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郡司ペギオ幸夫『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』

☆mediopos2937  2022.12.2

わたしはどこにいるのだろう

わたしのいる世界に
その「外」はないのだろうか
そんなことをおりにふれてよく考える
考えるというよりも
感じるといったほうがいいかもしれない

わたしが仮想世界に住んでいるとする
その世界はその世界で完結していて
そこから「外」に出ることはできないのだが

たとえばその仮想世界がゲームの世界だとすると
その世界の外にはプレイヤーがいる
仮想世界のなかのわたしはアバターで
アバターには「外」の世界は存在しない

けれど実のところ
アバターのプレイヤーは「外」にいる
ということは
アバターは常に「外」との
アバターには見えない関係性のなかを生きているのだ
けれどアバターはアバターの世界を生きている

そのように
論理は論理内において完結し
体系は体系内において完結し
AIはAI内において完結し
世界は世界内において完結しているが

それらには見えない「外」が存在し
それぞれの「内」にとっては
まったく未知の「外」が存在し
常にそれぞれの「内」は
知らず「外」を召喚しながら成立している
つまり「内」は「外」なくしては成立しない

それぞれの世界にはアバターがいて
その外には「わたし」がいるのだが
アバターと化している「わたし」にとって
その「外」の「わたし」は未知であり
計算することも制御することもできないのだ

「外」にいる「わたし」は
つねに「内」においては
まるで四次元世界から現れるように
思いがけないかたちで働きかける

脳科学・認知科学・人工知能といった世界も
いわばアバターの世界にほかならない
にもかかわらずそれぞれの「内」で
完結しているかのようなアプローチがなされている

とくに「創造」という観点からすれば
閉じた世界はすでに決められていて
「計算可能であり、制御可能」で
「遭遇したことのない、予想できない、
未知なるものに」開かれてはいない

しかしほんらい「内」は
「創造」へと開かれるとき
「外」を召喚している
そのとき「わたし」の意識も
「外」を垣間見ることができるのではないか

・・・と
郡司ペギオ幸夫の著書を読みながら
こんなことをつらつらと考え感じている

■郡司ペギオ幸夫
 『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』
 (青土社 2022/11)

(「第10章 量子論の心理学的起源」より)

「知覚されたものの周囲に、無際限で制御不能な環境が見出されない限り、仮想世界は内的に閉じ、その外部が垣間見られることはない。外部を問題にしないなら、それは計算可能であり、制御可能となる。その計算可能な中で何かを定義するだけなら、すべては定義されるだけの話になる。計算可能なシステムにおいて、部分と全体の関係を複雑さにおいて定義し、ある複雑性を持ったものを「意識」と定義する。可能世界内に、事物や「わたし」、わたしと事物を関係づける関係スキーマを定義し、全ての内的計算過程を外部へ出力する出力装置として装備する。こうすると、関係スキーマの出力によって、「リンゴを意識している」が出力可能となり、自意識が表現できる。しかしこれらは、全て仮想世界内での定義にすぎない。
 外部との相互作用を直接問題にするのではなく、外部を召喚する構造についてのみ問題にする。それが、天然知能を掲げて意識や、創造性について解読する本書のアプローチであった。このわたし、創造における当事者性は全て手から漏れていく。そうではなく、外部を召喚する装置を、自らに於いて開設し、「わたし」の体験、創造体験の当事者になる。それが、本書の方法論なのである。量子理論は、制御不可能なところに成立する主観性や「わたし」と、制御可能なところに成立する客観的理解の間に成立する、臨界的な理解と考えられる。」

(「おわりに」より)

