家族構成で、父はMARCH文系、母は短大出でした。幼少期の神童エピソードは全く無くて、むしろ幼稚園までは心身ともに発達が遅かったようです。「1人で着替えられない」「女の子にも競走で勝てなかった」という話を後になって母から聞きました。高齢出産での末っ子なので両親からは可愛がられましたが、何かを褒められた記憶はありません。特に褒めるところも無かったのでしょう。
確実にターニングポイントになったのは父の死です。小学校1年生の1月でした。家業の小売りが全くの不振で、母が店の切り盛り、父が食品会社へパートという形で分業体制を取り始めた矢先の出来事です。夜明け前に工場へ通勤するべく原付を走らせていた父が飲酒運転・信号無視の車に轢かれて、そのまま帰らぬ人となりました。
これを書くのは未だに心が沈むのですが、この父の死が無ければ私の東大進学は起こり得ませんでした。確実に言えるのは金銭面です。通勤途中の事故死であったため労災がおりましたし、わずかながら遺族年金が支給されるようになりました。無論、当時の私に我が家の台所事情は知る由も無かったのですが、金欠で喧嘩の多かった家庭が静かになり、ささやかながら家族で国内旅行に出かける余裕も生まれたことは憶えています。行きつけのスーパーも変わりました。もともと、母は私たち姉弟を金のかからない地元の駅弁大学に進学させて食いっぱぐれのない教員にするつもりだったのですが、家計が苦しく学資保険も途中で解約していたようですから、もし父が死ななければどこまで実現できたのだろうかと考えてしまいます。
これは検証のしようがないのですが、父の死を境に認知機能も急速に発達したように自分では思います。大好きだった父にせめてものはなむけを、と思い父の初七日までには『法華経』の方便品や如来寿量品は読めるようになりました。なんてことはなくて、法事に参加したことのある方ならご存知でしょうが、経本には在家信者も読めるように大抵かなが振ってあります。木鉦の単調なリズムに合わせて平仮名を読んでいるだけなのですが、それでも親戚たちは「お経を読んでいる」と驚きました。それまでは小学校の「授業時間」の概念が理解できず、ひとりで校庭に遊びに行ってしまうような子どもだったのですが、小学校1年生の2月以降は記憶もしっかりしていますし、人並みの小学生として友達もできました。
父が遺した遺産の一つに本棚がありました。『サザエさん』『フジ三太郎』といった四コマ漫画から、三島由紀夫・司馬遼太郎・池波正太郎・江戸川乱歩・井上靖らの小説、カッパブックスの趣味本、変わり種では今西錦司全集なんてものもありました。私の一番のお気に入りは (確か)『日本歴史読本』というやつで、源平の合戦の巻を好んで読みました。以降、歴史や宗教、文学といったジャンルを好んで濫読します。
小学校5年生からは地元の学習塾に通い始めました。今はどうなのか詳しく知りませんが、私の時代の某県には中学受験という概念がなく、「お金持ち」の子女だけが市外の私立中高に入学していきました。お勉強のできる子たちは県内各学区に割り振られた県立自称進学校に入って、高校から大学受験の準備を「よーいドン」で始める、というのが典型的なルートだったのですが、高校受験で失敗しないように早くから母が入れてくれたのでしょう。
最近中学の同窓生と久しぶりに飲む機会があり、すっかり疎遠になっていた中学受験組の近況を知りました。いずれも私立大学を卒業して中国大陸に渡って起業していたり、メガバンをやめてコンサルを開業していたり、内心 (私より勉強できないくせに) と見下していた彼らがしっかり「金の稼ぎ方」という作法を身に付けて社会で活躍しているのです。やはり「お金持ち」というのは再生産するように出来ているんですね。
~中学校卒業
小学生までは根拠のない自信であった「私は勉強ができるのではないか?」という仮説が、各種試験で順位が出るようになり、相対化されることで確信に至ります。私が進んだ中学校というのがまたカオスで、工業都市でしたのでブラジル人労働者の子どもから、日本語を何も知らないまま転入してくるフィリピン人、果ては『あしたのジョー』でしか見聞きしたことのなかった少年院に入る人間まで本当に多種多様でした。ヤンキーの多いクラスでは学級崩壊が起こり担任の先生が精神を病んで休職、という教育困難校のような様相さえ一部では呈していたのですが、幸いどれも私には直接関係がなかったため全て他人事として中学時代を過ごしました。もっと後になって「キョロ充」という言葉が生まれましたが、あれは当時の私にピッタリだったと思います。ただひとつ弁解させてもらえるのであれば、あれは「スクールカースト上位とお近づきになりたい」という動機からではなくて、およそ毎月ターゲットを変えて行われるヤンキーからのいじめの標的にされないための自衛の策でした。快適な学校生活のためには、いじめには直接加担しないが、自分もいじめられない、誰からも嫌われない上手い立ち回りを覚える必要がありました。今となっては火成岩の種類や瀬戸内の気候の特色など覚えていませんが、この立ち回りだけはしっかり芯まで沁みついて今のJTCでも役立っている気がしています。アインシュタインに言わせればこれが教育ということでしょうか。
