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石井ゆかり「星占い的思考 59 天空の歌」/『星占い的時間』/マーニーリウス『アストロノミカ』
☆mediopos3715(2025.1.20.)
石井ゆかり「星占い的思考」(『群像』で連載)
第59回は「天空の歌」
記事の冒頭では
先日ラテン語原典から全訳された
マーニーリウス『アストロノミカ』 から
次のように引用されている
(『アストロノミカ』については
mediopos3669(2024.12.5.)でとりあげている)
この詩を天空に聞かせて
星々を驚嘆させ、宇宙を詩人の歌で喜ばせよう。
あるいは、星々の聖なる運行を
知ることが許された者たちのために、
地上におけるごくひと握りの集いのために歌おう
石井ゆかりは
占星術書であるこの「天空の歌」に触れることで
それが「朗朗と読まれる」
「詩文」であることに気づいたとしている
石井ゆかりは
「私の書く占いはしばしば「ポエム」と揶揄された」
としているように
詩のことばは
現代の日本社会では
嘲笑的に「ポエム」とか呼ばれたりもするのだが
「詩だからこそ」
その言葉には「翼」がついていて
「人々の心に広まり、留まり、
さらにその先の世代に復唱されていく」
ということもいえるだろう
「詩」のリズムや音楽はおもいのほか
私たちのなかに入りこんでいて
「私たちに乗って、別の場へ、
別の時間へ運ばれていく」ように
詩人の天空の歌がこうして翻訳という形にせよ
私たちのもとに届いたのは
詩文の美しさゆえのものかもしれない・・・
さて星占いの世界では
水星・金星・海王星あたりが「詩」と深く関係し
「特に海王星は、リズムや音楽、イマジネーション、
夢、無意識下の記憶などと関係が深い」
12星座でいえばこの1月20日から太陽が水瓶座に入るが
「特に1月後半から2月頭は、
金星と土星が西の空に燦めく、非常に美しい夕景となる」
いわゆる科学者は
占いを科学的ではなくナンセンスだとしていたりもするが
そんな美しい夕景のなかで
星たちの詩に耳を傾けることを
ナンセンスだと片づけることはできるだろうか
この「星占い的思考」での連載を含んだエッセイ集
『星占い的時間』が先日刊行され
その著作についての石井ゆかりのエッセイが
同じく『群像』に掲載されているが
『星占い的時間』に収められている
エッセイ「「占い」と「呪い」のあいだ」にふれ
その「実に不思議な現象」について示唆されている
「科学者などが占いも呪いも
「ないない」と言いまくると、
占いも呪いも、実は力が強くなる」
逆に「文学者や心理学者が
「占いも呪いもある」と言ったとたん、
幽霊に強烈なサーチライトをあてたような状態になり、
誰も占いをしなくなる」
というのである
おそらく「占い」は「裏綯い」であって
意識に対する無意識領域にあたる
その「無意識」を否定すればするほど
その「無意識」の働きが強くなり
逆に「無意識」に光を当てれば当てるほど
その働きのもつほんらいの力を弱めてしまう
そういうことではないだろうか
その意味で石井ゆかりは
「占いを書いて、いいのだろうか、
という問題が、私の頭にはいつも、
もやもやとまとわりつき、充満している。
これは悪いことではないか、という思いがいつもある」
と言っているのではないだろうか
むずかしい問いだといえる
「詩」は「科学」ではなく
「文学(散文)」でも「心理学」でもない
「占い」には「詩」こそふさわしい
「天空の歌」は
「翼」を持つ「詩」であり
わたしたちの内なる弦を奏で
ともに歌うものだからだ
■石井ゆかり「星占い的思考 59 天空の歌」(『群像』2025年2月号)
■「本の名刺『星占い的時間』石井ゆかり(同上)
■石井ゆかり『星占い的時間』(講談社 2024/11)
■マーニーリウス (竹下哲文訳)『アストロノミカ』
(講談社学術文庫 2024/11)
**(石井ゆかり「星占い的思考 59 天空の歌」)
*「(マーニーリウス著 竹下哲文訳『アストロノミカ』 講談社学術文庫)
〝そして、この詩を天空に聞かせて
