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難波優輝「批判的日常美学について」(晶文社Web「スクラップブック」)

☆mediopos3710(2025.1.15.)

美学者・難波優輝
「批判的日常美学について」の
連載がはじまっている
(晶文社「スクラップブック」)

今回は
「第1回労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論」
「第2回反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳」
から

「第1回労働廃絶宣言」は
「人類はこれから先もずっと強いられた
労働をしなければならないのか?」
という問いかけ
そして「人類が労働をする必要はない。
労働を終わらせた方が人類にとって善い」
という難波優輝の答えで始まる

かなりラディカルだが
第2回の「反ファッション論」とあわせて考えると
私たちがほとんど自覚することなく受け入れている
さまざまな価値について問い直すための
重要な視点を提供してくれていると思われる

「労働」は「無数の価値をにんじんのようにぶら下げる」が
私たちは「労働に価値を見出すために、
どのように美的性質や美的価値を取り込み、
自分の趣味判断能力を変形させているのか」が
問われる必要がある

労働における「適応的美的選好」には
その典型例として「使命感」と「勤勉さ」が挙げられる

「使命美」とは
「特定の職業、立場に基づいて、困難な状況や
報酬を超えた労働を行うことを美的に優れている、
という判断によって帰属される美的性質のまとまり」であり

「勤勉美」とは
「汗水垂らして働くイメージに代表されるように、
倦まず弛まずひたすらやる、という態度の美」である

ここで問題となるのは
「使命美」や「勤勉美」そのものへの批判ではなく
「美的選好の適応のメカニズムや実践を明らかにすることで、
労働の論理を支える選好の働きを批判できるようになる」
という課題をクローズアップすることである

重要なのはそうした労働美学の研究を通じて
強いられた労働から解放される
そんな「ユートピアを想像し、世界を変えること」である

そうした労働美学批判の視点は
「生産主義と消費主義の奇妙な結合」とも密接に関わってくる
それが「第2回 反ファッション論」で論じられる

難波優輝が問いかけているのは
「「消費」がどのようにして
私たちの生活の中で美的に経験されるのか」という
「消費すること、その経験自体が持つ美的特質」についての
「消費の美学」である

ここで主に論じられるのは
ファッション等における「みせかけ美徳消費の悪さ」である

「みせかけ美徳消費を批判する意義は、
個人の美的徳の成長の阻害にある」からである

みせかけ美徳消費が横行している可能性が高いのは
以下の要素が欠如している場合である

「自律性」(消費者が流行や他者の証言に追従せず、
自らの判断で美的価値に応答できているか)
「持続性」(一過性の流行に踊らされるのでなく、
長期的な美的判断力や技能の発揮につながるか)
「相互批判性」(消費者同士が批評的対話を行い、
価値観を多面的に検討し合えるようなコミュニティがあるか)

こうした美徳消費の問題を解決し
美徳消費の健全化に取り組むためのアプローチとして
難波優輝は以下の2つのアプローチを提案している

「美徳消費をより実質化する」
(より実質的な美徳消費を可能にするような
プロダクトやサービスを提供する)
「美徳消費をより実質化する」
(より実質的な美徳消費を可能にするような
プロダクトやサービスを提供する)

以上のように美徳消費批判は
消費がいかに美徳と絡まり合っているのかを
考えることから始まる

「労働」にも「消費」にも
そこには「そういうものだ」として
あるいは「倫理的なもの」として
与えられている「美徳」があるが
それが本来的な「美徳」であるかどうか
それが問われなければならないということだろう

■難波優輝「批判的日常美学について」
 第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論(2024-12-08)
 第2回 反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳(2025-01-05)
(晶文社Web「スクラップブック」)

「倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。

 「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。

 労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。」

**(第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論)

・はじめに

*「本稿は、労働廃絶に向けた美学的取り組みである。以下、次の順番で論じる。

 第一に、賃労働そのものは無価値であること、そして、無価値だからこそ、他の様々な価値に「寄生」することで賃労働へと人々を駆り立てようとすることを指摘する。
 第二に、わけても「美的なもの」に寄生することで、賃労働は自らの価値を正当化していることに注目する。この美的正当化の実践を「使命美」と「勤勉美」の概念から分析することで批判する。
 第三に、労働を廃絶するために、私たちができることを提案する。私たちは、労働を不必要とする制度的な仕組みをデザインすることに加えて、労働を美的に正当化する実践を分析し批判することでも労働廃絶へと近づくことができる。
 最後に労働廃絶は消費批判ともリンクしていることを指摘して次回予告とする。」

・1 労働の無価値さと寄生するまなざし

*「本稿で私が注目したい価値の取り込みの種類は「美的なもの(the aesthetic)」の取り込みである。とりわけ、個人の人々が労働に価値を見出すために、どのように美的性質や美的価値を取り込み、自分の趣味判断能力を変形させているのか、その実態とヴァリエーションに焦点を当てることである。」

*「私は特定のタイプの適応的選好に注目したい。それは、「適応的美的選好(adaptive aesthetic preference)」である。私たちの美的な好みが労働の論理のために奉仕させられ、歪ませられているという事態に着目する。