「現在、脳科学、認知科学、人工知能は、意識が計算可能であることを前提に進んでいる。つまり、何らかの意思決定とは、計算が完了することによって実現すると想定され、計算は、脳という神経細胞のネットワークで実現されていると考えられる。それは、逆に、脳が、我々が想定する計算素子のネットワークであると考えることに他ならない。その上で、ネットワークの複雑さによって、それが意識であるか否かを決定できるだろうとの目論見がある。ネットワークが部分に分割できないタイプの複雑さを有するとき、そこに意識を見出そうとする理論も提案されている。その意識を計測する指標は、統合情報量と呼ばれている。
 つまり意識とは、局所的に計算される部分をつなぐ計算、関係性それ自体であるという議論が、この底流にある。この「意識」とは関係性それ自体であるという議論は、意識を語る現代科学のほぼ全てにわたっているのではなかろうか。(…)計算が完了することを前提にし、無際限さを考慮しない限りで、これらの議論は、脳が創り出す仮想世界で閉じており、その外部を問題としていない。その限りで、創造を論じることはない。
 意識に関する様々な他の理論はどうだろう。それらは、ほぼ同じ描像へ向かっている。それは次のような描像だ。我々の意識というものは、自らの経験によって世界の認識様式を限定し、見たいものだけを見ている。つまり、日常的に経験し、日常的に反復される世界の認識の仕方が全てで、他は無視してしまう。そのぐらい頑迷で、変化に弱いものが我々の意識だ。しかし、その頑迷さ故に、何かを見て、聞いて、判断する場合、それが何であるか日常的なものだけを参照し、見慣れたものと予想するため、その判断は極めて速い。つまり経験に固執することで、計算の速い計算機として意識が実現される、というわけだ。
(…)
 以上のような議論それ自体は、人間の創造性を否定するものではない。経験への固執は、経験を知覚、認知する方法へと固執であり、知覚された対象それ自体への固執ではないからだ。しかし、創造性とは何かにコミットするような議論ではなく、むしろ繰り返される日常を正当化する議論が、理論の中心だ。例えていうなら、絵筆と絵の具によって描いてきた絵とはどのようなものか、の議論に終始し、この道具さえあれば原理的になんでも表現できる、と言っているようなものだ。何か描こうという創造へのキッカケは、ここにはない。原理的にできるという創造への関与は、やはり極めて消極的で、議論の中心は、世界を限定することに他ならない。
 それだけを考えれば、「ほとんどの」人の、「ほとんどの」時間を占める日常の知覚、認知、意思決定を理解できるというわけだ。したがって、そこでは、「ほとんどの」場所から逸脱する者、状況、試みは、理論の埒外に置かれることになる。しかし、藝術家は、まさにそのような意味での反復、日常を打ち壊し、日常を作り出す以前の、赤ん坊の感性を取り戻そうとする者である。翻って、それは芸術家に特化した問題だろうか。そんなことはない。平凡な我々であっても、日々、ふとしたはずみで、新しい味、新しい匂い、新しい音、新しい感興に触れ、ハッとすることを経験しているはずだ。似たようなものを食べ、経験した味と予想するだけなら、ハッとすることなど絶対にない。それは運良く偶然、遭遇した経験ではなく、むしろ我々の知覚、認知、感性が、そのような外部に積極的に開かれているからではないのか。だとすると、むしろ日常を、経験に依拠した閉じたネットワークと理解する、脳科学、認知科学、人工知能の理論の方にこそ、ある種の誤謬があるのではないか。すなわち、それらは、創造が、常に我々の知覚、認知、意思決定に関与していることを忘れているのではないか。
 いや、「ほとんどの」だけではない。意識の理論は、意識を、脳が作り出す仮想世界として理論化する。仮想世界は全てが相関項であり、その内部で構成される自己イメージもその中の一つの対象である。しかし、仮想世界を創り出す本当の意味での「わたし」、わたしの意識は、いわば関係の総体となる。この意味で、それは実体がなく、原理的に物象化不可能である。意識の問題が「ハードプロブレム」とされるのは、不可能問題を創り出しているからだ、という結論が不可避となる。これらは、意識に計算の無際限さがなく、閉じていると仮定することから帰結される、閉じた仮想世界であるから、「ハードプロブレム」は解けない問題を作り出したといえ、マインドアップロードも可能となる(量子論的認知科学は、この無際限さを、論理のぎりぎりの地点で構想するものといえる)。
 外部なんてない。それもいいだろう。外部があると思うから、不可能問題に振り回される。意識の理論家の多くは、そういう立場にある。計算の無際限さ、外部から来るものは切り捨てられる、とすると、様々なものを人工知能で代替できる。ただしストッパーとして、人間が関与し、それによって、切り捨てられた無際限さは補完される。飛行機の自動操縦のように、ストッパーがパイロット一人の場合はこれで大丈夫だろう。政治はどうだ。ストッパーは一人だろうか。無際限さの問題は、簡単には片付かないだろう。いずれにせよ、無際限さは厄介なもので、できる限り切り捨てられるはずだ、ということになるが、「わたし」とは、無際限さを実践することで固有なのである。私は、人工知能を友人にできるだろうが、私自身が人工知能によって代替されると言うなら、断固としてこれを拒否するだろう。」

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