閑話休題、幸い中学校の学習内容で躓くこともなく、中3の頃には模試で第一志望校であった地元の自称進学校で安全圏判定しか出なくなり、内申点のために音楽の時間では恥を忍んで大声で課題歌を歌い、美術や技術・家庭科の先生とは仲良くなるという寝技を使ってそつなく合格しました。ただ、この頃には東大を志望しようなどという大それた考えには未だに至っていませんでした。通っている学習塾で張り出されている合格実績から、県内の自称進から東大に進学する「天才」たちの人数の規模感はおおよそ把握していたためです。
~高校卒業/現役時代
きっかけになったのは、高1の夏に受けた駿台全国模試でした。その前の模試では「名前がかっこよくて偏差値も高い、それに社会学部もあるから私の好きな社会科も勉強出来るに違いない」というバカ丸出しの理由で一橋の社学を第一志望に書いた記憶があるのですが、駿台全国模試の国語で全国30番台、1教科だけながらもいきなり上位者表に名前が載りました。もちろん校内順位は1位です。今思えば何と言うことはなくて、まだ古文と漢文の文法をろくに習っていない高1生たちが大量に爆死するなか、読書でしこしこ育てた私の言語性IQが運よくカッチリはまって異常値が出ただけだったのですが、私を奮起させるには十分すぎました。「東大の定員は1学年3000人というし、苦手なのは数学だけだから他の教科も引き続き頑張れば文科三類には入れるのではないか」ということで東大文三第一志望に至ります。入っていた運動部は辞めました。もともと越境入学で通学に時間がかかっていたため時間の制約が厳しく、さらには部内で上級生が同級生の女子をいびり始めたので、流石にうんざりして見切りを付けました。転部した帰宅部 (本当は帰宅部ではないのですが、ほぼ活動実態がなく敢えて帰宅部と呼びます) では同じような運動部ドロップアウト組や、未だにお母さんに服を選んでもらっているような一流の陰キャが揃っていて、今では一生の友達です。部室で馬鹿やるのが本当に楽しかったですね。同学年の全教室からチョークの粉を集めてきて、水で練ってディルドを作ったりしていました。
運動部を辞めてから時間が出来るようになり、地元の同じ学習塾で英語を、父の知り合いの伝手で定年退職した別の高校の元先生に数学の家庭教師をお願いすることになりました。この英語の先生は今でも人生における恩師だと思っています。東大生たちによる「崇拝する塾講師談義」ほどどうでもいいものも無いのですが、この先生のおかげで英文読解の仕方がわかるようになりました。それまでは英文和訳の問題でも、本 note のようなオナニー的文章を書きつけては△を貰って首を傾げていたのですが、「英文和訳の問題は、訳文の日本語のうまさではなく、きちんと英語の構文を理解しているかどうか問うている」という常人であればおよそ気付いているであろう事実を私に理解させてくれました。当時の某県、少なくとも私の周辺には存在しなかった構文主義の黒船です。以後、英語はもはや「センス」ではなく「暗記と構文解析の作業ゲー」になり、高1の終わりの定期試験では英語で学年1位になりました。これも嬉しかったですね。取れるとは思っていなかったですし、自称進学校とはいえ毎年数名は東大合格者が必ず出ますから、「頑張れば受かる」という確信を深めます。
数学については結局最後まで克服ができず、一浪して受かるまで数弱のままでした。現役時は進研模試で偏差値60台、駿台模試で50台くらいだったと思います。文三とはいえ東大を受けるにしては心許ない実力で、これが最後まで私の精神を不安定にさせました。根が愚かなので、公式の暗記と式の操作までは何とかなるだけで、本質を理解していないことを理解していなかったのだと今になって思います。それでも校内平均を割ることはありませんでしたし、参考書を放置して積み上げるような克己心のない、だらしない人間でしたから、この家庭教師の先生がいなかったらもっとひどくなっていたことは請け合いです。この先生にもお礼を申し上げたいと思います。
