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瀬戸賢一『時間の言語学 メタファーから読みとく』/藤井貞和『日本語と時間 〈時の文法〉をたどる』

☆mediopos3413  2024.3.22

私たちが使っている言葉は
時間(意識)と深く関係しているが
ふつう私たちはそのことをあまり意識しないまま
言葉によってつくられる世界を
「現実」として受け取っている

今回とりあげるのは

瀬戸賢一『時間の言語学/メタファーから読みとく』から

日本語における時間表現における過去と未来
時間のメタファー

藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』から

古代語においては六種〜八種あった助動詞(助動辞)が
現代語においては「た」としか表現されなくなっていること

である

まず過去と未来に関して

ふつうわたしたちは
時間は過去から未来へ流れている
と理解している

しかし
《動く時間》においては
過去は「以前」
未来は「以後」
と表現されるように
過去が「前」にあり
未来が「後」である

つまり
未来から過去に進む

それに対して
《動く自己》のほうは
過去を振り返るという表現があるように
前方が未来で後方は過去となる

私たちの認識は自己が中心であるため
《動く自己》としてのものだが
《動く時間》としてとらえると
時間認識は逆方向のベクトルをもつ

この《動く時間》と《動く自己》という
ふたつの時間認識をふまえておくことで
通常私たちが疑うこともない物理的な時間の流れや
さまざまな錯覚から自由になることができる

つづいて時間のメタファーに関して

現代人は〈時間はお金〉(時は金なり)という
時間のメタファーが
「無意識に深く食い込んで、私たちの認識
————思考回路————を牛耳」っている

ミヒャエル・エンデの『モモ』は
「時間どろぼう」の話で
「すべてをお金に換算する計量思考」に
警鐘を鳴らすものだが

その〈時間はお金〉というメタファーを
〈時間は命〉というそれに交換することが示唆され

さらには〈時間は円環する命〉である
という円環するメタファーを定着させることが
必要ではないかと提案されている

たかが言葉されど言葉である

私たちを無意識に操っている言葉を自覚し
新たなメタファー思考に転換することで
私たちの世界観そのものも変えることができる

つづいて日本語における「時間表現」について

「かつての日本語には、
時間をあらわす「助動詞」(助動辞)」として
「き」「けり」「ぬ」「つ」「たり」「り」の六種
さらには「けむ」「あり」を加えた八種あった

それが現代語では過去を表す「た」だけになっている

これは明治時代以降の「言文一致」への要請でもあり
かつての豊かな時間表現ができなくなっている

それを「便利」だと考えることもできなくはないが
『源氏物語』はいまという時間で刻々と事件が進行する
非過去で語られているにもかかわらず
現代語訳ではすべて「た」という
過去を表す言葉しか使えなくなっているのは
私たちの時間意識そのものを歪め平板化させているともいえる

ちなみに時間意識と関係している言葉でいえば
「もの」と「こと」がある

「古代日本語によれば、
〈動かない〉のが「もの」で、
「こと」は〈動く〉という、
はっきりした区別」(対比)が存在していた

つまり「こと」は本来、「もの」と正反対に、
在り方や、性質や、行為や、状態を」
ひろく表現していたのである

この「もの」と「こと」という言葉を
そのように意識しておくだけで
私たちの時間意識による「現実」の捉え方も
ずいぶん明瞭になってくるのではないか

時間について考えるというとき
物理学的な認識だけではなく
私たちの意識を深層で規定している
時間に関係する言葉を意識するだけで
世界を別の様相でとらえることもできる

繰り返すが
たかが言葉されど言葉である

■瀬戸賢一『時間の言語学/メタファーから読みとく』(ちくま新書 2017/3)
■藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』(岩波新書 2010/12)

