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隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか 』/科学史家・隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想:分断の可視化はチャンスでもある(文系vs.理系の本当のはなし「ディスタンス・メディア」)

☆mediopos3707(2025.1.12.)

「ディスタンス・メディア」で
科学史家・隠岐さや香への
「文理融合の現実と理想」に関する
インタビューが掲載されている
(聴き手は編集部の田井中/賀内の両氏)

隠岐さや香には
『文系と理系はなぜ分かれたのか 』という著書があり
二つのカテゴリーがいつどのようにして生まれたのか
それが今後どのような方向を持ち得るのかについて
西欧における近代諸学問の成立や
日本の近代化の過程にまで遡った議論が展開されているが

本インタビューではその議論の流れのなかで
現状がどうなのか
またその実態をふまえながら
めざすべき方向をどうとらえるのかについて
興味深い話を聞くことができる

個人的には文系/理系というカテゴリー分けは
不要なのではないかと単純にとらえていたところもあり
それをあらためて考えなおすきっかけともなった

そのインタビュー内容について
そのいくつかを整理しておくことにしたい

文系・理系という区別は日本だけではなく
学問の分裂を「二つの文化」と捉える見方は
欧米にも存在してきたが
工学を蔑視してきたヨーロッパとは異なっている

日本の文理の問題の根には
一つには官僚制度
もうひとつには中学・高校の教育としての
中等教育という要因があった

官僚制度においては明治の早い時期から
殖産興業や土木公共事業に関わる技官と
行政において法務に携わる文官の役割分担が
かなりはっきり分かれていたことから早くから
「二つの文化」的な摩擦が起こってきていたのだという

また中等教育においては
ヨーロッパのように工学を蔑視する見方はなく
最初は文理の区別はいらないと考えられていたが
文科と理科くらいに分けておいたほうが
結果的に教える側の都合として
効率がいいことされた経緯があるようだ
しかし「分けすぎると、
共通の「教養」を持てなくなるとして、
人格教育を行うための教養も重視され」た側面もあった

現状においては文理が分かれすぎていることから
「文理融合」「医工連携」「学際」など
分野を結ぶ動きもでてきているという

日本語の「文」「理」というのは
「letters」と「science」という
19世紀に使われていた言葉の翻訳に由来しているが
その二分法が根づいているのは日本を中心とする東アジアで
他の国の中等教育ではより緩やかな分類になってきていて
文理というよりも将来進みたい道に合わせ
いくつかのモジュールを組み合わせていくというような
カリキュラムが実施されはじめている

隠岐氏はそんな現状のなかで「文理を青と赤のように
二つに分けたイメージで捉えることをせず、
分野間を行ったり来たりするようになるんじゃないか、
という期待」をもっているというのだが

「一方で、教育のなかで文理融合教育を
どんどん進めていけばいいかと言うと、
全員が全員、そうならなくてもいい」
「文系と理系は実は違わないとか、
融合してしまえばいいだとかは思っていない」
「分断を好意的に捉えている部分」もある

「むしろ、差異を意識した方がいいし、
対立するくらいでもよい。
一方は愚直に個別具体的な人間の生とその価値を徹底的に掲げ、
他方は大量の人間や自然の現象から得られた情報を
数量データとして処理することで知られざる現象を発見する。
それぞれの分野が正反対の方向から知見を提示して、
競合しあいながら集合的知性により残るべきものが残る
というのをよしとして」いるという