星々を驚嘆させ、宇宙を詩人の歌で喜ばせよう。
あるいは、星々の聖なる運行を知ることが許された者たちのために、
地上におけるごくひと握りの集いのために歌おう〟
現代では「音読」は、主にこどものやることと考えられている。しかし、人々が主に黙読をするようになったのは、結構最近だという。たとえばアウグスティヌスの『告白』には、アンブロシウスが黙読をしているのに驚くシーンがある。」
「引用書は2024年11月、初のラテン語原典からの全訳として刊行された。即予約した。私はマニリウス(私はこの呼び名が口についてしまっているので敢えてこう書く)が好きなのである。白水社刊行のフランス語からの翻訳を読み、愛着を懐いた。この「愛着」にはささやかなワケがある。マニリウスは、自らが詩人であることに誇りを持ち、天空の美しさや神聖な宇宙の理法を寿ぐのみならず、占いのやり方やややこしいホロスコープの計算法まで詩で表現した。さらにこの書は、星占いの技術を解説する本としては珍しく、12星座をほぼ主役においている。現代でも、一般に星占いの教科書ではどちからと言えば惑星やハウスが主役だが。敢えて星座に限って一冊をものした。そして、私の書く占いはしばしば「ポエム」と揶揄された。もちろん、マニリウスと私ではそれこそ天と地ほどのレベルの差があるが、それでも私は、地べたは地べたなりに、星に憧れるような親近感を勝手に懐いたのである。」
「改めて彼の「詩」に触れ、引用部にはっとさせられた。ローマ時代の宴会のシーンを描いた絵画が思い浮かんだ。寝椅子に寝そべりながら飲食する、耽美で退廃的な会合のイメージである。また、プラトンの著作によく出てくる「君、ちょっとそれを読んでくれたまえ」みたいなくだりを思い出した。大プリニウスも、秘書にずっと本を音読させていたという。マニリウスの「詩」は音読を前提に書かれていたのだ。それも引用部のように、愛好家の「集い」の場で朗朗と読まれることを想定して書かれていたのだ。私はそのことに気づいていなかった。」
「もちろん、音読するのは「詩」でなくともよい。しかし、詩文の美しさ、心知良さには、メディア性がある。現代の日本社会では「ポエム」は嘲笑的な謂であり、詩は大切にされていない、と思っていたのだが、昨今、谷川俊太郎の訃報が流れたとたん、SNSで多くの人が、詩を呟き始めたのである。「この詩が好きだった」と書く人たちのなかには、出典を参照せず、暗誦したものを書いている人も多かったはずだ。詩だからこそ、そうなる。人々の心に広まり、留まり、さらにその先の世代に復唱されていく可能性となる。小鳥たちが果樹の種子を運ぶように、心から心へ、口から口へ、詩が運ばれていく。言葉に翼がついている。」
*「星占いの世界で「詩」と関係が深い星は、水星、金星、海王星あたりである。特に海王星は、リズムや音楽、イマジネーション、夢、無意識下の記憶などと関係が深い。特に1月後半から2月頭は、金星と土星が西の空に燦めく、非常に美しい夕景となる。詩人の訃報に接して思わず詩を呟いた人々の多くは、自分の中にその詩が刻まれている、ということに普段は気づかずにいたのではないか。リズムや音楽は私たちの中に入り込んで、私たちに乗って、別の場へ、別の時間へ運ばれていく。古代の占星術の主要な文献の多くは失われている。僅かに残る断片をパズルのように組み合わせて、研究がなされている。そんな中、詩人の天空の歌が時空を超え、まとまった形で今の私たちの手元に届いたのも、研究者たちの不屈の尽力はもちろんだが、詩に備わるメディア的な力、韻文の美という力に負うところが、けっこうあるのかもしれない。」
**(「本の名刺『星占い的時間』石井ゆかり)
*「今回の『星占い的時間』に、「「占い」と「呪い」のあいだ」という一篇を収録した。」
「呪いはあるのか、それともないのか。