 適応的美的選好という概念が思考の手助けとなる。私たちは「ちゃんとする」という美的価値を内面化してしまっている。そのために、「適当に働きたい」という自分の欲求を自己検閲してしまい、それを退ける。なぜなら、「適当に働く」ことは「ちゃんとしていない」ため、美的に醜い、と美的判断するような、美的選好が内面化されてしまっているからだ。つまり、私たちの美的判断には、外から何かが寄生しているのだ。あたかもエイリアンのように。私たちのまなざしが、侵食され、資本主義の精神を支えるようなタイプの規範にそぐわない労働態度を批判的なまなざしでみるようになってしまう。

 「奴隷の鎖自慢」という発祥地不明のミームがある。素晴らしい概念だ。どういうことか。労働を強いられた私達は、確かに、選好の変形によって私たちは労働から得る苦痛を部分的に減らせるかもしれない。ときには、意義深さを与えてくれることもあるだろう。しかし、同時に、そうした新たに取り込まれた規範をクリアできなかったり、その規範を疑ったり、その規範と実際の仕事のギャップに悩むとき、人は苦痛を感じるだろうし、もしかすると、そうした規範を自分の物語に内在化しているがゆえに、余計に実存的に傷つくかもしれない。さらに、そうした、その変形してしまった選好に基づいて、新たに労働をし始める人々に対するアドバイスをすることで、害悪を再生産していく。「仕事ってのは……」と説教することで、人々に奴隷の美学が叩き込まれていく。奴隷としての喜びを見つけるように、私たちの選好が歪められていく。そして人々は本当に、部分的にせよ、労働に喜びを感じるようになる。

 労働は無数の価値をにんじんのようにぶら下げる。しかし、「労働で幸せが訪れる」はすべて詐欺である。労働を終わらせるためには、この寄生するまなざしを解剖し、摘出しなければならない。解毒剤を開発する必要がある。そのために、私はまず、労働の美学の分析に向かう。」

・2 2つの適応的美的選好

*「労働における適応的美的選好の代表的サンプルとして、本稿では、使命感と勤勉さに注目する。
 使命美は、職業上の義務を押し付けられた人々(医療従事者や原発作業員)に対する道徳的要請が行われ、極端なケースでは自殺的な行為にまで人々を追い立て、それを称賛する態度とリンクする。
 対して、勤勉さはプロテスタンティズムの倫理を代表にするような、しばしば、自己創造やスタイル生成の側面が強調される美的なものである。」

・使命美

*「使命美とは、特定の職業、立場に基づいて、困難な状況や報酬を超えた労働を行うことを美的に優れている、という判断によって帰属される美的性質のまとまりである。」

*「使命美の概念分析を行ってみよう。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)危険を顧みない(例えば、英雄的な態度)
(2)他の価値の無視(例えば、家族の制止を振り切る)
(3)大義との接続(例えば、職業上の使命など、より大きなものと自分を接続させる)」

 原発事故で英雄視された人々は(1)危険を顧みない。どのような状況になっているのか分からなくとも、その場に踏みとどまる。(2)自分が死ぬことで家族がどんな暮らしをすることになるのか想像しない。家族が自分を案ずる不安を想像しない。(3)プロフェッショナルとしての使命と接続して、「雄々しくも」危険に立ち向かう。

 この美化のメカニズムは考察する意義がある。美学者の津上英輔は、『危険な「美学」』において、美化が様々な悪を覆い隠す働きを考察している。その中で、特攻と散華の美についての分析が重要になる(津上 2019)。津上は、死という悪と死が反転し、桜の散るさまというポジティブな価値と連結することで、非常に魅力的な美に変わるという動きを分析する。この分析が参考になるのは、労働における労苦もまた同様のメカニズムを持っていることだ。労働において、死に近かったり、非常な骨折りが、反転させられることで美化され、使命美の美しい活動だとみなされるようになる。それは、基本的には、悪を良きものに反転させることで魅力的にする、という特攻と散華のメカニズムと同一のものだろう。

 使命美は、危険時に際して、人々をスケープゴート的に称賛する社会のうねりのなかで際立ってみられるが、日常的な場面でもしばしば発生する。職場で、誰かが報酬を超えた責任を負ったり、誰かがシステムの不都合を個人の努力で補填しなければならない場面や、業務の義務を超えて最小限の意味でも英雄的と呼べるような労苦を強いられる場面がある。その際に、そうした行為を遂行する者には使命美があると判断される。

 もし、その労苦を避け、やらない、と宣言したとしたら、それは異常事態となる。人格さえ疑われる。なぜなら、特定の職業に就いている限りは一定の使命を果たさなければならないとみなされているからであり、そうしないことは異常であり、美しくなく、吐き気さえ催させるからだ。」

*「日常生活では確かに特攻させられた人々ほどの苦しみや壮絶さはないかもしれない。しかし、依然として同じ働きが労働における美として蠢いていることに私たちは十分に気づけていない。

 私たちの多くは、使命美を自らの適応的美的選好として内面化し、寄生させていく。そうすることで困難な状況にも大した報奨なしに突入していくことができる。確かに、人々から称賛を得るかもしれない(残念ながら、そうした称賛がいかほどの価値を持っているのか私にはさっぱり理解できないのだが)。」

