最相葉月『証し/日本のキリスト者』
☆mediopos2989 2023.1.23
ぼくは日本人の多くに見られるような
特定の信仰をもたない人間のひとりである
勿論キリスト教についても信仰してはいない
そしてまた多くの日本人のように
葬式をふくめた習俗・習慣のなかで
仏教や神道からの影響をそれなりに受けているが
それに対してクリスマス以外では
キリスト教に関する諸々を習慣として受容することは少ない
けれども特定の信仰については無信仰であるにもかかわらず
仏教や神道そしてキリスト教・イスラム教にも
ずいぶんと関心をもち続けている
そして特定の宗教の信仰はないけれど
霊的諸存在については疑いなく存在し
物質を含むすべてを霊的な顕現として理解している
またここ数十年にわたってとくに
キリスト教に関する著作などにもずいぶん近しくなり
そのなかでキリスト教に関しては
シュタイナーの神秘学で示唆されているキリスト・イエスを
神秘学的事実として理解しその内容を基本的に受容している
またキリスト教の成立から現在にいたるまでの
そのありようについても関心は深まるばかりである
そんななかで
最相葉月による日本全国のキリスト者への
インタビュー集が刊行されている
そこには構想10年取材6年135人へのインタビューが
1000ページを超えたボリュームで収められている
タイトルは「証し」
「証し」について本書では
「キリスト者が神からいただいた恵みを
言葉や行動を通して人に伝えること。
証、証言ともいう。」と記されている
まったく個人的な理解にすぎないが
キリスト教的な「信仰」の多くは
人格的な「神」からの承認を得て
拠り所や救いをもとうとすることだと思っている
人格神であるがゆえにそれが拠り所となる
それに対して日本的な信仰の底には
西行の歌のように
「なにごとの おはしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる」
という感覚が強くあるようだ
(とはいえ日本のキリスト者も
多かれ少なかれその感覚をあわせもっていて
おそらくそこが西欧のキリスト者とは異なっている)
さて世の中の宗教とひとの関わり方を
「救い」という点でみていくと面白そうだ
日本では先日ご紹介した沼田和也の
『街の牧師 祈りといのち』で紹介されているように
キリスト教会へ救いを求めるイメージは強いが
たとえば神社に出かけて
神主に救いを求める人はあまりいそうにない
神社はどちらかといえば救いではなく願掛けである
お寺は葬式やある種の祈りを捧げ
瞑想したり覚りを求めたりするようなイメージはあるが
そこにもおそらく救いを求めに行ったりすることはまれで
なにかを相談に行くとしても檀家のひとが中心だろう
キリスト教は「個」をつくった側面が強くあるが
「個」ゆえに
別の言葉でいえば「愛」ゆえに
「救い」をもとめる自我の宗教ともいえるように感じられる
そしてそれゆえにこそ
その神への信仰を失えば
まったくの虚無的になりかねないのかもしれない
西行の歌のようにはいかない
■最相葉月『証し/日本のキリスト者』(角川書店 2023/1)
「なぜ、あなたは神を信じるのか————。
本書は、日本に暮らすキリスト教の信者にそのような問いを重ねながら、神と共に生きる彼らの半生について聞き書きしたものである。」
「令和三年版の『宗教年鑑』(文化庁)によれば、日本のキリスト者は、一九一万五二九四人(二〇二〇年十二月三十一日現在)。(・・・)人口の約一・五パーセント。多少の増減はあるものの、近年は減少傾向にあり、マイノリティといってよい存在である。
その一方で、日本には国内外の修道会や宣教団体、個人によって設立されたミッションスクールや医療・福祉施設が多く、洗礼は受けていないもののキリスト教の教えや文化にふれてきた人は数えきれないほど多い。信者でなくとも、結婚式をあげるためだけに教会に通い、聖書講座を受けた人もいるだろう。
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスや、復活を祝うイースターといった、本来はキリスト教の祝日も、レジャーやイベントなどの消費文化として社会に根付いている。
(・・・)
だが、キリスト教に親しむことと、キリスト教を信じることのあいだには大きな隔たりがある。人口比でわずか一パーセント強のキリスト者がどのような人たちなのか。彼らの声に耳を傾けたいと思い、筆者が旅に出たのは二〇一六年の始めだった。