多分、「ある」と言っていい場があるのである。しかしそこには、呪いは「ない」のである。一方、呪いが「ある」とは言えない場がある。そこには、呪いは「ある」のである。占いもそうで、「占いはアリだ」と言ってしまったら、占いはもう、効力を失って、なくなってしまう。一方「占いなどインチキだ」と言った瞬間、占いは亡霊のように効力をまとって背後に現れるのである。オカルトとはそういうものなのだ。科学者などが占いも呪いも「ないない」と言いまくると、占いも呪いも、実は力が強くなる。文学者や心理学者が「占いも呪いもある」と言ったとたん、幽霊に強烈なサーチライトをあてたような状態になり、誰も占いをしなくなるのである。実に不思議な現象である。異論は認める。」
*「占いを書いて、いいのだろうか、という問題が、私の頭にはいつも、もやもやとまとわりつき、充満している。これは悪いことではないか、という思いがいつもある。」
「『星占い的時間』は「群像」での連載を2年分まとめたもので、その間世界は戦争のニュースで持ちきりであった。「今はこんな星の動きで、世の中はこうです」といった内容のエッセイであったから、エッセイも戦争の話で持ちきりになってしまう。人間が人間に対して行う理不尽な残虐行為、それを支援する大国の理不尽を見つめ続けると、きつねでなくても「ほんとうに人間はいいものかしら」(新美南吉『手袋を買いに』)という気持ちになる。子供達を虐殺するイスラエルと、その肩を持つ自国政府に対し抗議運動をした学生達が警察にひったてられるニュースを見て「ほんとうに人間はいいものかしら」となる。ぜんぜん、いいものではない。善悪とか、倫理とか、そんなものがざくざく相対化される。どこでも、書いてはいけないこと、言ってはいけないことだらけである。もはやなにを書けばいいのか、目が眩むような思いがする。物書きとは一体、なんなのだ。」
**(「マーニーリウス (竹下哲文訳)『アストロノミカ』 )
・宇宙の起源(第一巻)
*「詩は天の高みから降りてきて、
運命の確固としら掟もそこから地上に等来するゆえに、
私はまずほかならぬ自然の姿形を歌い上げ、宇宙の全容を
その実際どおりに綴らなくてはならない。
ある説では、宇宙の起源はいかなるものにも溯ることばく
誕生を欠いており、常に存在したばかりか
これからも存在し続け、始まりも終わりもないとされる。
あるいは、遂古のはじめ、渾沌とした事物の始原を
空隙(カオス)が出産により截り分けて、耀く宇宙を生み出し、
暗雲は押されるままに冥府の闇に逃れたという説もある。
あるいは、やがて解体されて同じものへと戻ってゆく自然は、
不可分な原子によって千古のあとにも存続し、
事物の総体は実質的に無から成り、無であり続け、
覆載は目に見えぬ素材で造られたという説もある。
あるいは、この作品〔宇宙〕を生んだのは揺らめく火炎であり、
それらは天の眼〔星々〕を作り、宇宙全体を宿として、
空に閃く雷電を造出するという説もある。
あるいは、水こそが宇宙の親であり、万物の素材が干乾びるのを防ぐと共に、
それを解体する火さえも呑み込むとする説もある。
あるいは、地も火も大気も水も生みの父を知らず、
むしろこれら四つが元素となって神性を作りなし、
天球を組み上げたのであり、それ以上の探求は
許されない————なぜなら、それらは自分自身であらゆるものを創造し、
熱には冷気が、湿気には乾燥が、固体には気体が対になっていて、
適切な結合と生成の働きを作りなしつつ、
元素にあらゆるものを生み出す力を授けるこの不調和は
調和的なものだから————とする説もある。」
・宝瓶宮(第四巻)
*「甕を傾けて水を注ぐあの若者の姿をした宝瓶宮も
自身と縁のある仕事を授ける。
すなわち、地下の水源を見つけてそれを地上に引き上げること、
水の流れを転じさせ、星々にまで飛沫を散らすこと、
贅沢のために真新しい岸辺を拵えて海を弄ぶこと、
種々さまざまな人工の池や川を造ること、
遠方から流れてきた水を家々の上に架け渡すことだ。
この宮に宿る無数の技術は水の支配下にある。
なるほど、水は天の様子や星々の布置さえ動かし、
空を新たな球の内に廻らせることだろう。
〈いついかなる時も宝瓶宮の子が倦むことなく取り組むのは、〉
水を得るために生まれ、水源を目指す仕事。
この宮から涌き出るのは穏やかな性質のやさしい子で、
心根には汚れがなく。損害を被りやすい。
その財産には過不足がない。そんなふうに瓶からは水が流れ出るのだ。」