
「22世紀の資本主義」による「四季映姫」解釈
2025年2月20日、会社を定時ダッシュし、自転車を爆速で漕ぐ私。書店でイェール大学教授の成田悠輔氏の新著「22世紀の資本主義」を購入、早速読破…
ということで、折角なのでこの本の読書感想文を記すとともに、何故か「東方project」の一キャラクターである「四季映姫・ヤマザナドゥ」の理解が進んだので、それと連結させて記すことにしました。例によって専門家ではないので正確性は担保しませんが、とある一般人による一解釈と思っていただければ幸いです。
1.「22世紀の資本主義」概略
「LOVEはお金で買えるのか」
結論「メイクラブの快感と財力の快感は、とても似ています」
…こんなかっ飛ばした書き出しをする著者も中々いないもので。メイクラブは「性行為をする」みたいな感じの単語らしいですが、これに対して成田氏のツッコミは
だったら、お金もメイクラブと同じくらいに一回きりでかけがえのないものにできないだろうか?
「資本主義」と銘打つと堅っ苦しいものですが、この本で語られるのは『お金』の消失する未来。ビッグデータを根拠に設計されるアルゴリズムが資本主義+再分配を推し進め、挙句の果てにはお金の価値が蒸発していく、という構想を大真面目に語っている本になります。
勿論「22世紀の」予想であるので、今すぐお金が消えるわけでもないし、そもそもこんな未来が本当に来るかは全く以てわかりません。ですが一度立ち止まって『お金』というものが何なのか、或いは何だったのか、真面目に考えることは悪い話ではないと思います。
モノの値段というのは本当によくわからないもので。例えば特に先進国では食料・飲料・電気・ガス…などなど、生存の為に必須なエネルギーを市場で購入するために人類が働かなければいけない時間は現在進行形で激減している、という状況です。一方で株式や仮想通過、NFT…などなど、まだ見ぬ未来で価値が花開くかもしれない商品、即ち未来への投資という形の商品は1億、1兆の単位で価値を爆発させています。成田氏に言わせれば「現実がデフレし未来がインフレしている」状況です。それこそ「なんでこんなまったく形の異なる商品を同じお金という尺度で語っているのだろうか?」これがこの本の一つの問いになっています。
『お金』というのは"一次元的な価値の尺度"であり、ある物と物の比較が容易になります。比べて欲しくなったらお金を使って物と交換できます。そしてお金は腐らずに形を保てるが故に価値を保存できます。これが教科書的な説明です。
ではこの『お金』がどうして必要なくなるのか?「ビッグデータの蓄積とアルゴリズムの進化により、もはや一次元的な価値の尺度が必要なくなるから」というのが成田氏の回答です。詳細は「この本を買って読め」になりますが、個人的に印象的だった部分をいくつかピックアップして以下記すことにします。
2.読書感想文
2-①お金とはなにか?
お金の隠された核心がある。それは「過去の記憶」としてのお金だ。
「お金は過去の記憶である」という考え方はあまり耳馴染みがなかったですが、確かにその一面もあるなぁと思いました。お金という単位に一次元化され匿名化された粗い記憶ではあるものの、自分が誰かに何かを成し、何かで感謝された、その記憶。何を成したかは労働なのか、本を書いたのか、骨董品でも制作したのか…色々あると思いますが、その"過去の感謝された記憶"を形として残しておくもの、そのような意味合いです。
ですが、身の回りを見ているとその感覚を持っている人間はとてもじゃないけど多いとは言えません(少なくとも私の場合は)。前項で示したように、お金とは価値尺度・交換手段・保存手段として捉えるのが教科書的です。アレが欲しい、これが欲しい…という物欲。今こそ新NISAだ…いやいやビットコインだ…という未来への投資。誰かに飯をおごる、おごられる…という贈与の側面もあるでしょうか。
「お金は過去の記憶である」という視点を、成田氏はお金の発展の過程から見出しています。太古の時代の経済、古代メソポタミアなどでは粘土板に掘られた台帳が発掘されており、この台帳を見ながら経済的な取引が成されていたとされています。この台帳が信用手形の役割を果たし、後のお金に発展していった。ところが大航海時代、産業革命、コンテナ革命を通じて経済活動の量・範囲が広がると、手作業での台帳管理は不可能になり、そうしてお金は具体的な過去の行動記録を忘却して、今では一次元的な価値の尺度に終始するようになった、成田氏はこう語ります。
何かと数字に晒される現代人にとって、お金にがめつい人間、即ちお金に取り憑かれる人間はよく見ます。①何かを生産する、②誰かに恩恵をもたらす、③その結果としてお金が手に入る、R①そのお金を資本にまた何か生産する。本来的にそうだったかは不明ですが、この①→②→③→R①→②…へ流れるお金のデザインが所謂『資本主義』の理想形にみえます。しかし、現代社会のお金はそのR①・②の記憶が忘却され、③に主眼が置かれます。お金に取り憑かれる人間というのはお金に洗脳されてその入手自体をゲーム化・目的化しているか、或いはお金で安心感を買っているという所でしょう。ここに他者は介在しません。
2-②何故我々はお金を稼ぐのか?