取材は福岡県北九州市のプロテスタント教会を出発点として九州を南下する度から始まり、離島を含め、北海道から沖縄まで、教派を超えて全国の教会を訪ね歩き、承諾を得られた教会の聖職者と一般信徒から話を聞いた。」
「インタビューにあたって、キリスト者にたびたび回答を求めた質問があった。その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してもなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないか。それでもなお信じるのはなぜかということ。」
「キリスト教では、すべての人間は罪深い存在であり、自らの罪を認め、悔い改めることによって神に赦され、神の国に入れると説く。回心、あるいは神との和解と呼ばれる。
神が創造した最初の人間であるアダムとイヴが楽園で犯した罪責が、すべての人に及ぶという意味での「原罪」については、教派によってとらえ方が違う。
カトリックでは強調されるが、正教では原罪という言葉は使わない。人間は「神の似姿」として創造されたが、自由意志によって罪を犯し、その罪責として死を受け入れることになった。正教ではそう考える。
キリスト教はそもそも性善説であり、「自分のなかに備わっている神の像を手本として、神に相応しい自己を取り戻していくこと」が、正教徒としての務めとされている。
このように、原罪についての考え方に違いはあるものの、悔い改めて神から赦しを受けることは、キリスト者として神に向けて歩む前進であることに変わりはない。神に赦されたことに感謝し、私も人を赦します、と祈るのである。
しかし、人を赦すほどむずかしいことはない。」
「インタビューは一名あたりおよそ三時間、場合によってはそれ以上、時間をあけて複数回にわたって行うこともあった。それを、沈黙やため息、笑い、怒り、方言などそのまま忠実に書き起こした上で、最終的に一人語りのように編集したのは筆者であり、文責はすべて筆者にある。
筆者の旅の順番やそれぞれの所属する教会とは関係なく、語られた内容によって大きく一四の章に分類し、配置した。」
第一章 私は罪を犯しました
第二章 人間ではよりどころになりません
第三章 神様より親が怖かった
第四章 お望みなら杯を飲みましょう
第五章 神を伝える
第六章 自分の意思より神の計画
第七章 教会という社会に生きる
第八章 神はなぜ私を造ったのか
第九章 政治と信仰
第十章 そこに神はいたか
第十一章 神はなぜ奪うのか
第十二章 それでも赦さなければならないのか
第十三章 真理を求めて
第十四章 これが天の援軍か
「筆者が会ったキリスト者の人数は、取材が叶わなかった方も含めれば、数千人に上るだろう。本書に収録したのは、日本全国からむればごく一部の教会の信徒にすぎないが、ここにはまぎれもなく、二十一世紀初頭の日本のキリスト者の実相があり、一人ひとりの語る信仰生活は、現代社会が抱える問題と相似形にあると実感している。
人間はなぜ神と出会い、信じるようになったのか。有史以来続く、信仰の謎についても想いを馳せるきっかけとなれば幸いである。」
「新約聖書学者の田川建三によれば、福音書の中でもっとも早く書かれたマルコ福音書の現存最古で最重要とされる紀元四世紀の写本には、復活したイエスが自ら顕現したという記述はなく、それが現れるのは五世紀以降の写本であるという。
そのことをもって、復活は嘘だ、創作だ、ファンタジーだとみなすのは簡単である。そうではなく、ではなぜ、後世のキリスト者は三日目の復活を加筆したのかと問うてみたい。そして、復活を信じるキリスト教が、なぜ世界を席巻したのかということも。
日本のキリスト者たちの声は、この問いを考えるための手がかりを与えてくれるだろう。
キリスト教とは、「自分を救えない神」を信仰する宗教である。自分で自分を救えない神が、人々に掟を与えたのである。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)と————。」
●最相 葉月:
1963年生まれ。関西学院大学法学部卒業。科学技術と人間の関係性、スポーツ、精神医療などをテーマに執筆活動を展開。著書に『絶対音感』(小学館ノンフィクション大賞)『青いバラ』『東京大学応援部物語』『ビヨンド・エジソン』『ナグネ――中国朝鮮族の友と日本』『辛口サイショーの人生案内』『セラピスト』ほか多数。『星新一』にて大佛次郎賞、講談社ノンフィクション賞、日本SF大賞、日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、星雲賞(ノンフィクション部門)を受賞。