伊藤貫の「三つのp」の思考について

昔から人と話が合わないことが多いなと感じてきた。
学校で、家で、友達や、家族と話していてもどうも話が噛み合わないのだ。
一応同じ日本語を喋る者同士として、会話らしい会話は成立してはいるのだが、非常に表面的で、意味をなさない。
どうしてそうなってしまうのか理由がわからず、長年個人的に考えてきたのだが、伊藤貫という人物のものの考え方が一種の答えをくれた形だ。
保守言論人として、少なくともインターネット空間では有名な伊藤貫氏がよくいう言葉に、物事の考え方には三つの段階がある、というものがある。
まず一番下の段階に、ポリシー(policy)レベルの議論、つまり政治の政策における議論を据える。
そして下段の一つ上、中段が、パラダイム(paradigm)レベルの議論、つまり学派レベルの議論となる。
そして最後、一番上に位置するのが、こういう言い方が正しいのかどうかは定かではないが、ともかく、最も高尚なレベルとされているのが、フィロソフィー(philosophy)レベルの議論、つまり、哲学的議論だと言うのだ。
下段のpolicy。
中断のparadigm。
そして上段のphilosophy。
この三つの段階に議論のレベルを分ることを、伊藤貫は『三つのP』の思考と読んでいる。
伊藤貫の主張とは、人は常に何らかの意見を言う時に自分が現在三つのPのうちのどのレベルの話をしているのかを意識しなければならない。
そうしなければ、吐く意見にまとまりがなくなり、支離滅裂になり、最終的には時代情勢とか、周囲の意見に流されるような情けないものになってしまうとそう主張している。
私としてはこの伊藤貫の意見を聞いた時に、恥ずかしながら最初は全くピンときていなかった。
そもそも頭があまり良くないと自覚している私は、普段自分が議論している事柄あるいは何らかの政治的事件、あるいは社会現象に対して吐く意見に、段階やレベルが存在する発想自体がなく、ただなんとなく自分が正しいと思う意見を直感で捻り出し、しゃべっていた。
だが私なりにこの伊藤貫の『三つのP』の思考について色々と考えた末、段々と理解ができるようになってきて、それに伴い、自分がこれまで他人との会話で感じてきたもどかしさや、噛み合わなさ、みたいなものの正体が見えてきたような気がした。
伊藤貫氏はこう言っている。
日本人の議論は、三つのPの段階の一番下段、つまりポリシーレベルの議論に過ぎないことが多い。
新聞に書かれてあるコラムも、SNSでの著名人の発信も、あるいは家族同士の日常会話に至るまで、全てポリシーレベルの議論の域を出ていないという。
これはどう言うことかというと、例えば移民政策というものを例に考えてみよう。
ここでいう移民政策とは、外国からたくさんの労働者を最終的には日本国籍を取得させることを前提に迎え入れる政策、とする。
つまり数年働いた後に帰国することを前提としている現在自民党が行なっているような技能実習制度はここでは当てはまらない。
ここでの移民政策とは、ヨーロッパやあるいは北米が行っているような、外国人を心温かく迎え入れ、国籍を取らせ、同国人と同じように扱うことを前提としたものであるとする。
日本で移民政策が議論されるときに、主に二つの意見が出ると思う。
つまり、移民の受け入れに賛成か、あるいは反対の意見だ。
賛成派の言い分は大抵以下のようなものだろう。
つまり外国には日本のように恵まれた生活をすることができず、戦争や飢餓に苦しんでいる人々がいる。
そういう人々を日本で迎え入れ、手厚く保護してやることが日本にできる国際貢献の形なのだ。
いわゆる人道的観点からの移民推進賛成派の意見である。
また移民政策に関しては、経済的な観点から賛成する者もいるだろう。
すなわち、人口の減っている日本経済が成長していくには、移民を受け入れる以外に選択肢がない、と言ったような者である。
移民を受け入れれば、人口が増え、労働力も増え、結果として需要も増えて、経済にとってはプラスの要素しかない。
少子高齢化社会の日本では、移民を労働力として受け入れる以外に、社会保障制度を維持する術がなく、移民推進は経済合理性からいって当然の選択だ。
日本国内の移民推進派の意見とは大体この二パターンに集約される。
逆に移民反対派の意見を見てみると、特に保守層に典型なのが、文化保全、伝統を守ると言った立場からの移民反対派である。
移民を入れればその国の文化が壊れてしまう。
移民が我が国に入ってきたとしても、結局日本人と同化することは不可能で、あちこちに移民のみで構成されるコミュニティーを形成する。
やがて日本社会はその移民コミュニティーに飲み込まれてしまい、日本文化が消え去ってしまう。
だから移民推進は反対。
これがよくインターネットなどで散見される保守陣営の意見だと思う。
それとは別に、もっと素朴に、移民に対して恐怖を感じている人々もいるらしい。
というのも、これまで積極的に移民を受け入れてきたヨーロッパや北米の治安が悪化しているという情報がインターネット上に溢れており、それに感化された彼らは、移民政策を推進することによる日本の治安悪化を心配しているようだ。
この人たちは、別段日本固有の文化を保全したいとか、伝統を守りたいとか、そういう考えがあるわけではなく、単純に移民たちを日本人よりも凶暴で野蛮で能力的にも劣っていると考えている傾向があり、そのような人たちが大量に国へ入ってくると治安が悪くなり、日常生活が脅かされてしまうと信じている。