高3では夏の東大実戦でB判定が出たあたりが成長の頂点で、雲行きが怪しくなり始めます。一番厳しかったのは東大型の模試で英語が武器にならなくなったことです。信じがたいことですが、当時の私は東大型の英語を解く際にも、すべての英文に[関係詞節]とか (副詞節) とかちまちま構文を書き込んでいたんですね。アスペかと。こんなことをしていたら時間内に終わるはずがありません。読解偏重でリスニングも苦手でしたので、長いし設問も意地悪な東大英語のリスニングには全く歯が立たず、以降50点台しか取れなくなりました。ここでまともな思考ができる人であれば、目的から逆算して「東大の二次試験で及第点を取ることが出来ればいいのだから、東大の過去問を周回して時間内に解き終えられるようにしよう」、「弱点のリスニングを重点的に対策しよう」となると思います。ところが私は地方自称進学校の文系クラスという井の中では完全に「英語できるキャラ」が確立していましたので、本番半年前になって「英語が出来ない自分」をとても受け入れることが出来ず、『ロイヤル英文法』を購入して英語の地力上げを試みて明後日の方向へと逃げ出していきました。結局現役時はこの仕上がりのまま二次試験に突撃することになります。
地歴にも問題がありました。もともと歴史は好きでしたし、暗記は得意だったので日本史・世界史ともに「点」はしこたま覚えて一般の模試では好成績でした。ところが、当たり前ですが、東大の地歴は論述ですから「点」と「点」を繋げて「線」にする作業なわけです。それぞれの「点」にどんな意義があるのかきちんと理解し、どう有機的に繋げられるかを題意に沿ってひねり出すことが求められるのですが、これがセンター後まで手つかずの状態でした。学校で未履修であった倫理をセンター用に自学しなければならず、新たに「点」を覚える作業が楽しかったものですから、そちらにかまけてみ見て見ぬふりをしていました。センター後に受けた東進の直前模試の日本史などひどいもので、東大を神格化するあまりに聞かれてもいない自説をひねり出して10点台を叩き出しました。その後学校の先生に添削指導をお願いして多少見られるようにはなりましたが、この辺りで精神が限界を迎えます。
もともと頭の悪い人間が勝手に志望して苦しんでいるだけなのですが、一丁前に「東大に受からなければいけない」という強迫観念だけは強くなり、上述の経緯から「いよいよこれは厳しいぞ」となったあたりで自臭症を発症しました。電車内で鼻を触る人、通りすがった際に咳ばらいをする人、何かを思い出した様子で来た道を戻る人、それら全てが自分から発せられる口臭のせいにしか思えないのです。通学のための電車にはとても乗れなくなり、母に相談したところで精神病院に連れていかれました。結局口臭外来で呼気を分析してもらい、本当に口臭はないということを証明してもらってから数年かけて寛解していくのですが、当初母は統合失調症を疑って知能検査を受けさせられました。言語性IQが140で動作性IQが110、全検査IQが130という結果でした。この手の検査を受けたことが無い方はIQの数値に「すげ~」となるかもしれませんが、言語性IQはこれまでの学習や読書経験を色濃く反映します。アンリ・デュナンやらクーベルタンについて知っていることを答えるように言われたのを覚えているのですが、(こんなの世界史の文化史じゃん) と思いながら回答していました。要は暗記科目が得意なガリ勉だったというだけです。統合失調症の相談をしたものですから、先生からは「統合失調症というのはもっとIQが低い人に見られる病気なので、安心していい」と説明をいただいたのですが、今調べ直すとこの乖離は発達障害なんじゃないでしょうか。まあ、本当に苦しんでいる方々ほどではないですし、診断されたわけでもないので「私の中の疑惑」ということでこの note のタイトルも「発達気味」としています。
で、以下が現役時の最終結果です。順当に落ちました。
落ちた当時は「あと22点も取らないといけないのか……」と思ったものですが、こうして十数年経って振り返ると、逆にあの仕上がりでよく20点差で済んだなと思います。唯一人並みにできると思っていた国語もたぶん合格者平均には達していないんじゃないでしょうか?こうしてみると、東大文系受験において「苦手科目が2つ以上」あると如何に致命的かわかると思います。ちなみに私の学校からは文系から4人受けたのですが、合格率は0%でした。理系からは計3人受かったようです。
~浪人@駿台/東大合格