個人的に、この発想の根底は「自分(達)が生き残る」という『マインドセット』から来ていると感じています。ダグラス・ラシュコフ著「デジタル生存競争」ではこの『マインドセット』という概念について詳細に記されています。
ダグラス氏は以前はデジタル技術の発展に貢献していましたが、この本では現在のデジタル技術の持続不可能性を強調し、『脱成長』的な思想を説いています。
とはいえ個人的にはただ『脱成長』と言ってしまうと、それはこれまで人類が発展させてきた社会の否定とも言えるし、これ以降も経済的・技術的な『成長』で救われる命はあると思うので、これは『成長』の恩恵を過小評価した言葉のように聞こえます。で、仮にそんなつもりで言ってなくても『脱成長』という言葉が独り歩きして電子の濁流に揉まれた結果、知らぬ間によくわからないものになった、なんて話を容易に想像できます。現状「フェミニスト」という言葉がインターネットでゴミ同然に扱われているように。
しかし一方で、現に発生している環境問題・エネルギー問題があります。最近の夏は余りにも熱いですし、電気代は高騰する一方です。生成AIにより電力需要は大きく高まるとされ、そもそもこの社会を持続できるエネルギーがどの程度あるのか、排出されるCO2等の温室効果ガスが更なる気候変動を
引き起こすのではないか。これらへの対処として「成長の方向性を絞る」ということは必要なんじゃないか、とも考えている次第です。成田氏に言わせると以下の感じになりますが、これは多分お金の話しかしてない人たちに向けていってるんだと思います。
(成長も脱成長も)経済活動を単純化するお金的な尺度という同じ穴のムジナである。成長はクソかもしれないが、脱成長も同じくらいクソである。
さて、この「自分(達)が生き残る」という『マインドセット』。その究極系が「地球がヤバいから核シェルターに逃げる・宇宙に逃げる」という発想であるとダグラス氏は言います。まあそこまでいけるのは世界にわずかしかいないビリオネアの資産家連中くらいなものだと思うのですが、私たちも多かれ少なかれ『マインドセット』に囚われています。保険なんてものはその最たる例で、将来自分に降りかかるかもしれない何らかの事故に対する補償と言えますし、誰かをだまして金品を奪うというのもそう、闇バイトで小金を稼ぐために人殺しを請け負う人間もそう、安直な自己啓発本に流される人間もそうです。まあ自然の摂理と言ってしまえばそうなので、善悪の問題ではないですが、私としては「窮屈に生きてるなぁ」という感覚です。
2-③尺度で測れない世界とは?
デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。
ところが現代は超デジタル時代、膨大な数の人々の活動記録がインターネットに蓄積され、それらがビッグデータと呼ばれるものになっていきます。成田氏が何を言いたいのか、「これだけのデータがあれば、太古の粘土板の通帳でやり取りした時代のように、別に物事の価値を一々お金に置き換える必要はなくなるんじゃないか?」。要は「お金に意味がなくなる」、そう言っています。
我々の全てのやり取りがデータに変換されてインターネット上に蓄積される。飲食店で何かを食べた、地域のごみ拾いをした、電車で移動した、ライブ会場でフロアを沸かせた、交通違反を犯した、会社でパワハラをした…その個人の来歴データに基づき、その人が何をどこまでしていいかがアルゴリズムにより直接計算される。誰かにとって良い生産をすれば行動範囲は広がるし、誰かが貶められたとアルゴリズムが察知したらその人はしばらくは飲み食い以外が出来なくなる。アルゴリズム自体は検閲不可能であり、従って何かの大小・高低・善悪を観測するのが不可能になる。ここにお金が関わることは無くなる、即ち経済は"測れなくなる"ということです。
こんな世界が何処まで実装されるかは勿論不明です。全ての行動がデータ化されるというのは、ともすれば中国のようなそこら中に監視カメラが設置され、インターネットの検閲も厳しい監視社会の幕開けとも言えますが、案外日本人は受け入れちゃうんじゃないかという気もします。勿論この世界像は誰かにとっての、或いは人類全体のユートピアとなるわけではなく、結局人類には「あるものしかない」し「できることしかできない」のです。何か自分の得になることをするには、自分がも何をか生産して誰かを喜ばせる、ということをしなければならなくなる。「自分(達)が生き残る」には「他者にも貢献しなければならない」ような世界像。この時、ダグラス氏の言う『マインドセット』がうまい具合に社会と馴染む方向で溶け込んでいくんじゃないかと感じました。成田氏は以下の文章で本書を締めくくりました。
ただそれぞれの人がそこにあるがままにあるための仕組みが測れない経済である。
2-④感想 ~尺度が溶解した地平で~
さて、ここからは完全に感想文ですが、一つの課題はやはり「広く遍く人・物・事を尊重し、またそれ自体を楽しめるか?」という部分だと思っています。少なくとも、お金に限らず『数字』(或いは『イデオロギー』)に取り憑かれた我々現代人に、そこから解放されてしまう覚悟はあるか?そう問われた感覚です。
何か周囲に認知されている尺度があればそこには必ず『数字』としてヒエラルキーが形成されますが、膨大なビッグデータはその一元化された尺度を徐々に開放していく、何故なら「この尺度だと下層だけど、別の尺度で見るといい感じだよね」というように、ある尺度に対して縦のデータだけではなく横のデータも大量に集まっているからです。これはある尺度をヒエラルキーの上層・中層・下層にいるかどうかに関わらず、丸ごと解体してしまうことを意味します。下層の者にとってはいいことですが、上層の者にとっては自身の立場を切り崩すことになります。
例えば「黒人差別」や「女性差別」などはまだ根深い部分に残ってはいますが、これらは徐々に解体される方向に向かってはいます。本来のポピュリズムとは、ある尺度(ラベル)で一元的に測られている人間を「だけどこの人はこうゆう部分もあるよね」という形で、その「白人ー黒人」「男性ー女性」という尺度から解放するような運動です。
ハーバード大学教授のマイケル・サンデルは著書「実力も運のうち」の第7章、絶望死の項目の中で、白人の労働者階級の平均寿命が縮んでいると報告した研究を紹介しています。これは今まである尺度のヒエラルキーの上層に落ち着いていた者たちが、突然別の尺度(ここでは能力主義)に放り込まれて悪戦苦闘している様を表していると言えるでしょう。
全ての尺度が溶解した地平、ここにはなにか仏教的な世界観が広がっている気がします。尺度の比較に突き動かされることがなくなるなら、人間は最早あるようにあるだけです。「それぞれの人がそこにあるがままにある」というのは仏教における縁起の考えに漸近します。或いは「あるがままにある=自然と計算機が一体化する」という、落合陽一氏がいう所の「デジタルネイチャー」とも近い主張です。要は「AがあればBがある、BがあればCがある、Cがあれば…」といった感じで「全ての物事には原因がある」という考え方です。
とはいえ個人的には人間そう簡単にこの境地まで来れるとは思っていないですし、何より比較(即ち競争)には楽しい部分もあります。その楽しい部分を取り出して娯楽化したのがスポーツだったりオンラインゲームだったりします。私もマリオカート8DXやポケモンSVの対人戦をやって楽しかった記憶がありますし、高校の野球部でレギュラーを取れずに悔しかったという記憶もあります。競争の中で物事と向き合うのも悪くはなかったなと思いますし、その意味で今の生活に少々緊張感が足りないなぁと感じることもあります。アドレナリンが足りないとでも言うべきなんでしょうか。
ただ、比較(競争)の結果に楽しい(或いは悔しい)以上の意味はなくなっていいと思います。例えば「受験競争で学歴を獲得していい企業に入って…」と煽られると、受験競争が大きな意味を持ち過ぎます。そうすると必然的に教育は「受験で合格する(勝利する)」ことが目的化して、学問本来の楽しみが消失していきます。そりゃただ苦しいだけだしみんな勉強嫌いになるだろ、って話です。
要は物事と向き合う一つの手段として『競争』は残るのだと思いますが、その『勝敗』(すなわち比較の結果)にそんなに意味がない・実質的じゃない、ってことです。言ってしまえば『お祭り』としての『勝負』が残る、個人的にはそんな感じになればいいな思っています。
もう一度言いますが、成田氏の提唱する世界が訪れるのか、お金は消えるのか、尺度は消えて測れなくなるのか、これらは実際にはまったくわかりません。とはいえ「お金という尺度そのものを疑ってみる」ということをするだけでもこの本の意味は大きいのではないかなぁと感じました。金稼ぎなんて金稼ぎってゲームが上手い人間が勝つんですよ。現代、お金に感謝なんてない。自分としては、その中で物事(或いは他人)と向き合う一つの手段としての競争・生産・学習・ゲーム・コミュニケーション…この一つ一つを大事に楽しむこと、その中で自分が成せることの範囲で成すべきことを成すこと、それが今の私たちに出来る事なのかなぁと感じた次第です。
3.『四季映姫・ヤマザナドゥ』の一解釈
3ー①なんで四季映姫?