だから移民推進は断固として反対と、要はそういうことだ。
ここまで移民推進派と移民反対派の意見をそれぞれ二つずつ挙げてきたわけだが、今日のインターネット上では、これらの勢力が互いに日本の移民政策をめぐり、口汚く罵り合っている場面をよく目にする。
いろんな議論があり、その都度具体的な事例が出されたり、刺激的な動画などが送り付けられたりして、移民反対だ、賛成だ、やいのやいのと人々は争っているわけだが、伊藤貫に言わせれば、このような議論はいくら続けても不毛であり、意味がない。
なぜなら両者ともに、ただひたすらポリシーレベルの議論をしているに過ぎず、そこに学派の、もしくは哲学的な裏付けがあるわけではないからだ。
最近やたらとデータだ数字だとそういうものを持ち出す議論が流行っているが、伊藤貫が言いたいのは別にそういうことではない。
仮にこの移民政策の議論に関して、移民賛成派が移民を受け入れた場合の日本の経済成長率の具体的数字を提示したり、あるいは移民反対派が移民を受け入れた際の町の犯罪率の上昇を具体的数字に書き起こしてあげつらったりしたとしても、議論のレベルが引き上げられるわけではない。
いくら数字を出そうが、あるいは具体的な例を出そうが、結局それはポリシーレベルの議論に過ぎず、その根本にあるのは単純な感情だけだ。
移民賛成派は、単に幼稚な正義感に振り回されているに過ぎず、反対派や無知ゆえの理由なき外人恐怖に突き動かされているだけに過ぎない。
彼らには学派レベルの思考や哲学レベルの思考がないので、もちろん時と場合によって意見が変わるし、世間の流れがどちらかへ傾けば、あっという間に迎合し靡いてしまう。
伊藤貫はこれを日本人の情緒主義と呼び、学派レベルもしくは哲学レベルの思考能力を持たない日本人は、結局は何事も感情で決めている浅い民族であると批判している。
私は伊藤貫氏のこの意見に今日では納得するとともに、今までの自分の愚かしさを痛感することになった。
そして伊藤貫氏の提示したこの考え方のおかげで、一種の答えのようなものも得たような気がしている。
つまり端的に言って仕舞えば、今まで私が周囲と意見が合わなかったり、すれ違いを感じてもどかしい思いをしていたのは、彼らと同じ哲学的な考え方、あるいはもっと簡単にいうと矜持のようなものを共有していないからだ、ということだ。
政治議論に限らず、単なる日常会話においても、やはり何かしら、哲学的に、あるいは人生観的に、しゃべっている相手と共通する価値観や、考え方がなければ、結局議論や会話は永遠に平行線を辿り、交わることはない。
私は今まで他人と日本語で会話をしていながら、その実、別々の言語をただお互いにぶつけ合っていたに過ぎないということに気付かされたのだ。
私と他人では根本的にその根っこにあるものが違う。
だから会話が成立しているようで、全然深まらない。
別に私の方が優れていて、他人が劣っているとか、逆に私が周囲に比べて著しく頭が悪いとか、そういうことを言いたいのではなく、そもそも目指す方向が違うから会話にならないのだ。
いや、というよりも、私も、そして私と会話をしてきた周囲の人間たちも、そもそも伊藤貫が言うような哲学的、あるいは学派的な物の考え方に一度も触れたことがないせいで、ひたすら感情的にその時思ったことをしゃべっているだけで、自分が議論によって目指す方向を定めることもできず、故に会話のレベルは非常に低く、一貫性がなく、支離滅裂で、表面的で、非常に退屈で、全く意味をなさないと、単にそれだけのことだったのだ。
何らかの宗教的、あるいは哲学的な矜持なり基準なりが人々の間で共有されていれば、意見に違いこそあれ、議論をすることができ、互いの共通項を拠り所として妥協案を探ることができ、何より同じ意味を持った言語で意味のある会話をすることができ、生産的な結論を出すことができる。
逆に、ある程度同じ価値規範、哲学、矜持、宗教観念を持ち、それらを互いが共有しているという前提に立って喋らなければ、まともな会話は成立しない。
人々の間に共通する価値規範や誰しもが納得できる哲学的思考がなければ、ひたすら感情論をぶつけ合うだけの醜い世界が体現してしまい、社会は一歩も進まない。
故に人々は、議論を三つのPの段階にわけ、自分が現在どのレベルの議論をしているのか、そして自分の意見を裏付ける哲学的あるいは宗教的な原理は何だろうかと、常に意識をしてものを喋らなければならないのである。
伊藤貫がいいたいことはこうまとめることが出来ると思う。
こうして書いてみて強く思ったのが、伊藤貫の要求する議論のレベルは非常に高いと言うことだ。
と言うのも、そもそも会話をするときに、三つの思考のレベルを意識しながら喋ると言うのが非常に難易度が高く、しかもそれを実行するには、宗教的に、哲学的に、あるいは学派的に最低限さとい人物でなければならない。
決して感情論に終始せず、ポリシーレベルの議論の域を越え出て意味のある喋り方をするには、哲学を学び、学派レベルの知識を蓄え、宗教の存在を知らなければならない。
忙しい日本人にとってそのことは非常にハードルが高く、故に今後も日本で行われる議論は、互いにわかりあうことのできない感情論に終始する議論にすら値しない単なる言い争いになっていくと思うのだが、そのことに絶望せずせめて自分だけでも哲学的に少しは賢くなり、生産的な議論ができるように自らを鍛え上げていきたいとそう思った次第だ。

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