ありがたいことに浪人をさせてもらえるようになりました。3月10日の合格発表当日はいっちょ前に荒れましたね。受かるわけないのに。当時駿台で「スーパー東大文系演習コース」というのが新設されまして、その1期生で入りました。東大の過去問や東大模試の過去問ばかりを1年間かけて周回して、本番をオーバーキルしようというコンセプトのコースです。ここで初めて開成、筑駒、桜蔭みたいな Tier 1 の進学校の友人が出来るのですが、なんか色々な面での格差に圧倒されましたね。よく言われる情報格差もさることながら、「数学が得意」っていう奴もちらほらいて、私にとってはカルチャーショックでした。いや、いましたようちの学校にも。でもレベルが全然違うんですね。数学はⅢCまでやっていて、東大文系数学で大体コンスタントに65/80点以上は取れて、でも人文にも社会科学にも興味がある風でもなく、なぜか文系で受験している奴。「なんで文系にいるの?」「なんでお前落ちたの?」って奴。センター理科は物理。は? ちなみに東大を出てからの彼らの予後はすごく良好です。30人くらいのクラスの中には帰国子女も3人はいたかなあ。うちの高校では学年に1人もいませんでしたが。何はともあれ、彼らと交流するうちに東大は「彼らの友人が大勢通っている普通の大学」になって、「天才のみが入学を許される神聖不可侵な大学」ではなくなりました。地方の自称進学校にいたら絶対に起こり得ないことだと思います。
1年間も時間があるので、まずは英語を何とかすることにしました。演習コースとはいえ、駿台は1コマ50分ですから、実際の東大の試験時間をまるまる再現することはなかった (と思う) ので、自習時間には自分で試験時間を設定して東大実戦の過去問を解きました。これまでは英文に構文を書き込んで、漢文でいえば訓点を付けまくって読んでいたのですが、TOEICと同じく「問題用紙に書き込み禁止」というルールを作って、いわば白文の状態で臨むようにしました。ちょっと練習すると時間内にギリギリでも終えられるようになり、(ああ、みんなこういうゲームをしていたんだなあ) と思いましたね。同時に現役時の自分の愚かさを呪いました。以下は今でも後生大事に取ってある浪人時の模試です。
現役のときにあれほど望んだA判定がいとも簡単に取れるようになって、2桁順位で上位者表にも載るようになりました。河合塾の方には学籍がなかったので、偽名で受験してアニメキャラの名前を上位者表に載せるという、それまで「神々の遊び」だと思っていたおふざけもやってのけました。やった分だけ結果が出るので、本当に勉強が楽しかったですね。いつまでも学生時代の模試の結果を誇りに思っているのはキモい、という向きもあります。私もかつてはそう思っていて上位者表の冊子は捨ててしまいましたが、でも10年経ってみると (別にいいじゃない) って思うんですね。地元のマイルドヤンキーが「俺は昔野球上手かったんだぜ」って言うじゃないですか。ある人にとってはそれが野球でなく大学受験であったというだけで、自分が必死に努力して何かを成し遂げたことって誇りに思っていいと思うんですよね。大学に入ってもっとすごいことを成し遂げた人はそれで胸を張ればいいと思うし、ただ私には大学受験以外で全国2桁順位になれるものには今のところ出会えていません。
で、偉そうに高説垂れましたが、実際の東大入試の結果がこれです。
私は思想とか文献学に興味があったので第1志望はぶれなかったのですが、かりに模試の結果で調子に乗って文Ⅰか文Ⅱに挑戦していたら落ちていた点数でした。今でこそ「凡人が東大に入れてもらったんだから御の字でしょ」って思えるのですが、当時は万能感の反動から入学後にコンプレックスで苦しみましたね。文Ⅰ文Ⅱの人たちに比べて自分は確実に勉強ができないわけですし、+8点というのも安定感のない数字です。この年はおそらく世界史の採点が甘くなったんじゃないかと思うんですが、「世界史のオマケでなんとか入れてもらえた」くらいの負い目を当時は感じていました。
自分なりに原因を考えてみますと、おおよそ以下の通りです。
①数学ができなかった……第2問で幾何の問題があって、途中式を出すまではみんな出来るレベルの問題だったのですが、出来ませんでした。これはキツかった。実際これのせいで、3月10日の発表まで絶対に落ちたと思っていました。母に電話しながら初めてボロ泣きしました。未だに時たま2浪しなくちゃいけなくなる夢を見ます。
②リスニングの地力が足りていなかった……東大受験で、模試と本番で一番環境が異なるのがリスニングだと思います。模試の時はCDを流して話者の発音もアナウンサー的に明瞭だったと思うのですが、本番はなんかフニャフニャ言ってて発音がネイティブなんだろうけども一般人っぽいし、(教室運もありますが) スピーカーで音質悪いし、何より緊張している中で2回しか聞けないのでプレッシャーがすごいんですね。大学入学後にTOEICを受けてみて860点だったのですが、内訳がL400 の R460でした。結局東大英語で高得点を取るだけの耳が出来ていなかったのだと思いますし、本番の悪環境下でそれが露呈しただけです。現在海外で仕事をしていて、英語を使わないといけないので受験時よりもリスニング力は上がっていると思うのですが、成長の過程で