・勤勉美

*「もう一つの労働の美的選好として光を当てたいのは、「勤勉美(industrial beauty)」である。汗水垂らして働くイメージに代表されるように、倦まず弛まずひたすらやる、という態度の美である。こうした態度は、その態度自体が適切で尊敬すべきものとされる。頑張っている姿がかっこいい、という言葉で代表されるように。奇しくも役所広司主演の『PERFECT DAYS』(2023)評をみると、清掃員の主人公が日々を丁寧に生き、勤勉に仕事をする様に人々は心を打たれているのを観測できる。」

 先ほどと同様、勤勉さを構成する7つの要素が特定できる。これらは概念的に区分されるが実践上は混じり合う。

(1)継続性:毎日やる。休みなくやる。親が死んでもやる。雨が降ってもやる。こつこつやる (2)ラクしない:地道にやる。プログラムを組んだりしない。手を動かす。大変そうにやる。 (3)黙々とする:真剣である。楽しそうにしない。苦しそうにやる。
(4)些細さ:大きなことをやらない。ちまちまやる。できるだけ一人でやる。
(5)仕事以外のところでも仕事のための準備をする。休みの日に遊びに行ったりしない。
(6)時間をかけてやる:短い時間だとだめである。
(7)健気さ:純粋であり、邪なところがないさま。

 (1)つねにやらなければ勤勉ではない。やったりやらなかったりしてはいけない。(2)効率化を目指してはならない。苦労をすることに価値がある。(3)楽しみを人に見せつけてはならない。(4)重大なことをしてはならない。(5)労働以外の時間も労働に向けた態度を取らねばならない。(6)じっくりとやらなければ評価されない。(7)他のことを考えたり脇目も振ってはならない。こうした条件は勤勉美の必要条件か十分条件かは定かではないが、特徴を捉えているといえるだろう。」

*「以上のような、特定の価値、勤勉美や使命美についての分析と並行して、価値の流用が起こるメカニズムや他の流用のあり様を考えることも必要だ。労働に意味を与えるために、様々なジャンルや実践の美的価値や規範をどのように変形して、流用し、適応的選好を可能にするのか。美的選好のデザイン批判である(例えば、ビジネスの自己啓発ものというのは、適応的選好の発見の物語で満ちていることを指摘しておこう)。美的選好の適応のメカニズムや実践を明らかにすることで、労働の論理を支える選好の働きを批判できるようになる。以上の議論は、その語彙と概念と枠組みのスケッチであり、私たちのやるべきことは無数にある。」

・3 労働が終わった後の世界へ

*「しかし、私たちは、いまだ働かないで済む未来を想像できない。それは絵空事だと思われているし実際現時点では絵空事である。それゆえ、私たちは労働の論理そのものを疑うことはない。資本主義の精神はどこまでもリアリスティックに体感される。そこで、そのリアリズムをわずかでも耐えうるものにするために様々な適応的美的選好を作り上げる努力をしてしまう。そして、親切心からか、人々はこれから労働をする人や、労働から排除されている人々に対して、選好のデザインの仕方を教えたりする。

 労働を疑うことは不可能なのだろうか。そんなことはない。私たちは、労働そのものを廃絶することができる。私たちは、労働美を分析していくことで、資本主義の精神を崩壊させていくこともできるはずだ。労働をする義務は私たちにはない。労働は不正義だ。だから、私たちは、別の感性を育み、発見していくことで、労働以後の世界を想像すべきだ。これを「労働廃絶の美学」の営みと呼ぼう。

 こうした試みは「ユートピア的実践」と呼ぶことができる」

*「私たちが労働の美的選好から距離を置いて、適当な労働で済む世界、あるいは、労働を廃絶するために、大きく3つのアプローチをとることができる。これらは、ある程度独立している。(1)態度で労働を評価する実践をなくすこと。(2)労働に対抗できるような美的選好を創造する。(3)内面化している評価基準を距離をとって分析するために、概念化していくこと。

 本稿では(3)のアプローチを実行した。(3)から始めることで、(1)の変更や(2)の改訂が可能になると考えている。ちなみに、(1)のアプローチをとるとどうだろうか。それは、たんに働くことを重視することになる。効率を重視するとはどういうことか。労働において必要なことをする。しかし、相手に合わせる、しかし、それは労働美というよりも実質的な価値を生み出すことを目的とすると、いささか安楽になるかもしれない。対して、そうした労働美がまったく重視されない分野もありうるかもしれない。それはそれで別の問題があることははっきりしているだろう。今回、私が焦点を当てたのは、労働において、労働美が実のところ存在感をもっていることを論じることで、労働一般にある美的側面を探り出そうとする作業であった。使命美と勤勉美は、労働美の主軸であろう。しかし他にも様々な労働美が指摘されうるし、これらの混合体もありうる。そうした労働美を指摘し、分析し、批判していくことで、労働美を達成しなければならないというプレッシャーを解体したり、そうした労働美に囚われない労働が可能になるかもしれない。そのときにこそ、労働はよりましなものになると私は考えている。これはある意味で、マルクス主義的な労働観にいきつくかもしれない。つまり、資本主義において苦役であった労働を、より充実したコミュニティのための労働に置き換える、という方向へ。だが、私はあまりこのアプローチに魅力を感じはしない。加えて、(2)をとるとどうなるか。適切にサボれている人を評価したり、息抜きできている人を称賛したり、仕事に本気ではない人をかっこいいとしたりするような態度を形成する、美的な趣味形成のアプローチである。これを達成するには、アーティストや表現者たちの力を必要とすることだろう。