**(瀬戸賢一『時間の言語学/メタファーから読みとく』〜「はじめに」より)

*「時間とは何か。」

「百人に尋ねれば、ほとんどが時間の進行方向は過去から未来だと答える。しかし本当だろうか。言語的証拠をもってすれば、時間そのものは、未来から過去に進むとしか言いようがない。日本語も英語も、たいていの言語はそうだ、「もうすぐ夏休みがやって来る」と言う。「夏休み」は未来から現在にやって来て、やがて過去に去って行く。

 (・・・)

 自身はというと過去から現在を経て未来へと向かう。そう、私たちは時間軸上で未来を前方に見据えて、過去から未来へと進む。過去はときどき「振り返る」だけである。時間そのものの動き(未来から過去へ)と私たちの動き(過去から未来へ)の間に矛盾はない。」

*「時間に関しては、もうひとつの概念が私たちの頭に巣くっている————〈時間はお金〉(時は金なり)。これは真実でも何でもない。(・・・)これはとりわけ近代の比喩である。もっと言えば、比喩の中のメタファー(隠喩)。しかし単なる言い回し、ことばの飾りではない。無意識に深く食い込んで、私たちの認識————思考回路————を牛耳る。いきなり何のことだと戸惑われるかもしれないが、「時間を(お金のように)使う」「時間を(お金のように)浪費する」「時間を(お金のように)大切にする」のような日常のさりげない表現を手掛かりにすると、〈時間はお金〉のメタファーに現代社会がいかにコントロールされているかがよくわかる。

 このメタファーの実態を暴くのは、おそらく言語学にしかできない。当たり前だと思われる時間給でさえ、その背後には〈時間はお金〉=お金のメタファー思考が潜む。」

**(瀬戸賢一『時間の言語学/メタファーから読みとく』 〜「第一章 時間をことばで表すと」より)

*「主張一 時間は絶えず過ぎ去っていく。
  主張二 時間は二度と元に戻せない。

(・・・)

 主張一と主張二を矛盾することなく理解するには、時間は未来から現在を経て過去に不可逆的に進むという図になりはしないか。すでに過去へと遠ざかった時間(およびその中の出来事)は二度ともとに戻せない。これを未来の方向へ過ぎ去った時間は取り戻せないと考えるのは、認識上ほとんど不可能であろう。」

*「《動く時間》は未来から過去に向かうのだから、向かう方向が前方となる。つまり過去は前で未来は後だ。これはことばによって支えられた私たちの認識と合致するだろうか、過去は以前で未来は今後と言う。現在から十年の隔てがある過去は十年前でその逆は十年後。《動く時間》の前後は確かに表現と辻褄が合う。

 では《動く自己》の前後はどうだろうか。人は未来に向かって進むので当然見たいが前方で過去が後方となるはずだ。(・・・)振り返るのだから過去は後になる。逆に人はこれから歩む前方は前途と言い表す。やはり《動く自己》の未来は前と表現=認識される。前向きに検討するのもこの見方の線上だろう。

 ひとつ大きな疑問がある。《動く時間》に関して『広辞苑』をはじめ国語辞典はなぜ過去から未来へ時間が流れると判断したのか。またなぜいまなお多くの人が漠然とそう思うのか。(・・・)

 主な理由は二つ考えられる。物理と錯覚である。」

**(瀬戸賢一『時間の言語学/メタファーから読みとく』 〜「第五章 新たな時間概念を求めて」より)

*「〈時間はお金〉のメタファーが増強されて人間性が奪われる世界はすぐそこに迫っている。私たちは(・・・)このメタファーと対峙しなければならない。
(・・・)
 モモの世界の中では、灰色の男たちは人間が生み出したとされる。人間がその隙を与えたのである。では、すべてをお金に換算する計量思考を脱するにはどうすればよいのか。そこで原点に立ち返って、〈時間はお金〉の親メタファー=私たちの基本認識を変革する道筋を示そう。

  〈時間はお金〉の起点領域〈お金〉を取り換える。

 時間のメタファーの根本的転換を意味する。〈モモ〉の中にも具体的提言がある。〈時間はお金〉に対する〈時間は命〉。お金を命と交換する。

(・・・)