「分断」が政治の領域の話となると問題だが
「なんであれ分断が可視化されているというのは、
それが不可視な状態よりはだいぶ健全だ」というのである

「現代は「わかりあえなさ」が比較的高い解像度で
すぐに可視化されてすばらしい」
「分断の可視化はチャンスでもある」と
かなりクールにとらえているようだ

いうまでもなく隠岐さや香の視点は
科学史家としての視点であり
個々人の魂の成長や統合が云々されているのではない

あくまでも文と理の「分断」を可視化することによる
全体としての「集合的知性」を問題としているが

文と理の「分断」にかぎらず
現代はさまざまな「分断」が先鋭化され
それが可視化可能になってきている時代だとはいえそうだ

これまでのような
「不可視な状態よりはだいぶ健全」だというとらえ方も
現状とこれからの方向性について
意識化する機会としてとらえることもできる

そうすることでさまざまなテーマにおいて
「○○と△△はなぜ分かれたのか」と問い直し
それを可視化することで得られる「チャンス」ともなる

昨今起こっているさまざまな「分断」が
分断化されている領域の孤立化と閉塞
やがては破壊へと向かうのではなく
あらたな世界への創造的な拡張へと向かいますように

■科学史家・隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想:
 分断の可視化はチャンスでもある
 ・文系vs.理系の本当のはなし #1(F5-5-1)
 ・文系vs.理系の本当のはなし #2(F5-5-2)
 ディスタンス・メディア(文理のエコロジー 06 Dec. 2024)
  (聞き手:田井中麻都佳・賀内麻由子(DISTANCE.media編集部)
  構成:田井中麻都佳/写真:高橋宗正)
■隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか 』(星海社新書 2018/8)

***
気候変動や戦争など、多くの複雑に絡み合った「やっかいな課題」を前にして、アカデミアの役割を問い直し、新たな知のフレームワークを探っていく、特集「文理のエコロジー」。
『文系と理系はなぜ分かれたのか』などの著書があり、自然科学と社会科学が分岐しはじめた18世紀フランス科学史を専門とする隠岐さや香さん(東京大学教授)に、近年、増えつつある文理融合の取り組みの実態について伺った。その「わかりあえなさ」を起点に、現代社会が抱える「分断」へと話は進む。(全4回)
****

**(文系vs.理系の本当のはなし #1)

・Contents
 ・理工系からのラブコールに、温度差のある人文系
 ・文理融合がうまくいっているケースでは、密に話し合いをしている
 ・「差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい」
 ・「分断する権利をわれに与えよ」

・理工系からのラブコールに、温度差のある人文系

*「田井中(以下、T)/
 そもそも今回の特集は、私が以前から感じてきたことが起点となっています。私自身は文系出身ですが、これまで理系の研究者に取材をして記事を書くという仕事に多く携わってきました。そのなかで、毎回、その研究の面白さに痺れつつも、サイエンスやテクノロジーの中身を一般にわかるように伝えることの難しさを感じてきました。それはおそらく文系の研究も同じで、そもそも専門知を分野外の人にわかるように伝えるのはとても難しい。だから、ノーベル賞受賞のニュースなどでも、研究の中身そのものよりも、その研究者の人柄や奥様の内助の功などに焦点が当てられてしまうのだと思います。こうした状況をなんとかできないかなと、ずっと感じてきました。

 一方、国のプロジェクトなどを中心に、「文理融合」「医工連携」「学際」など、分野を結ぶ動きが盛んです。その背景には、多くの分野でITが研究の基盤になりつつあることや、社会課題を解こうとしたときに、複数の分野の知を結集させて臨まない限り太刀打ちできないことがあるのだろうと思います。専門知の共有が難しいなかで、はたして、そうした連携はうまくいっているのかどうか——。そこで、本日は科学史という、まさに文系と理系に跨るご研究をされてきた隠岐先生に、文理融合をめぐる現況についてお聞きしたいと思います。

 隠岐/まず、現状ということでお話ししますが、実は、「文理融合」というのは、主に理系側の人が、「人文社会系の人を巻き込んでやるほうが何か良さそうだし、研究費も取りやすいから一緒にやろう」というケースが現状ではまだ多いんですね。つまり、理系の人が主体である場合が多い。また、人文社会系と一口に言っても、人文学(あるいは人文科学)と社会科学に分かれる上にその中にいろいろな分野があります。とくに社会科学分野には、実学に近くて、外から見ると理工系との連携が期待されそうな分野がありますが、そうした分野が意外と連携に冷淡だったりします。ある意味、社会的に強い立場にある分野なので、積極的に多分野と連携する必要を感じづらい。それで主体的に外とつながろうとしない、という状況があるかと思います。