 いずれにせよ、私は、あなたがたに、さらなる労働美学の研究を推奨する。そうすることで、ユートピアを想像し、世界を変えることを期待する。

 なお、もし労働の美学を批判するのならば、ヴェーバーが指摘したように、生産主義と消費主義の奇妙な結合についても論じる必要があるだろう。次回は、消費について考えていきたい。なぜ「経済を回す」ことが良いことなのか。応援消費の意味とはなんだろうか。つまり、「消費の美学(aesthetics of comsumption)」について考察を深めていくことになる。そうすることで、労働の美学についての理解も同時に深まることになるだろう。」

**(第2回 反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳)

・はじめに:消費はなぜ楽しいのか?

*「私がこれから考えたいのは「消費」がどのようにして私たちの生活の中で美的に経験されるのか、「消費の美学」である。もちろん、消費については様々な思想家、研究者たちが魅力的な議論を繰り広げてきた。ソースタイン・ヴェブレン『有閑階級の理論』、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』、最近ではジェフリー・ミラーの『消費資本主義』や、ダニエル・ミラーの『消費は何を変えるのか』があり、それらは楽しい読書経験を与えてくれる(ヴェブレン 2016; ボードリヤール 2015; 山崎 2023; ミラー 2017; ミラー 2022)。

 しかし、私はこれらの議論にいまいちピンとこない。というのも、私が関心があるのは、消費の美学、すなわち、消費において、人びとはどのような美的な経験をしているのか、であったり、人びとがどのような美的経験をしていないのか、なのだが、そうした議論は以上の論者の文章にはあまりみられないからだ。私が考えたいのは、消費すること、その経験自体が持つ美的特質なのだ。それはお買い物の瞬間に味わわれる美的経験である。私は、消費という行為をすることで、私たちがどのような能力(とりわけ美徳)を発揮しているのかという視点から、消費の美的経験を考えたい。

 こうした分析は、たんに興味深いだけではなく、複数の価値を持つ。その大きな一つは、消費行為に対する批判や、よりよい消費を考える際の手がかりになるということだ。私たちは消費について、全面肯定ではなく、ときには批判的なまなざしを向けることもある。「消費はほんとうに私たちの人生を豊かにしてくれるのか」「こんなに消費ばかりして、少し虚しい気がする」。そう思ったことが一度もない人も珍しいだろう。そうした消費の批判の際に、美的側面を考慮に入れることで、より実質的な批判ができるようになるだろう。」

*「本稿の構成は以下の通り。

 第一に、消費を美的側面から分析する。複数の意味が消費行為にありうる中で、とりわけ私が注目するのは「みせかけ美徳の発揮」としての消費である。私は、現代の消費文化の多くは、人びとが「みせかけ美徳」を発揮する機会をプロダクトやサービスとして提供している、と考える。ここで「みせかけ美徳」という聞き慣れない概念が登場する。
 現代の消費文化において「みせかけ美徳消費」とは、消費者が商品・サービスを通して、あたかも自分が「美的徳」や「ケア」、「創造性」などの何らかの美徳を発揮しているかのように感じるが、実際にはその徳が十分に発揮されていない、あるいはその発揮が恣意的な市場環境によって阻害されている状態を指している。言い換えれば、「みせかけ美徳消費」は、「真正な美徳発揮」を伴わない、あるいはその追求が絶えず先延ばしされる一種の代理的・疑似的な美徳とその発揮である。最近の倫理学・認識論・美学では、「徳(virtue)」をめぐる議論が盛んに行われている。その興味深い議論を踏まえながら、美徳から考える消費論を展開する。(・・・)
 本稿では、とりわけ、ファッション文化実践を批判する。ファッションとは、私のみるところ「みせかけ美徳の発揮」を提供する「みせかけ美徳ビジネス」の王である。

 第二に、みせかけ美徳ビジネスのオルタナティブを検討する。私は、美徳の発揮を持続可能で自律的で誰にでもアクセスできるようなものにすべきだ、と主張し、美徳発揮の公正な分配として、美学と政治哲学の交差点を考える可能性を提案する。次回予告として、無批判に美的流行を受け入れることと、ルッキズム(外見差別)の関係について触れる。」

・1 消費の美的快楽の分析

*「消費は気持ちいいい。ものを買った瞬間の気持ちよさとはなんだろうか。それは一つの美的経験をもたらすものであるようにも思われる。まずは、消費のスケッチをより豊かなものにしてみよう。

消費の美的特徴

(1)所有し始める喜び
(2)お金を失う喜び
(3)生活が向上する期待の成就
(4)お金を使うことが楽しい」

*「この4つが合わさり、消費のタイミングには、ギラッとした感覚が私たちに生じる。所有開始、お金の失い、期待の成就、お金を使うこと。重ね合わさった独特の怪しい魅力が消費にはある。」