 ただし実践的には、〈時間は命〉の新しいメタファーが定着するまでには多くの曲節が予想される。それほどまでに〈時間はお金〉が社会に広く深く浸透しているからである。現在では、命さえ売買の対象とされる。お金が商品となるだけではなく、命さえ商品化されるのである。たとえば臓器売買を考えよ。そこまであからさまでなくとも、先端技術による最新医療のことも考えよ。

*「〈時間は命〉は時間概念のすべてではない。ネットワークの一部である。〈時間はお金〉に代わるものとして提案された。この点を一生・生活・命の意味構造から振り返ろう。(・・・)

 命(中心義)を基礎として、その上に生活と一生が積みあげられた意味的な三層構造である。」

「命と自然との対応を概略的に述べよう。これまで重点的に取り上げなかったが、時間の意味ネットワークの一部に〈時間は命〉が組み込まれるなら。時間の中心気〈流れ〉の影響を受けるだろう。命は大切なものでありながら、淀みにたゆたい、あるいは移ろいゆく。その形態が直線ではなく環であるという見方は古くからある。自然が循環するように時間は環を描く。その環が大きな円であるなら、直線と曲線の地上での対立はほの解消されてしまう。《動く時間》と《動く自己》もまっすぐな弧を進む。」

*「  時間は円環する命

を最後に提案する。円環するのは時間であり命である。これが大きな円を描いて社会全体を包み込む時代が見えてくることを願いたい。メタファーそのものに命が宿る。」

**(藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』〜「始めに」より)

*「かつての日本語には、時間をあらわす「助動詞」(私は助動辞と呼びたい)が六種、ないしは八種あった。古代人は時間を類別して、六通り、ないし八通りに、せっせと使い分ける言語生活を送っていた。

 現代人はしかしながら、六通り、ないし八通りに使い分ける、かれらの時間の仕分け方を、よくわからなくなっている。現代語の「する」でいえば、「〜した」「〜したろう」の二種、「〜する」をかぞえれば三種ぐらいしか分けられなくなってしまった。

(・・・)

  き————過去の一点を示す(語り手からであろうとなかろうと)
  けり————時間の経過(過去から現在へ、過去からつづいていまにある時間)
  ぬ————さし迫る、既定となりつつある時間、〜てゆく、〜てしまう
  つ————ついいましがた、さっき、〜てゆく、〜てしまう
  たり————〜てある。〜てしまいいまにある
  り————〜(し)おり、〜(し)ある
 の六種がある。ついで、
  けむ————かろう(過去推量)
 をいれて七種。それに、このたびは、
  あり————「けり」「たり」「り」「ざり」「なり(に・あり)」「たり(と・あり)」などの構成を〈時の助動辞〉と認定する、合計八種————〝あり〟と〝り〟をほぼ同一視してよければ七種————のそれらを使い分けるとは、何と豊かで面倒な、かれらの言語生活であることか。」

*「古文の七〜八種の時間の差異を知ってのち、近代文学や現代詩歌に接すると、われわれの近代や現代での文体を創る苦心とは、それら喪われた複数の時間を復元する努力だと知られる。(・・・)
 世界には古代から現代まで、〈時〉を多様に擁してきた言語がいくらもある。現代日本語が〈貧しく〉〈あるいは簡便に〉なってきたのに過ぎない。そのために古文の学習に支障をきたしているというばかりのことだ。」

**(藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』〜「序章」より)

*「古代日本語によれば、〈動かない〉のが「もの」で、「こと」は〈動く〉という、はっきりした区別が鋭く存在していた。区別というより、対比というほうが相応しいかもしれない。

 「もの」は、〈動かない〉を基本とする。たとえばかな文字を話題にするときに、「かなというものは〜」と言うと、目の前のかな文字ではなく、あたまのなかで描く概念であり、抽象的な〈かな〉だ。描かれた概念はじっと動かない。その場合、「〜というもの」という言い方になる。」