この本を読んで色々と考える中で、真っ先に思い浮かんだのが東方projectの『四季映姫・ヤマザナドゥ』というキャラクターでした。

東方花映塚は未プレイなもので、彼女のピクシブ百科事典(四季映姫・ヤマザナドゥ (しきえいきやまざなどぅ)とは【ピクシブ百科事典】)に記載されている彼女のセリフがどうにも引っかかっていました。(※キャラクターの詳細は上記リンクから飛んで見てください)
お金を稼ぐこと、それが善行なのよ。
私はお金を稼ぐことが到底善行だとは思えず、このセリフの前後の文脈を知っている訳でもなく、自分の中で独り歩きしたこのセリフをモヤモヤしたまま記憶の海に沈めていました。これまで私の感覚の中に在るお金はやはり価値尺度・交換手段・保存手段としてのお金でした。そしてそれこそ成田氏の言うように
慈善活動で手に入れた一万円札も詐欺恐喝で手に入れた一万円札も同価値である
或いはダグラス氏の語った
私が自宅マンションの前でゴミを捨てているとき、強盗に襲われました。それについて、地域の衛生や福祉に関するオンラインコミュニティーであるパークスローブ・ペアレンツ・リストに投稿しました。強盗の発生場所近くの交差点の位置を投稿したことに怒りを感じた人々から、「これを公表すると、私たちの住宅の資産価値に悪影響があることに気が付かないのか」という反応がすぐに返ってきました。
これを見ている私には金稼ぎがまったく善行には見えませんでしたし、当然のことながら映姫もこれらを指して『善行』と評した訳ではないでしょう。ところが「お金は過去の感謝の記憶である」という視点を挿入した時、一気に話が変わってきます。
3-②幻想郷的なお金とは?
とはいえ、まずは一旦件のセリフの前後の文脈を整理しましょう。原作は偶にプレイするのですが、花映塚はシステムからよくわからずクリアを断念したので、今回はRadical Discoveryという東方原作のセリフを纏めてくれているサイトから引っ張ってきました(Radical Discovery - 東方花映塚 四季映姫・ヤマザナドゥ セリフ集)。以下のセリフは映姫ルートの小野塚小町戦におけるセリフです。
「死神がお金を稼ぐことは、生前の行いの善い者を好待遇で迎える事にもなる。つまり、お金を稼ぐこと、それが善行なのよ」
「お金を稼ぐことが善くない事の様によく言われるのは、徳のない人間が妬みで言うことないのです。働かない事が善である事は無いのです。お金の仕組みは、稼ぐことと使うことが善行になる様に出来ているのです」
要はお金という経済システムの中に善行が組み込まれている、という意味合いで使用しています。このセリフの中には「働くことによってお金は手に入る」という前提が含まれています。即ちこのセリフは「お金を持っているということは過去になにかしら働いたということであり、従ってお金を稼ぐことは善行である」という解釈が成立します。これは尺度としての『労働』と『お金』が比例関係で連結しているためです。
映姫が何故このような話をしたか?というと「小町を説教するため」に他ならないのですが、映姫が「働くことによってお金は手に入る」という前提で話しているとなると、どうやら幻想郷ではお金がそうゆう感じで扱われている、という予想が出来ます。
そして働くとは、何かを生産して、或いはサービスすること。そしてその働きによって誰かに感謝される。「お金は過去の感謝の記憶である」という言説がこの発想を表出させてくれました。どうやら私は「金稼ぎは自分の保身や権力の獲得の為に行うもの」或いは「金稼ぎは労働者や情報弱者からの搾取である」という偏見に囚われ過ぎていたみたいです。やっぱり現代社会と幻想郷でものの考え方は違うのだなぁと。
因みに小野塚小町のキャラ設定テキストには死神としての善悪判定基準が記してあります。この設定からも映姫の言う『お金』というものをどう解釈すればいいかが窺えると思います。
死神が善人、悪人を判断する基準は罪の量などではなくお金である。お金と言っても、故人の財産ではなく、故人の事を心から慕っていた人の財産の合計である。
3ー③『四季映姫』と『アルゴリズム』的社会