 たとえば、少し前の調査になりますが、京都大学の宮野公樹准教授によれば、分野連携にもっとも消極的なのは法学部なのだといいます。法学部の専門家が集まる組織は所帯も大きいし、社会的なポジションも安定していますからね。現在では、AIやデータ利活用などでガバナンスやレギュレーションが不可欠な時代なので、状況は変わってきているかもしれませんが、当時の法学部はほかの分野とはほとんどつながっていませんでした。あるいは応用経済学なども同様です。売れっ子の研究者はなかなかつかまらないし、実際にお声がけしても断られてしまう。そうした方々は、理系の研究者とつながってもあまり旨みはないし、むしろ企業との共同研究に取り組むケースのほうが圧倒的に多いのだろうと思います。

 一方、人文学の中でも、一見して実学と縁の薄そうな文学や歴史などは、意外に学際研究している領域です。たとえば、古文書の修復を理系の研究者と一緒に手がけている人もいる。ちょっと言い方は難しいのですが、役に立たない学問と言われがちで、雇用が安定していない人たちほど、他の分野に揉まれる経験に直面していたりします。場合によっては、専門とはまったく違う分野にポツンと一人だけ入り込んでいる、ということが少なくないのです。「そうしたい」というよりも、実態としてそうなっている、といったところでしょうか。

 ちなみに、私自身はかつて経済学部にいたことがあり、経済学は社会科学の代表的存在の一つです。しかし、理工系とつながろうとする経済学者はあまりいませんでした。とくに、理工系のイノベーションの研究を手がける経済学者はほとんどいなかった。企業の経営研究としてのイノベーションを研究対象とすることには積極的なんですが……。むしろ、理工系のイノベーションについては、私の業界である科学論の研究者たちが強く関わっています。そこにちょっとした溝があるんですね。それは彼ら彼女らのせいではなく、日本のイノベーションの構造的な事情や歴史的経緯によるものです。日本のイノベーションは省庁が中心になって牽引してきた歴史があるので、大学の経済学者が研究対象とする分野になりづらかったのです。

 T/
 分野によって事情もモチベーションも、かなりちがうのですね。

 隠岐/
 はい。現状をまとめると、理工系の人たちは人文社会系に目を向けているけれど、人文社会系の中には温度差がかなりあり、学際的な分野に関わっている人文社会系の人には、歴史家だったり文学者だったり、応用研究から遠い分野の人たちの方がむしろいるのではないかという印象になります。しかしそういう人たちは連携の際に声はかけやすいけれど、たとえば古文書修復だとかよほど具体的な目標がないと、あまりわかりやすい成果はでないのかもしれない。多くは面白い話を何度かして解散という流れになりがちです。文理で交わりがあったとしても、必ずしもうまくいっているとは限らない、ということですね。」

・文理融合がうまくいっているケースでは、密に話し合いをしている

*「T/
 たとえば生命科学であれば生命倫理の研究者が、データサイエンスであれば個人情報保護法などに詳しい法律家が関わっているように、社会の要請に迫られて文理融合ができている分野はあるにしても、それは一部ということですか。

 隠岐/
 そうです。もちろん、各分野にELSI(Ethical, Legal, and Social Issues)の研究者が関わる構図はできつつあるのですが、その関わりは業界ごとに温度差があります。われわれのようなSTS(科学技術社会論:Science, Technology and Society)の人たちは、理工系と関わること自体がメインでやる研究なので違和感なく取り組んでいますが、そうではない分野も多い。

 もちろん、うまくいっているケースもあります。たとえば、東京大学の熊谷晋一郎先生の当事者研究ラボの取り組みはシナジー度が非常に高いと思います。当事者研究というのは、身体障害や精神障害のある当事者の方の生の経験と、医学や心理学の専門知を組み合わせようという研究です。実際にこのラボでは、当事者が何を考えているのかということや、ターム(専門用語)の使い方をどのように擦り合わせるのかとか、当事者とどのようにコミュニケーションをしていったらいいのかとか、研究の過程で生じるさまざまな違和感や軋轢に対して、都度、話し合いながら進めているようです。私もその話し合いの場に呼んでいただいたことがあるのですが、非常に深いレベルで連携ができていると感じました。

 そういう意味では、私自身はこれまで、融合がうまくいったプロジェクトにあまり関わったことがないのです(笑)。歴史家としてのこだわりがでてしまったり、他の分野の人たちと噛み合わないと感じたりする事例をつくる側になってしまっていると思います。