*「とはいえ、伝統的に消費論で論じられてきたのは、ステータスアピール、差異の表示、応援、献身といった消費という行為をするときに同時に成立する別の行為であった。これは、ちょうど、言語哲学者であるJ・L・オースティンが『言語と行為:いかにして言葉でものごとを行うか』(1962)で分析したように、「発語内行為」によく似ている。食卓で「そこの塩ってとれる?」という「質問」行為が同時に「塩をとって欲しい」という「依頼」行為にもなる。これが発語の「内」で行われる行為、すなわち、発語内行為なのだ。これがオースティンの興味深い発見だった。

 つまり、消費は、何かをお金を引き換えに買うという取得の行為であるが、同時に、「ステータスアピールする」「差異を表示する」という行為が可能であるし、「応援する」という行為も可能である。つまり、これまでの消費論は「消費の語用論(pragmatics of consumption)」を論じてきたと言えるだろう。

 さて、消費における「消費内行為」とも言える行為には、ものすごい種類のものがあるだろう。消費を介して「命令」することもできるかもしれないし、「軽蔑」することもできるだろうし、「暴力を振るう」こともできるだろう。その網羅的分析もおもしろそうだが、ここでは、そのルートを採らず、ある一つの消費内行為を分析したい。」

*「本稿で私が注目したいのは、「みせかけ美徳の発揮」という行為である。私は、ある種の消費において、人びとは「消費を介して自分たちの美徳を発揮できている」と感じているし、彼らは、美徳を発揮するために消費していると思っている。しかし、そこでは十分には美徳は発揮されないし、しばしばみせかけ美徳の発揮が販売されている、という主張をしたいのだ。どういうことか。

 例えば、私たちが衣服を選び購入するとき、私たちは、自分たちの「美的判断能力を働かせている」と思っているはずだ。あるいは、私たちがアイドルを推して応援するとき、グッズを買ったり、YouTube配信にスーパーチャットを投げたりするのは、そのアイドルへの「ケア」という美徳を発揮している、と感じているだろう。

 このように、サービスやプロダクトは、私たちにたんに心地いい経験を与えたり、美的経験を与える、というよりも、消費という行為において、美徳を発揮する機会を提供することで美的な快楽を与えているのだ。

 本稿では、第一に、ファッションをめぐる議論を詳しく論じたい。そして、その議論の応用として、ガジェット文化、ケア、ソシャゲをめぐる美徳の問題をコンパクトに論じたい。」

・2 ファッションと「みせかけ美徳消費」

*「ファッションと消費について考えたい。なぜファッションか。ファッションをめぐる実践は、美徳の発揮のなかでも、美的徳の発揮を消費者に夢見させるからだ。

 そもそも美徳とはなんだろうか。美徳とは、望ましい結果を達成するための動機付けと確実な成功を伴う、深く、永続的な優れた能力であり、しばしば、美徳の発揮は幸福そのものであり、あるいは、幸福をもたらすとされている。

 美徳には、道徳的な徳(勇敢さ、慈愛)や知的徳(オープンマインド、注意深さ)などがある。とりわけ、ファッションに関わるのは、美的徳(aesthetic virtue)だ。美的徳とは、美的判断力や審美眼を持っていること、あるいは、よい表現ができる力を持っていること、自分なりのスタイルを作り出す能力、さらには、創造力などを意味する。」

*「美的徳の概念をもう少し具体化してみよう。美的徳とは、広く言えば、美的対象や経験に対して適切な評価・反応・行為を取るための、深い内面化された性向である。それは、美的価値に対する理解や洞察(たとえば、スタイルや色彩、構成やリズム、素材や背景文脈に関する識見)を備え、そうした価値を適切に尊重・享受し、さらには、自律的な美的判断に基づいて応答・行動することを含む。

 例えば、おしゃれ実践における美的徳としては、自分自身や自分の属する文化的背景に応じて、流行にただ従うだけではなく、独自の審美的判断を下せる能力、あるいは様々なスタイルを吟味し、より自分らしい装いに落とし込む創造的な美的判断力や表現力が挙げられる。こうした徳は単なる技能以上に、自分の美的センスを過大評価も過小評価もせずに選び取り、他のセンスに開かれている「謙虚さ」、失敗をおそれずに自分のありたい姿を追い求める「勇気」)など、複合的な要素を含んでいる。」

*「本稿では、おしゃれ実践というよりも、時々の流行が激しく入れ替わるファッション文化にフォーカスしたい。ここで明確にしておきたいのは、両者の区別である。

 おしゃれ実践とは、個人が自らのパーソナリティや身体的特徴を踏まえ、自らの美的判断により装いを創造的に形成し、他者に呈示する行為を指す。これは必ずしも流行に従わずとも可能である。

 一方、ファッション文化は、急激な流行サイクルが市場やメディアを通じて作り出され、消費者がその都度変わるファッションの正解を追い求める実践を指す。例えば、江戸時代の着物の着こなしをこよなく愛していて、実際にその人に似合っている人は、おしゃれ実践をしているが、しかし「ファッショナブル」ではない。つまり、ファッション文化には参加していないのだ。