*「「こと」は本来、「もの」と正反対に、在り方や、性質や、行為や、状態をひろく称する。つまり「こと」には動きがある。」

*「序章では、〈時間〉というとすぐに〝動き〟を想像してしまう私たちの感覚を、いったん保留状態に置いてみようとした。時間軸のうえに動態や関係はある。〝静止〟もまた時間軸のうえでの動態だろう。関係性の最たる言語の場合、時間なしに生きられない。言語は時間軸上にどう生きているのか、どういう表現(文法)を持つのか、以下の各章において考察をつづける。素材として取りあげるのは、「始めに」で予告したように、六〜八種の時の表現(助動辞)を使い分ける古代日本語をおもとする。」

**(藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』〜「7章 言文一致への過程」より)

*「古代物語の基調は非過去で語られる。いまという時間で刻々と事件が進行する。」

「日本古代の物語の基調はけっして過去の時制で書かれていない」、つまり「非過去の文体からなる」と言うと、ただちに反応があちこちからある。非過去のそういう文体を「歴史的現在の文学」というのだとする意見が、すぐに跳ね返ってくる。
(・・・)
 そうでなく私は、「歴史的現在」という考え方————ドラマティック・プレゼント〈劇的現在〉とも言われる————を、全体が過去文や現在完了文のなかに浮き出てくる、修辞上の〝現在〟に限定して使用することにしようと思っている。」

*「「き」はごく一部の方言に今日、生きているのを除いて、消滅し尽くしており、現代人の感覚に復元させることができない。助動辞の生命は一般に、助辞が数千年以上を生きつづけるのに対し、五百年〜千五百年をへて終わりを迎えると見当づけられる。」

*「「た」は今日、古代語「き」が消滅したからには、過去を担わざるを得ない助動辞として過重労働をしいられている。
(・・・)
 「たり」がタル、タッをへて、タ(=「た」)になる。近代文学ではそのようにして「た」が優勢になる。現代の、書店にあふれる文庫本の小説という小説が、〜た、〜た、〜た・・・・・・という文末でいっぱいだ。現代に至るまでの、小説世界ばかりか、詩の書き方もまた口語詩の成立によって、「た」という言文一致の文体が採用されてくる。

 そのことは何を意味するか。端的に言って、その意味は、〝過去時制の優勢化〟にほかなるまい。なかなかそこまで言う人がなくて、た、た、た・・・・・・という言文一致の成立までは言えても、その意義は、ということがはっきりしない。私見では過去時制を持つ文体がついにそこに制覇をなし遂げた近代ということではないかと考える。

*「文中の「〜た」(連体形)は過去というより、存続あるいは完了といわれる場合が非常に多くて、おなじ「た」が文中と文末で位相を異にするとはおもしろい現象だ。文中の「た」は「たり」の要素をのこして踏みとどまり、文末のそれは過去時制へと転出届けを出したという見通しである、」

**(藤井貞和『日本語と時間/〈時の文法〉をたどる』〜「あとがき」より)

*「明治時代の改良論者のなかには、文語の〈き、けり、ぬ、つ、たり、り〉が「た」一つになり、こんなに便利な時代はないと礼賛する人もいた。ほんとうに便利になったのだろうか。便利になるとはどういうことだろうか。

 言文一致の時代がやって来て、『源氏物語』などの古典の現代語訳では、もっともっと恐いことが起きた。「き」が「た」になり、「けり」が「た」になり、「ぬ」が「た」になり、「つ」が「た」になり、「たり」が「た」いなり、「り」が「た」になり、それだけではない、「き」でもなく「けり」でもなく「ぬ」でもなく「つ」でもなく「たり」でもなく「り」でもない、非過去で投げ出されている裸の文末までもが「た」になった。

 私一箇の試みとしては、現代語を破壊してでも成りたたせる、過不足ない〝研究語訳〟(研究のための口語)を夢見ている。〈き、けり、ぬ、つ、たり、り〉そして「けむ」、その他の助動辞、助辞のすべてを訳し分ける試みだ。」

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