 T/
 タームについて話が出ましたが、分野によって言語が違って通じない、と聞いたことがあります。たとえば、「モデル」とか「学習」といった、よく使われる言葉でも、理工系と人文系では、使い方や意味合いが異なるケースがありますよね。そこで、話が噛み合わなくなるわけですが、結局、何か違和感を感じたら、都度、話し合い、擦り合わせていくしかない、ということでしょうか。

 隠岐/
 そうなのですが、実際には難しいのです。力関係によって、一方の分野の人たちが話を聞いてもらえないという感覚に陥ることもあるし、揉めることもあります。先ほども言ったように、文理融合、文理連携の場合、多くは理工系から話が来て、人文系の研究者は少人数で入るケースが多いので、人文系の人たちは、「あまり話が通じないな」と諦めたままつきあって、プロジェクトが終わったらそのまま縁が切れてしまう、ということもよくあるわけですね。

 私自身、過去には脳神経倫理などの研究プロジェクトに携わったものの、ちゃんと深く関われなかった反省があります。昔の例ですけど、仲たがいしてしまって二度と一緒にやらない、と物別れに終わったケースもあると聞いています。逆に、人文系の研究者でも、文理融合のプロジェクトを経て脳科学の研究者になった方もいるので、ケースバイケースではあるのですが。

 T/
 仲たがいですか。

 隠岐/
 その研究に対して、誰が一番重要な貢献をしたか、つまり論文の筆頭著者を誰にするかで揉めたようです。実際に手を動かして実験した理系研究者か、その論文を書いた人文系の研究者か、それぞれ、自分のほうがより貢献度が高いと思っていたら、折り合いはつかないですからね。それで、面倒臭くなって、「もう二度とやらない」となってしまった。

 T/
 そもそも一口に研究と言っても、文系と理系ではその営みも評価の仕方もまったく異なりますよね? 国際学会で発表することが評価される分野もあれば、ジャーナルに投稿することでしか評価されない分野もある。人文系では書籍を出版することが重要なわけで、それぞれ感覚も違うのでしょうね。

 隠岐/テクストを書く人が偉いという文化と、テクストは助手の誰かが書くのでも構わない、手を動かしてデータを取った人の方が偉い、という文化の違いは大きいですね。最近は、そうした衝突が起こらないように、事前にそれぞれの役割を確認し、棲み分けている場合も多いと聞いています。

・「差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい」

*「隠岐/
 それから、連携がうまくいくかどうかは、「いまの課題を共有できているか」というのが大きいポイントだと思います。ある社会課題があって、測って、解析して、仕組みやガイドラインをつくりましょう、という問題であれば、比較的、うまく融合できる。相性が悪いのは、そもそもの問題設定自体に、片方の分野の人たちが違和感を覚えるケースです。

 賀内(以下、K)/
 そうしたことは大いにありそうですね。その場合、「その設定は違うんじゃないですか?」と問いかけるのは、やはり難しいのでしょうか?

 隠岐/
 そうですね。結局、話が噛み合わないまま、連携をお断りするケースがありうる。あくまでも仮定の話ですが、たとえば近年、教育に関するデータを活用する動きがありますよね? 子どもたちの学習データをもとに、個々人の理解度に合わせた教育をしていこう、つまり情報技術を用いて学びの個別最適化をしよう、とか。そうした取り組みに対して、教育学、あるいは哲学の先生方が、倫理的な問題点を感じて指摘することもあるかもしれない。たとえば、子どもたちの日常が常にデータ収集の場となるかもしれない。それはよいことなのか。たとえ研究倫理的な問題をクリアできたとしても、監視社会的なあり方を拡げることにつながるんじゃないか、など、その研究が向かっていく社会の方向にふと思いを馳せてしまい、そのプロジェクト自体を否定的に捉えたりするわけです。

 対して、情報系の先生方からするとそうした思考法に違和感があるかもしれません。もともと情報系の先生方は、情報技術が浸透した社会を肯定的に捉える傾向がある上に、問題があればその都度、優れた技術で解決できるという思考法をとりがちだからです。これは架空の例ですが、根本的な価値観の対立が露呈して両者の話が噛み合わなくなる、といったケースはありえます。

 両方の価値観がありうるわけで、私からすると、両者はそんなに仲良くならなくていいんじゃないか、という気すらしています。両方の意見があって、対立し合うくらいのほうが、むしろ社会全体にとっては好ましいのではないか。一方の行きすぎを他方が抑制し、その結果、いろんな価値観をカバーできるんじゃないかと思うのです。

 T/
 なるほど……。ただ、さまざまな意見があるのは当然としても、いまは、違う意見の人たちが分断したまま、コミュニケーション不全に陥っているように感じるのですが、その点については、何か解決策はあるのでしょうか?