 おしゃれ実践はファッション文化の一部として行われることもある。しかし、しばしば、ファッション文化が提供する流行に巻き込まれている場合が多い。したがって、おしゃれ実践=ファッション文化ではない。

 それゆえ、ファッション文化は美的徳の発揮の場所としては苛烈な環境であるように思われる。なぜなら、ファッション文化内では、意図的に流行が作り出され、多くの人はそれに乗り遅れまいと必死で追いついていくことになる。一見醜くても、不格好でも、機能性に劣っていても、ブランドやデザイナーや批評家や雑誌、ライターたちによって「ファッショナブルさ」という美的価値が制作される。」

*「ファッションは、「流行に乗れている」程度の能力を美徳に見せかけて、その「みせかけ美徳」を追い求めるように消費者に要求する悪徳文化なのである。ファッションは、消費者の美的徳を毀損し、「あたかも自分は美的徳を発揮できている」と思わせ、「美的徳を発揮するためには流行に乗り遅れてはならない」と思わせることで、新たな商品を買わせる。この文化における流行は、美的徳の発達を妨げるようにデザインされている。そのためファッション批評が芽吹く兆しもない。なぜなら、美的徳を発達させるような仕方でのコンセンサスを破壊しようとする方向で実践が促されるようにされているからだ。批評とは、美的徳を涵養するための豊かな土壌となるが、あいにくのところ、流行はそもそも批評を必要としないのだから。ある徳が発揮されるためには、その徳が発揮できるような環境やコミュニティがなければならない。だが、ファッションにはそうしたコミュニティが存在しない。

 いや、と反論があるかもしれない。「ファッション文化には、確かに流行は存在する。しかし、流行に合わせて新しい自分なりのスタイルを発見する営みにおいて発揮される「機敏さ」はとても魅力的で独自の美徳なのである」と。なるほど。では、人びとが本当に「機敏さ」のような美的徳を楽しんでいるのかどうか、それを身に着けようとしているのだろうか。人びとは選んでファッション文化における美的徳の瞬発力を鍛えるようなゲームに参入しているのではなく、参入を余儀なくされているだけであるように思われる。そういうわけで、流行を追うタイプのファッション文化は、美的徳の発揮の場としては崩壊しているように思われる。それゆえ、ファッション文化は美的徳を発揮する場所ではない。

 むしろ、人びとは、「流行に遅れている」とみられないために様々なアドバイスを必要としている。美学においては、そうしたアドバイスは美的証言(aesthetic testimony)と呼ばれる)。美的証言は、「これが美的に優れている」「これが美しい」「これが抜け感がある」といった美的な事柄に関する証言である。美的証言の発信は、ファッション雑誌がこれまで担ってきたし、最近では様々なSNS、とりわけYouTubeやTikTokがその役割を担っている。

 それらの美的証言は、人びとが自分ではしきれない美的判断を肩代わりしてもらうために行われているのだ。」

*「この指摘を応用することで、私たちはファッション文化のパラドクスに気づくことができる。すなわち、ファッションにおいては、いっけん、おしゃれであることが賞賛され、おしゃれな人はおしゃれ判断を行い、美的徳を発揮しているようにみえて、人びとはそれを美的徳の高い人として模範的に理想とすべきだとされているかもしれないが、しかし、人びとが実際に求めているのは、美的徳の発揮ではなく、ダサいと思われないため、流行に乗り遅れてはいないと思われるための効率的な選択である。人びとは自らの美的徳を発揮できる環境にはない。

 ふつう徳の発揮と涵養には一定の修養が必要だが、時間やコミットメントがない場合、それをイージーに叶えたいと人は思う。それゆえ、人びとは「いま何が流行っているのか」をリサーチして、その正解に向かって自分の可能な資金や時間を使って近づこうとする。なるほど、人びとが自分で自分の美的徳を働かせてその正解に向かうことができれば、確かに理想的だが、実態はそうなっていない。」

*「ファッションの消費者は、つねにファッションの美的判断から疎外されている。美学者のニック・ザングヴィルは、こうしたファッションの疎外を一人称的な視点と三人称的な視点のずれから説明している。流行のファッションアイテムたちは一人称的な視点からみれば、とても自然に「ファッショナブル」にみえる。あたかも夕日が美しいのと同じように、流行のアイテムは太古の昔から「ファッショナブル」であったかのようにみえる。しかし、私たちは同時に、三人称的な視点からみれば、その「ファッショナブル」なアイテムが人為的に、専門家たちによってデザインされていることに気づいていないわけではない。「一人称の経験を三人称の視点から考えるだけで、その経験から疎外されてしまう」。つまり、私たちはファッショナブルなアイテムが人為的なものであることを薄々分かっているのに、それがファッショナブルにみえる、という自分の美的判断からの疎外を経験しているのである。」