さて、もう少し踏み込みましょう。映姫は閻魔なので『浄玻璃の鏡』という道具を持っています。『浄玻璃の鏡』とは閻魔が人を裁く際、その人の過去(生前)の行動履歴を全て確認するために使用される道具です。プライバシーなどなく、過去の行動が全て『浄玻璃の鏡』に映し出されます。
ところでこの『浄玻璃の鏡』、その中には所謂ビッグデータと全く同じ役割のデータが蓄積されていると言っても過言ではありません。『浄玻璃の鏡』の中には魔力か何かを通じて個人に関する大量のデータが含まれていると言えます。そして我々がChatGPTに話しかけるように、映姫が『浄玻璃の鏡』に「彼の一生を映してください」と何らかの形で入力すると、『浄玻璃の鏡』はそれに従ってその彼の一生を映し出す。つまるところ、"人間の歴史・一生"とは"ビッグデータ"それそのものであり、『浄玻璃の鏡』はデータと映姫(閻魔)を繋ぐインターフェイス、そして『四季映姫・ヤマザナドゥ』とは"善悪算出のアルゴリズム"である、ということです。
映姫の能力「白黒はっきりつける程度の能力」。これこそ善悪アルゴリズムそのものと言えるでしょう。映姫のキャラ設定テキストには以下のように記されています。
人間とは異なり、物事の善悪の基準を自分の内に持つ。その判決は死者には覆すことが出来ない。その善悪の基準は非常に複雑であり、事件の成り立ちから、関係者の生い立ちまで全てが罪の重さに影響する。
犯罪心理学というのは客観的な事実やデータを基に犯罪行為を分析することで、次の犯罪が発生することを防ぐ、ということを目的とした学問ですが、映姫(閻魔)というはその彼岸に位置する存在でしょう。第2項で仏教の縁起という概念を紹介し「全ての物事には原因がある」という視点を挿入しましたが、現代の裁判ではそれらをすべて人間が判断して有罪か無罪かを判定しています。その昔、西洋で実際に行われていたという魔女裁判では火炙りやら鞭打ちやら断食やらで拷問して自白させて有罪化するという酷いものだったといいます。現代は犯罪心理学等の科学的な分析も行われており、魔女狩りなんてことは起こりにくくなってはいますが、やはり人間が判断する以上冤罪や過剰な量刑というのはちょいちょい発生してしまうものです。直近だと袴田事件が冤罪であったというのも明らかになりましたね。
犯罪傾向とは、遺伝や器質、体質などの生物学的要因、しつけ、友人関係、社会、文化などの環境要因の相互作用によって形成されたものである。そしてそれぞれの要因には、犯罪傾向に対して促進的に働くもの(危険因子)と抑制的に働くもの(保護因子)があって複雑に絡み合っている。
四季映姫という善悪アルゴリズムであれば、犯罪という分野以外においてもそれらの相互作用を全てひっくるめて計算可能です。彼女のやっていることは、ある人間の過去の全ての行動を善悪という一次元的尺度(ベクトル)に射影して、その絶対値(スカラー)を全て切り捨てて『白』か『黒』の真っ二つに分断するという行為です。冷静に考えてみれば、これは「ある人間の歴史という莫大なデータの蓄積」と「アルゴリズムによる高速計算」の二つがあってようやく可能になるものだとすぐにわかります。逆に言うと、映姫が「人間がこの計算を完全に出来ると思うな」と言っているようにも感じます。
ところで「22世紀の資本主義」及び成田氏の前著「22世紀の民主主義」では、アルゴリズムの計算プロセスから人間の関与を排する方向へ社会がシフトする、という世界像を共通して描いていますが、果たしてそこまでに至るのか?或いはその世界は人間にとって良いものなのか?即ちこれは『四季映姫・ヤマザナドゥ』と十分に発達した『AI』は同類なのか?という問いでもあります。ここで『四季映姫・ヤマザナドゥ』は形而上学的な超常存在として、即ち"『四季映姫・ヤマザナドゥ』とは正義そのものである"という意味合いで使用しています。
私が十分な答えを出せる訳などありませんが、成田氏自身も言うように少なくともユートピアではないでしょう。そもそもの話
できないことはできないし、許されないことは許されない