 隠岐/
 学問の分野同士という話に限ってなら、私自身はわりと分断を好意的に捉えている部分もあります。やはり歴史を見ても、人間や社会を研究する人たちが、「自分たちは自然科学の方法論ではうまく研究できない」と意思表明し、社会科学を自然科学から分けたことにより新しい視野が開かれたと思いますし。

 意外と誤解されがちですが、私は文系と理系は実は違わないとか、融合してしまえばいいだとかは思っていないのです。むしろ、差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい。一方は愚直に個別具体的な人間の生とその価値を徹底的に掲げ、他方は大量の人間や自然の現象から得られた情報を数量データとして処理することで知られざる現象を発見する。それぞれの分野が正反対の方向から知見を提示して、競合しあいながら集合的知性により残るべきものが残るというのをよしとしています。

・「分断する権利をわれに与えよ」

 K/
 学問の分野同士という話に限ってなら、と前置きされましたが、その他の場面の分断についてはどうなのでしょうか?

 隠岐/
 「分断」が政治の領域の話となると、これより少し考えるべきことも出てくるかもしれません。それでも私には「分断する権利をわれに与えよ」という感情があります。なんであれ分断が可視化されているというのは、それが不可視な状態よりはだいぶ健全だと思うからです。もちろん、相手の存在を認知できなくなるレベルの分断ではなく、意識できている状態のことを念頭に置いています。その意味でいまは何かあると誰かが必ず文句を言っている様子が見える社会なので、実は自分としては少し安心しています。

 確かに、政治的な分断が起きて双方がまったく違う現実認識を持つに至っているという厳しさを目の当たりにすると私たちは怯み、驚きます。特に、一つの出来事に関してまったく違う解釈が併存する状況には唖然としますし、自分とまったく違う価値観を持つ集団が政治的な勝利をおさめる場合には身の危険を感じもします。

 ただ、それはもともとあったズレが表面化しただけのようにも思うのです。実際、歴史的な過去の出来事をみると、ひどい分断の事例はよく出てきます。たとえば18世紀フランスの政治論争文書はたがいに政敵を誹謗中傷し、根拠なく陰謀を疑う言葉に満ちています。そして大抵の場合、お互いが折り合うどころか互いの認識の差をまともに把握することすらなく、ただ時間が過ぎていった様子が伺えます。

 そのような過去の理解があるので、逆に現代は「わかりあえなさ」が比較的高い解像度ですぐに可視化されてすばらしいと思います。同時に、そこに試練とチャンスの両方があるとも感じます。試練というのは、やはり「わかりあえなさ」の露骨な可視化は私たちにとって大変なストレスだということです。一方でチャンスと思うのは、そのストレスフルな現実を体験することで、ひょっとすると過去の人よりも何かを知ることができるかもしれないと感じるからです。私たちがこの事態に慣れて、以前にはない対処方法を見つける可能性は充分に残されている。時間はかかるかもしれませんが。」

**(文系vs.理系の本当のはなし #2)

**Contents

 ・「行ったり来たりすればいい」
 ・なぜ、「二つの文化」に分かれたのか
 ・「レイト・スペシャリゼーション」という考え方

・「行ったり来たりすればいい」

*「T/
 前回、現代は「わかりあえなさ」が高い解像度で可視化されていて、そこには試練とチャンスの両方があるとおっしゃっていました。チャンスとして生かすための方法論はあるのでしょうか?