*「哲学者のティン・チョー・ラウが提示する「美的ノーミー(aesthetic normie)」概念は、みせかけ美徳消費の問題をより一般的な観点から理解する手助けになる。美的ノーミーとは、深い美的探究や批評を経ず、流行のアイテムに飛びつく振る舞いをする消費者である。彼らは美的により意義深いアイテムを探索するというよりも、時間やコストの関係上、他人とのつながりを求めるために、流行の人気の美的アイテムを鑑賞することを選択する。あるいは、挑戦することを恐れて、馴染のない美的アイテムには近づかない。ラウの指摘は、ファッション文化にこそもっともクリティカルに当てはまるだろう。より挑戦的なファッションでさえも、流行のなかで演出されているのだとしたら、私たちには何をしようもない。ファッションは美的徳の観点から言えば、美的徳を涵養することを妨害することで消費を生み出すという、美的徳の視点からいって堕落した文化なのである。

 なので、美的ノーミー本人たちは美的徳がなく、美的悪徳を身に着けているという点で悪い。しかし、彼らだけにその責任をとらせるのも考えものだ。認識論においても、本人にだけ知的悪徳の責任を押し付けるのではなく、社会全体が知的悪徳を生み出している点に注目し、認識的環境に対する改善の必要が議論されている。同様に、美的環境に対する批判を怠ってはならない。ファッション文化というものが、美的悪徳を生み出す仕組みを備えているのだ。それがファッションノーミーたちを生み出すことで利益を得ている。

 以上のアンチ・ファッション論から、私は自分を「アンチ・ファッショニスタ」だとみなしている。仕掛けられた流行が嫌いであり、人工的な流行には美徳を腐らせる作用があると考えている。」

・その他の美徳消費:ガジェットとケアとガチャ

*「以上の議論を踏まえて、3つの消費文化について、美徳消費の観点から分析を加えてみよう。

*「第一に、ガジェット文化もファッション文化に似て、流行の激しい消費文化のように思われる。私が興味深く注目しているのは、使いづらい楽器である。OP-1(field)(Teenage Engineering)と呼ばれるシンセは大変高価である。見た目はとてもおしゃれで可愛らしい。しかし、その機能は非常に貧弱である、とDTMユーザーのマイケルはYouTubeで指摘する。さらには、マイケルは、無料であったり、とてもチープなソフトでOP−1よりも便利で高機能な機材を揃えることができる、と事細かに説明してくれているのだ。チープであったり無料のソフトウェアで音楽をつくるオルタナティブな方法を提案するマイケルこそが、美的な「創造性」の美徳を発揮していると言える。彼は、私たちに高価なものなしで表現をする可能性を与えてくれる。

 先程も指摘したように、美徳とは学ばなければならないスキルである。よい演奏ができる、という美的徳は、様々な修練を経てのみ身につけられる。そして、それを身に付けるためには、「堅実さ」「粘り強さ」といった認識的徳が必要になる。だが、人びとはそうした修練を行うことをスキップしたいと思う。なんとなくよい音楽をしているかのようにみせたい。もちろんそれはそれで「開放性」の徳と結びつくかも知れない。OP-1の悪さとは、それが、高価であることによって「何かができるんじゃないか」という期待を抱かせるところにある。Teenage Engineeringの作り出す製品は、音楽をしてる感を出したいけど地道に手を動かして練習したくはないが小金はある、見た目はおしゃれ好きな人々からはした金を巻き上げているのだ。」

*「加えて、ケアをめぐる議論をみてみよう。私が別の場所で論じたように、アイドルの応援もまた「ケア消費」と呼ぶべき、ケアの美徳の発揮を約束するものの、そして、実践者はできていると感じているものの、実際は非常に問題のあるケアの発揮にとどまるか、そもそもケア的ではないような消費しか見当たらないという意味で、この文化もみせかけ美徳の発揮の場なのである。どういうことか。

 人間として、私たちは誰かをケアしたい、という根本的なニーズがある。人はケアせざるを得ない生き物なのだ。そして、ケアすることで自分自身も開花する依存的な生き物なのだ。だが、現在の社会はケアする機会を私たちからどんどんと奪っているのかもしれない。それゆえに、ケアする機会を販売するビジネスがここまで広がってきたのではないか——と考えている。すなわち、アイドル文化やVTuber文化とは、私たちにお金を払わせることで彼らをケアする機会を与える「ケア誘いビジネス」なのである。こうしたケア誘いビジネスはこれからもどんどんと拡大していくと私は予想する。私たちはますます「ケア労働者=消費者」であるような消費労働者としてケア誘いビジネスの中に参入していく。ここでケアとは、間違いなく、私たちの倫理的徳の一つであり、アイドルビジネスとは、ファンがケアという美徳を発揮する場を提供することで消費を生み出す文化なのである。」

*「最後に、ソーシャルゲームにおける強さをめぐる問題は消費と美徳の関係からうまく整理できる。

 近年、多くのソーシャルゲームがガチャ機能を搭載している。プレイヤーは仮想通貨や現実のお金を使ってランダムにアイテムやキャラクターを入手できる。このシステムは、好きなキャラクターを手に入れるために何度もガチャを回すことを促し、結果的にゲームの収益を支える仕組みとなっている。あるいは、ゲームにログインした初回のみ、レアなアイテムが出やすかったり、無料で何度もガチャにトライできるがゆえに、人びとは望みのレアアイテムが出るまで何度もゲームをリセットして最初から始める「リセマラ」に勤しんだりする。ガチャ機能は、たんにアイテムへの射幸心を煽るだけではなく、プレイヤーとしての「強さ」への憧れを生み出す。それらの(偽の)美徳の発揮をゲーム内で行わせるある意味で「美徳機械(virtuous machine)」として機能している。このシステムはプレイヤーの美徳を利用し、過度な消費を促す。ガチャの確率は低く設定されており、望む結果を得るためには多額の出費が必要となることもある。これは経済的な負担を増大させ、依存症を引き起こすリスクも伴う。」