ですし、例えば思想家の東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』という著書の中で、そもそも人間社会とアルゴリズムが調和するのか?という部分で成田氏や落合氏の提唱するような人工知能民主主義に懐疑的な目を向け、以下のような批判を述べています。
・人工知能(アルゴリズム)民主主義は現行の民主主義より効率的かもしれない。〔…〕それでも、それが生の一回性を無視し、人々の意思を群れの表現としてしか理解することができない限りにおいて、決して持続的な統治は実現できない。
・ドエトエフスキーが(『地下室の手記』で)描いていたのは、ひとことでいえば、人間はそもそも、理想社会の到来にそれが理想社会というだけの理由で反抗することができる、そうゆう厄介な存在だということである。
・ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない〔…〕だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり化学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。
幻想郷の面子にしても映姫の批判をまともに聞いている(或いは理解できている)人妖は全然多くないように見えます。しかし、東氏の主張的としては、幻想妖怪少女らのように何が良いかを自分(達)で勝手に考えて『喧噪』し続けることでしか正義は見つけられないとしています。
映姫としても幻想郷の面々を高評価する描写がありました。だからこそ映姫と幻想郷の関りとして、たま~に地上に出てきたと思ったら『善行』だなんだと無理難題を一方的に突き付けて、どうすればいいかを自分たちで考えさせており、彼女らの姿勢を一定数評価しているのではないか。私は映姫の「幻想郷に出てきては説教する」という行動をそんな感じで解釈することにしました。
3ー④まとめ
私の今の結論としては「自分たちで真面目に『善』について考える」「その『善』を他者と争わせる」、この繰り返しを実行することがそもそもの人妖における『善』の前提条件であり、『善』・『悪』の具体的な要素は時間と座標、心や身体…などの変数を含む多変数関数である。そして人間にその解をホイホイ与えると、そもそもの『善』の条件を満たせなくなる。従って『AI』はいつでもその解を与えてしまい、その時点で『善』でなくなるため、『四季映姫・ヤマザナドゥ』と同類ではない、という感じに落ち着きました。
『四季映姫・ヤマザナドゥ』自身は『浄玻璃の鏡』に内蔵されたビッグデータを参照し、能力という名の善悪アルゴリズム内の変数に値を突っ込むことで"白黒はっきりつける"のですが、たま~に地上に出てきて抽象的なことしか言わずに去ることで、結局考え込むことになり『善』の前提を担保しているのかなと。
また、心から慕われるような行動をすることで発生する『お金』、即ち"感謝の記録"としての『お金』ある場合に限り、「お金を稼ぐこと、それが善行なのよ」というピクシブ百科事典にあったパワーワードを説明することができます。これは断じて「お金を稼ぎさえすれば『善』である」という意味合いを持っていません。詐欺恐喝で手に入れた金は『善』になろうハズもないのです。どのようなお金稼ぎをすべきなのかを自ら考え、その考えた方針の下でお金稼ぎをする。これが成田氏や映姫が言わんとするお金の本質であると考えております。
私に関していえば、現状は読書をして無駄に頭を回したり、それを活かして東方の二次創作を作ってやんややんやと楽しむ、そうして創作の楽しみの場の土壌を広げていくこと、それが今の自分にとっての『善』なのかなぁ、と感じています。未来がどうなるのかは定かではないですが、現代社会に結局映姫はいません。自分の中の『善』は定期的にメンテナンスしていこうと思います。少なくともあぶく銭が当たった程度で働くのをやめようとはしないようにしようかなと。では折角ですし、東方という素敵な世界の言葉で締めましょうか…
「正しく生きようと心がけると、世界もまた正しく見えるのです」