 隠岐/
 いまの職場(教育学部)に来てから学んだことですが、教育哲学の一部には異なる意見が対立しているような問題に対して、「行ったり来たりすればいい」との考え方があるようです。つまり政治的な対立構造はなくならないとの現実に立った上で、いわゆる「分断」を固定化させない方策を探るのです。

 教育哲学は個々人のあり方を細やかにとらえる分野です。教室の中にいろいろな子どもがいるといった状況をいつも前提におきます。なので、どっちつかずの宙吊りの状態がむしろ多数の人にとってのデフォルトであることを忘れません。確かに、そもそも一人の人間の中にも相反する見方を持つことはあるし、人はいいかげんで揺れ動いたりもする。アイデンテイティというものも固定化されるものではないのだから、行ったり来たりすればいい、と。

 もちろん、これは言うは易しいが行うのは難しいことです。緊張状態が高まるほど、たとえば戦時中などが極端な例ですが、人は一貫した態度、立場やアイデンティティを他者に求めるようになりますから。

 それを踏まえた上で、そのような緊張状態からなるべく距離を取ろう、ある個人が違う立場を行ったり来たりしても心身の危険を感じないでいられる社会をめざそうということなのかと思います。

 人間の生の現実に即して考えれば、確かにアイデンテイティというのはそれほど強固なものではないわけです。皆それぞれ、多様な状況を巧みに飼い慣らしているのが現実であり、関係性についても、体制側とそれに反乱する個人といった固定化はできないし、あまりするべきではない。行ったり来たりするということを前提に人間というものを捉えていくべきではないか、ということになります。もちろん、そのなかでコミュニケーションをしていくことはたやすくはありません。そのしんどさに立脚しながら、なんとか生き残るしたたかな個を育てることが大事な時代なんだと、そういう主張が教育哲学の中でなされているように思います。

 そのようなわけで、「分断」への一つの対処としても、脆弱な立場の人を考慮した上で、いろんな立場の人が行ったり来たりしながら、一緒にいられるような場をつくるのがいい、という提案をよく聞くように思います。

 たとえば、社会的に強い側にあるはずの白人の子どもが、脆弱な立場の人たちに対して、「あいつらは優遇されていて気に入らない」と怒りを抱く場合があります。それこそが分断の火種となるわけですね。そこで、そうした「特権を持つものの怒り」も研究対象にしながら、その感情をどう解きほぐしていくのか、といったことに取り組んでいる研究者もいるのです。そうすることで、うまくすれば強い立場の人が、脆弱な立場の人に歩み寄れるかもしれない。ただ、私自身は、そうした議論に対して、まだ十分に納得しきれていないというか、完全に同化しきれていない感覚も少しあります。

 T/
 分断したままでいいと?

 隠岐/やはりアクティビズムを支持してきた立場なので、そうした流れ自体に口を塞がれはしないか、薄められはしないかとつい考えてしまうんですね。もちろん、「いろんな立場の人が一緒にいられるような場をつくろう」という取り組み自体は、実際に分断が起きてきた多民族の社会で実践され、さまざまな苦闘を経て生み出されてきた貴重な知見なので、傾聴に値すべき、だと思っています。そのうえで、ある程度は分断する権利もあっていいじゃないか、と言いたくなる感覚が自分の中にあるということです。

 もちろん、そこで分断が行きすぎて、死傷者が出るような事態にならないようにするにはどうすればいいかも同時に考えて行く必要はあります。そのためには人間同士の中にある根源的な「わかりあえなさ」にもっと社会全体が慣れて、分断を抱えながらもそれを飼い慣らせるようになっていく必要がありそうです。

・なぜ、「二つの文化」に分かれたのか

*「T/
 今回のテーマである文理の問題を考えるうえで、大学の成り立ちの歴史から見ていくことも大事だと思うのですが、隠岐さんはご著書の『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018)のなかで、文系理系という区別がどのようにできあがってきたのか、欧米と東アジア、日本を比較しながら論じておられます。そのなかで、「文系と理系を分けるのは日本だけ」と考えるのは早計で、学問の分裂を「二つの文化」と捉える見方は、欧米にも存在してきたとおっしゃっています。ただ、日本の場合、1886年に帝国大学(現・東京大学)が総合大学として初めて工学部を設置したことは、一つの分岐点になったように思うのですが、その点はいかがでしょうか?