・3 みせかけから実質的な美徳の発揮へ

*「私が本稿で考えたかったのは、みせかけ美徳消費の悪さだ。

 みせかけ美徳消費を批判する意義は、個人の美的徳の成長の阻害にある。以上で指摘したような消費文化は、そこに美徳がないのに美徳があるようにみせかける実践であり、当人も美徳を発揮していると騙されている。確かに当人たちが気持ちよくなっているのなら外野のとやかく言うことではない、という言い方もできるかもしれない。しかし、実際には発揮できていない美徳を発揮できたと勘違いすることで、人びとが得られたであろう美的徳の発達と発揮によって幸福を得る機会が奪われている。これは批判に値するだろう。美的徳が私たちの幸福を構成する重要な一部だとすれば、それを模造品をすり替えることで利益を得ようとする消費文化は人びとの幸福を搾取していると言える。まとめるなら、みせかけ美徳消費は以下の3つの点で問題がある。

(1)消費で美的徳を発揮するためには、費用や時間がかかるように仕組まれている。もしくは、費用をかければかけるほどに美徳を発揮できる仕組みになっている(リセマラ、ガチャ、課金、ファッション、投げ銭、トップオタ)、
(2)しばしば美徳の発揮できる場所が持続的ではない(サービス終了、解散、卒業)、
(3)美的徳の基準が恣意的にスライドさせられる(「環境」の変更、流行)。

 消費文化の少なくない部分は、美徳の発揮を約束しながらも、その約束を永遠に先延ばしし続けることで消費者の消費行動を促し続けることができるのだ。

 みせかけ美徳消費と、実際に美徳を伴う消費はどう区別可能だろうか。目安となる指標として以下が挙げられる:

(A)自律性:消費者が流行や他者の証言に追従せず、自らの判断で美的価値に応答できているか。
(B)持続性:一過性の流行に踊らされるのでなく、長期的な美的判断力や技能の発揮につながるか。
(C)相互批判性:消費者同士が批評的対話を行い、価値観を多面的に検討し合えるようなコミュニティがあるか。

 これらの要素が欠如している場合、そこにはみせかけ美徳消費が横行している可能性が高い。

 では、どのようにしてこの美徳消費の問題を解決することができるのだろうか。以下ではスケッチを示してみたい。美徳消費の健全化に取り組むためのアプローチとして、以下の2つが考えられる。

(α)美徳消費をより実質化する:より実質的な美徳消費を可能にするようなプロダクトやサービスを提供する。
(β)消費なしの美徳を構想する:消費を必要としないタイプの美徳の発揮を構想する。

 (α)は、ある程度有望なアプローチに思える。美徳消費は引き続き行われるとしても、より中身のあり、持続可能な仕方で美徳が発揮できるようなサービスやプロダクトを作ることで、人びとの幸福に寄与する。とはいえ、持続可能な美徳の発揮という現象と、より多く購入され、消費され、企業に収益をもたらしてくれるプロダクトやサービスの相性は一見したところ悪いように思われるため、美徳発揮のための仕組みやシステムのデザインのセンスが大いに求められるだろう。

 (β)は、ラディカルなアプローチである。消費は、その本性からして、美的徳をはじめとする美徳の発揮を妨害するのであり、消費以外の場での美徳を構想すべきだ、とするものだ。それは具体的には、例えば友人関係であったり、何かを考えることであったり、子どもや親をケアすることであったりするかもしれない。しかし、いまのところ、消費を介さない美徳の発揮というものを少なくとも私はまだうまくイメージすることができていない。私は、この最後のアプローチに魅力を感じているが、しかし、その内実をまだ掴めていない。

 ともあれ、いずれの道を取るにせよ、消費がいかに美徳と絡まり合っているのかを考えることからしか美徳消費批判は始まらないだろう。本稿に続いて、あなたがファッションについての批判を推し進めたり、あるいは別の美徳消費文化について論じてくれることを期待する。

 さて、次回は、美的徳が美的悪徳の発揮に変質する別の文化として「清潔感」であったり「整形は努力」という言葉に代表されるような、見た目と性格・美徳を結びつける実践に対する批判を行うつもりだ。分かりやすい言葉で言えば、ルッキズム批判ということになろうか。しかし、問題は見た目で人を差別しているだけではないかもしれない。見た目から人の「性格」を差別している、すなわち、「性格差別」の問題があるのかもしれない。いまだ十分に掘り下げられていないこの差別について向き合ってみよう。新たな視点から美的徳と差別の問題に迫りたい。」

○難波優輝(なんば・ゆうき)
美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)

◎難波優輝「批判的日常美学について」
 第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論(2024-12-08)
(晶文社Web「スクラップブック」)

◎難波優輝「批判的日常美学について」
 第2回 反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳(2025-01-05)
(晶文社Web「スクラップブック」)


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