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石井ゆかり「星占い的思考㊻新しい矢の可能性」(群像)

☆mediopos3309  2023.12.9

石井ゆかり「星占い的思考㊻新しい矢の可能性」
(群像 2024年1月号)から遊びと自由について

「遊びをせんとや生まれけむ」

「遊ぶという営為は、
志向的な意志や目的意識とは別のところにある。
遊んでいるとき、人間は何の目的も持たず、
自分と遊びとを分かたず、
遊び自体の中に身をどっぷり委ねる」

そうであるがゆえに
そのとき我は「遊び」状態において
自由を感じられもするのだが

遊びも自由も
そこには両義的な側面があり
矛盾する両側面に向かい合わなければならない

自由であろうとして遊び
そのことで「対自」意識を失い
「即自」状態にあるとき
そこでは逆説的に
「自由」が失われているともいえるからである

「矢は射られて飛んでいく。
その間、自分の進路を変えることはできない。
飛ぶ矢は「即自」状態にしかならない。
自分に自己批判を加えて軌道修正することはできない」が

「立ち止まって、考え直す」
ということからしか生まれない「自由」がある
その「自由」には「対自」意識が不可欠なのである

その自由は「新しい矢を射る」ことを可能にする

矢は射られなければ
どこにも飛んでいくことができないが
軌道修正できない矢は
そのことでみずからの「自由」を失うことにもなる

遊びと自由は
そこで矛盾を生きることを余儀なくされるが
そこを超えてゆくことでこそ
新たな遊びと自由へと
ひらいてゆくことにもなり得る

そのとき不可欠なのは
「自分が正しいと思いたい」という
その「正しさ」から自由になることだ
そこには自我がみずからを超えるための重要な境域がある

■石井ゆかり「星占い的思考㊻新しい矢の可能性」
 (群像 2024年1月号)
■西村清和『遊びの現象学』(勁草書房 1989/5)
■オットー (久松英二訳)『聖なるもの』(岩波文庫 2010/2)

(石井ゆかり「星占い的思考㊻新しい矢の可能性」より)

「〝遊びの秩序関係こそが遊びの存在規定であり、ひとは、この遊び関係に完全にまきこまれ同化されることではじめて、遊び手となる。これによって遊び手は、「現存在に本来のきつさをなしている、イニシャティブをとるという課題」から解放されるのである。(西村清和『遊びの現象学』(勁草書房)」

「遊ぶという営為は、志向的な意志や目的意識とは別のところにある。遊んでいるとき、人間は何の目的も持たず、自分と遊びとを分かたず、遊び自体の中に身をどっぷり委ねるのである。〝しいてかくれんぼの行動を遂行しながらも、そしてたしかにわたしはそのとき自分をそのような企てと遂行の主体として意識するにもせよ、依然として自分を遊び手とは意識していない、わたしが自分を遊び手として意識するとは、自分を遊び手として肯定し、志向することではなく、すでに自分が遊びのただなかに立ち、遊び「に・ある」という存在の事実を意識することである。〟その証拠に、「かくれんぼで遊ぶ」とは言わない。「かくれんぼをして遊ぶ」とは言う。「お手玉を遊ぶ」とは言わず「お手玉をして遊ぶ」と言う。「遊ぶ」は。その遊びのしくみのなかに招き入れられ、同化したところに現出する「状態」なのだ。心が遊びの中に入って溶け合ってしまわなければ、遊びは面白くもなんともないし、すぐに離脱したくなるだろう。自分をもう一人の自分として批判的に見つめる「対自」の姿勢はそこにはない。もとい、自分が「これは遊びであり、本気ではない」という中空の「対自」意識の土台に支えられながら、遊ぶ自分はただ生きているままの「即自」状態なのである。」

「2023年12月、太陽と火星が射手座に同座する。水星がここを、出たり入ったりする。射手座のシンボルは矢の形をしている。矢は射られて飛んでいく。その間、自分の進路を変えることはできない。飛ぶ矢は「即自」状態にしかならない。自分に自己批判を加えて軌道修正することはできない。射手座は古くからの旅の星座であり、宗教の星座でもある。思想や哲学なども射手座の管轄とされる。現代的にはグローバリズム、国際政治なども射手座のテーマに入る。人間には知性と理性、思考の力があり、自制心があり、道徳心、倫理感が備わっている、と考えられている。これらの人間観は、ある言い射手座的と言える。しかし私がこれを書いている今(2023年11月上旬)、人類はそれほど立派なものとはとても思えないような行動を続けている。まるで過去、最初に加えられた力には決して抗えない矢のように、一つの方向に突き進み続けているように見える。それは「対自」の力を失い、人間としての理性を行使する自由を失った状態である。これは遊びではない。遊びほどに偉くない。遊びのほうが偉いのは、「これは遊びだ」という対自的意識に支えられているからである。オットー『聖なるもの』に引かれている、神秘主義思想家ルーミーの著作「メスネヴィ」からの一節が目に止まった。〝《多くの人は、危難を避けつつ危難に陥る、/蝮蛇から逃走しつつ、竜に行き当たる。/人は網を張り、網は彼の身を取り巻く。/彼の生命と見たものが、彼の心臓の血を飲む。/敵がすでに室内に入っている時、彼は戸を鎖す。/この故に、不幸を避けるためにファラオが、/無数の嬰児の無垢の血を流していた時も、/彼の探ねた嬰児は母の膝の上にいたのだ》〟(オットー著 山谷省吾訳『聖なるもの』岩波文庫)この詩は、今の私の目に恐ろしく、予言的に映る。神秘主義は人間の自由意志の限界を高らかに謳う。」

「それでもこの時期、水星は山羊座と射手座のあいだを逆行する。水星は思考とコミュニケーションの星で、年に3度ほど逆行する。この間は「立ち止まって、考え直す」ことができる時間と言える。やり直し、見直し、おそらく「撤回」もできるはずだ。思うに、考えるということは、とても恥ずかしい思いをすることなのである。深く考え込んだとき、私たちは必ず、過去から現在の自分の浅はかさ、誤解、短絡、勘違い、偏見、無知などに出会わざるをえないからだ。考えることは自傷的だ。だれもが自分が正しいと思いたい。でも、考えてみれば、全然そうではない。人間が考える葦なのであれば、私たちは傷つきながら考え直し、そうして、新しい矢を射る可能性を探ることができるはずだ。「対自」によって生まれる自由は、そこにあるのだろう。」

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