(ⅰ) 何を言っているのか聞き取れない ⇒ (ⅱ)ディクテーションはできる ⇒ (ⅲ) 聞き取った英文を即座に頭から理解できる
という3段階が存在した気がします。東大のリスニングはいやらしくて、私が受けた年度を聞き直してみたのですが、現在では流石にほぼ聞き取れるものの、設問をよく読めておらず間違えた箇所がありました。スクリプトと対応する設問で下手な高校の定期テストレベルはあるんじゃないでしょうか。それをリスニング問題にするんですから恐ろしいことです。そうすると、やはり東大英語を得点源にするには(ⅲ)の状態で臨まないと厳しいわけです。
③駿台日本史の「要素採点」に毒された可能性……日本史だけは現役の時より下がりました。駿台の授業の中では日本史が一番好きでしたし、事実直前期の演習では50点を超えたこともありました。前近代の先生にも近現代の先生にも非常にお世話になったと思っているので心苦しいのですが、「厳密な要素採点」というのはやめた方がいいと思います。これは論述答案の中から「用語集に出てくるような術語」をピックアップしてそれに応じて加算していく、というやり方なのですが、これをやると答案の論理構造への批判が甘くなりますし、自分の知っている術語を出来るだけ多く散りばめようとして題意からどんどん離れて行きます。東大の教官がそんな採点しないでしょうし、何より合格者の再現答案から要素採点なんてやっていないことはもう明らかなんじゃないでしょうか。駿台としてもう何年も受験生に再現答案と得点開示で「答え合わせ」をさせているわけですから、そろそろ知り得たものを学習の前線にフィードバックさせるべきと思います。もちろん単に私の実力がヘナチョコだったという可能性も十二分にあるわけですが。で、この「要素採点」の恩恵 (恩恵?) を一番受けるであろうのが上位クラスの駿台生なんですよね。どこの予備校でもそうでしょうが、上位クラスには合格実績を出させるために豪華な講師陣が割り振られます。それで彼らが花形である東大模試も作成しているわけですね。もちろん次の模試で何が出るかなんてことは決して流出しませんが、ずっと授業を習っていれば、どんどん勘所を押さえられるようになってきます。「たとえばAという論題が出たときに、散りばめるべき術語は何か」という勘所です。特に東大実戦の日本史で校外生に全然点数が来ないのはこういったカラクリです。
結局、地歴も勉強するべきなのですが、本番の採点の甘さも年によって変動するようですから、本当に芯を食う回答が出来る自信のある人以外はあまりアテにはしない方がいいです。そうすると「不確実性の少ない英数(国)でベースを上げろ」という定石に結局戻ってきます。
もしこの note を読んでくれている、同じような公立自称進の受験生の方がいたら、僭越ながら以下の私見を共有させていただきたいと思います。
本物の中高一貫の進学校には結構な演習経験の差を付けられます。これを短期間で覆して合格するのは可能ですが、「頭がいい」生徒か、「頭が悪くても、自分に必要なことを冷静に判断して目的から逆算して確実に実行できる」生徒のみ可能です。
模試は英数 (国) の偏差値だけ気にするべき。特に地歴で得点の嵩上げをしているタイプは要注意。
極力早いうちから過去問の演習を行ってください。予備校の作った模試の過去問は、時間の余った方以外はやらなくていいです。私にはよくわかりませんが、現代文なんかは問題の作り込み方が違うそうです。どういった問題が出やすいか、実際の過去問をやりこんで勘所を押さえてください。出来なくてもめげずにとにかく過去問をやってください。
最悪現役でダメなら、浪人は全く悪い手段ではないです。1年の回り道も良い経験になりますし、どうせ現役で東大に入っても十中八九あなたは本物の天才に会って挫折します。挫折が早いか遅いかの話です。生涯年収の1年分損しますが、少なくとも浪人することで就職に困ることはないです。駿台の同期の就職先は上位省庁・総合商社・裁判官etc、2浪目で受かったA君は外銀IBDに行きました。ただ浪人失敗すると歪んでしまう人が多いので、浪人するからには絶対成功させるつもりでやりましょう。
最後になりますが、女手一つで私を育て上げ、私が「やりたい」と言ったことは何でもやらせてくれた母にこの場を借りて感謝を申し上げたいと思います。偉そうに色々書きましたが、まぐれでも第一志望の東大に入れてもらっただけで御の字です。ここまでお読みくださった皆様も、ありがとうございました。