 隠岐/
 たしかにその点は、それまで工学を蔑視してきたヨーロッパとは大きく異なるところです。ただ、少し調べてみてわかってきたのは、むしろ日本の文理の問題の根は、一つには官僚制度にあるということ。日本では、明治の早い時期から、殖産興業や土木公共事業に関わる技官、行政において法務に携わる文官の役割分担がかなりはっきり分かれていました。その結果、早くから「二つの文化」的な摩擦が起こってきたのです。

 もう一つは、中等教育です。中等教育というのは、中学・高校の教育のこと。大学に進学する人ために、二つか三つくらいに教育課程をまとめて分けてしまおうという動きがあった。決定的になったのは、1910年代に、中等教育について定めた第二次・高等学校令において、「高等学校高等科ヲ分チテ文科及理科トス」という文言が入ったことです。なお、文科とは、法、経済、文学、理科とは理、工、医を指します。

 じつはその少し前、1890年頃には、中等教育において文理を分ける必要などないのではないか、という議論がなされていたんですね。同時期に、ドイツなどの教育制度を研究していた人物が、「ドイツには文科学校と理科学校がある」と報告していますので、そうしたことが議論の対象になったのでしょう。ただ、このとき「文科教育」という翻訳があてられたのはドイツ語でいえば「ギムナジウム」という古典教養を学ぶためのエリートのための高校であり、理科は「レアルシューレ」、実科学校といって、卒業後にすぐに実業界で働く人のための高校に相当しました。

 T/
 職業訓練校のような?

 隠岐/
 そうですね。同時に理科系の課目も多く教えられていました。つまり19世紀のヨーロッパにおいて工学系の実業教育は、大学に行かない人たちが多く学んでいたのです。だから、19世紀末まで、レアルシューレを修了しても、大学受験の資格はなかった。そこには、差別もあったし、地位向上のための苦闘の歴史もありました。

 一方、日本の場合は、そもそも工学を蔑視する見方はなかったし、エリート層においても古代ギリシア語やラテン語を習得する必要がないとして、最初は文理の区別はいらないと考えていたようです。その話が二転三転して、文科と理科くらいに分けておいたほうが、教えるほうも効率がいいだろうとなった。もっとも、あまり分けすぎると、共通の「教養」を持てなくなるとして、人格教育を行うための教養も重視されるようにもなりました。

 K/
 文理に分けたのは、教える側の都合もあったわけですね。

 隠岐/
 カリキュラム上の問題はそれなりにあったわけです。そもそも自然科学などは次々に新しい発見があるので学ぶ事柄がどんどん増えていってしまいますし、プラクティカルな理由があった。もっとも、理工系教育では、科学的思考を教えるのか、それとも科学のさまざまな応用について教えるのか、どちらを重視するのか、という論争もありました。

 たとえば、数学に集合論ってありますよね? それがどれくらい初等・中等教育に必要だと思うかどうかについては異なる意見が存在します。古典教養にしても、いる/いらないというのは、時代によって変化します。19世紀のヨーロッパでは、古典教養を知らないと実務に差し支えるくらい影響があったけれど、時代が下るとそれもだんだん薄れていく。昔のお医者さんは、ラテン語やドイツ語でカルテを書いていました。いまはその必要はないけれど、やはり人文教養というものは必要だろうという議論はずっと続いています。

・「レイト・スペシャリゼーション」という考え方

*「T/
 隠岐先生ご自身は、いまの教育制度について、どのように見ていらっしゃいますか?

 隠岐/
 現状、文理が分かれすぎている点については、これから変化が出てきてもおかしくないと思っています。日本語の「文」「理」という表現自体はもともと「letters」と「science」という19世紀に使われていた言葉の翻訳に端を発しているわけですが、文理の二分法が特に安定して根づいているのは日本を中心とする東アジアであり、他の国の中等教育ではより緩やかな分類になってきています。また、各国で入試改革への議論が盛んです。良くも悪くも選択制になってきていて、文理というよりも、将来進みたい道に合わせていくつかのモジュールを組み合わせていくというようなカリキュラムが実施されはじめています。ただし、その仕組みが複雑なので、子どもたちからは必ずしも好評ではありません。

 たとえばこれまで、フランスのバカロレア試験(中等教育修了認定資格と大学入学資格を兼ねる試験)は、文・理・社会経済の三つに分かれていましたが、今後は10くらいあるコースから選択するようになるようです。だから、そうしたカリキュラムで学ぶ子供たちは、文理を青と赤のように二つに分けたイメージで捉えることをせず、分野間を行ったり来たりするようになるんじゃないか、という期待はあります。

 K/
 「行ったり来たり」というのは一つの重要なキーワードですね。

 隠岐/
 ええ、まさにそういう感じになるんじゃないかと。おそらくこのことは日本も意識していて、変化の兆しはあります。私が大反対した国立大学法人法の一部改正の法律案においてすら、その付帯決議の中に、「高等学校段階において文系・理系の選択が迫られる状況を改善し、文理融合に向けた総合的な教育課程の編成の支援に努めること」という一文が加えられています。実際に、文理融合を謳う科などが増えているのは事実です。

 東京大学でも、2027年秋に5年間一貫の新しい教育課程「カレッジ・オブ・デザイン」が創設されます。まさに文理の壁を取り払って、学部を超えた新学部をつくるのだという。これに関しては賛否両論ありますし、私自身の意見はここでは保留しますが、この新課程の肝は、「レイト・スペシャリゼーション」、つまり遅めの専門化ということをめざすというものです。この取り組み自体は、中等教育と合わせて改革していければ、効果的なのではないでしょうか。

 T/
 もともと東大の場合、2年間の教養課程を経て、3年目で専門を決めていましたよね?

 隠岐/
 その仕組みは残っているのですが、そうはいっても受験のときにすでに文系・理系が分かれてしまっていますからね。駒場での教養課程も、ある意味、本郷までの準備期間と言われたりして、実際のところ、さまざまな分野の人が混じって交流するような教育にはなっていなかったのです。

 ただ、難しい面もある。たとえば、文理融合コースを終えて実社会に出た場合、どんな分野であっても、知りたい分野の専門論文を読むくらいのことはできるようになるかもしれないし、リーダーシップを備えた人材の育成には役立つかもしれない。たとえば、国連で難民支援に関わる仕事に就くといった場合であれば、非常に有用だろうと想像できます。ただ、大学全体がそうなるべきかどうか。もっと若いうちから専門に特化して深く研究した方がいい、という意見ももちろんある。つまり、皆が皆、レイト・スペシャリゼーションを選択すべきかどうか――。

 T/
 よく、必要なのはT型人材だ、などと言われたりしますよね。つまり、一つの専門性を深く身につけたうえで、他の分野もそれなりに広く理解している人材が求められている、と。じつはこの特集の最初の伊藤亜紗さん、アダム・タカハシさん、山本貴光さんの鼎談記事では、2〜3でいいから、複数のディシプリンに目を向けられるといいんじゃないか、という議論がありました。広く浅くで、上澄みだけを学んでも、実社会ではあまり活躍できないかもしれません。

 隠岐/
 上澄みだけ、ということにはならないとは思うんですけどね。というのも、いまはITが発達したおかげで、私でも違う分野の論文を読むことができるし、自力で複数のことを学ぶことができますから。昔のように紙の本しかない時代は、そもそも専門論文にたどり着けなかったけれど、いまは多様な知にアクセスしやすくなりました。

 一方で、教育のなかで文理融合教育をどんどん進めていけばいいかと言うと、全員が全員、そうならなくてもいい、と私は思っています。実際、四年制で文理融合教育を実施している大学の話などを聞くと、その学部を卒業した学生の場合、そのまま大学院に進学するのは難しいし、結局、別の道をめざすことになりがちです。もっとも、アメリカの教養カレッジなどの例を見ると、うまく大学院に接続しているケースもあるので一概には言えませんが。いずれにしても従来のような専門に特化した教育は残るのではないかと思っています。」

○隠岐さや香
おき・さやか
科学史家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。博士(学術)。現在、東京大学大学院教育学研究科教授。専攻は18世紀フランス科学史、科学技術論。著書に『科学アカデミーと「有用な科学」——フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会、2011、第33回サントリー学芸賞受賞)、『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社、2018)などがある。

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