若林 幹夫『ノスタルジアとユートピア (クリティーク社会学) 』
☆mediopos2700 2022.4.8
ノスタルジアとユートピアは両義的である
それは〈いま・ここ〉からの自由の可能性であるとともに
〈いま・ここ〉の喪失でもあるからである
その意味では〈いま・ここ〉もまた両義的である
おそらくわたしたちは
ノスタルジアとユートピアをもちながらも
それを超えていかなければならない
本書はノスタルジアとユートピアという視点から
いわば蛸壷状態のような〈いま・ここ〉の
その少し先へと歩みだすための視点を与えてくれる
ノスタルジアとユートピアは
〈いま・ここ〉には(すでに/まだ)ない
〈他の時間〉〈他の空間〉において
「じぶんたちがそもそもあるべき、
〝よりよい状態〟や〝理想的な状態〟」を求めるものだ
〈いま・ここ〉は〈一〉であることのなかにあり
ノスタルジアとユートピアは
〈いま・ここ〉だけではない〈二〉として現れる
〈一〉は〈あること〉そのものであり
〈二〉は〈あること〉をある意味で否定し
〈あるべきこと〉を求めるがゆえの〈二〉である
かつて多くの社会や文明では
〈二〉によって「社会の地形が形成されてきた」が
近代になり〈進歩としての歴史〉における
〈未来〉という意味でのユートピアが志向されるとともに
「〈いま・ここ〉に〈あること〉を支えてきた伝統が
進歩によって解体されることへの不安」から
「進歩への対抗ユートピアとしての保守主義の理念」が生み出され
それによってさらに
「ネーションと国民国家」が「進歩主義的なユートピアと、
進歩主義への反動としてのノスタルジアを結びつける」ことになる
そしてさらに現代においては
そうした意味でのユートピア/ノスタルジアの
リアリティとアクチュアリティはすでに失われ
「ポストユートピア的状況」が訪れている
つまり「〈いま・ここ〉に〈あること〉と、
その〈あること〉の延長線上の〈あり続けること〉が、
〝唯一の現実〟であるという現実主義(リアリズム)が、
世=界の体制において支配的になってい」るのである
もちろんその意味での〈いま・ここ〉に〈あること〉は
永遠の今といったあり方とは対極にある
〈いま・ここ〉に幽閉されている状態にほかならない
資本主義もまた「つねに〈あるものではないもの〉を求め、
あるいは産出し続け」ていくわけだが
そのユートピア/ノスタルジアは
「〈他の時間〉や〈他の空間〉にあるものと
〈いま・ここ〉にあるものとの差異において
利潤を追求」していくだけのもので
〈いま・ここ〉に幽閉されていることに変わりはない
現代において「自傷行為やテロのような
受苦や暴力性をもった行為への志向」がみられるのも
幽閉状態である〈いま・ここ〉を超えるために
〝私の身体〟を暴力的に毀損し廃棄=死することのなかに
「確実な強度をもった現実」を見出そうとするからである
ナショナリスムや宗教的原理主義もその延長線上にあり
「自分たちにあるべき〝本質〟や〝本来性〟を求め」
「それらと一体化することによって、」
〈あること〉の中に〈あるべきこと〉を顕現させようとする」
ノスタルジアとユートピアは両義的である
おそらくそれらは一度獲得されながら
喪失するプロセスを経なければならない
「〝本質〟や〝本来性〟を求め」ようとすると
そこにはさまざまな陥穽があるからだ
喪失することではじめて得られる
そんな自由へと開かれなければならないだろう
故郷喪失者であることでひらかれる可能性は
失われた故郷を探し求めることにはなく
それを超えてゆくことにこそあるのだから
■若林 幹夫『ノスタルジアとユートピア (クリティーク社会学) 』
(岩波書店 2022/3)
(「第2章 〈あること〉と〈あるべきこと〉」より)
「①多くの社会や文明で、今現在自分(あるいは自分たち)が存在する〈いま・ここ〉の外側の〈他の時間〉や〈他の空間〉に、じぶんたちがそもそもあるべき、〝よりよい状態〟や〝理想的な状態〟があると考えられ、そのような状態にさまざまな形象--------楽園や永遠やさまざまなユートピア--------が与えられて、社会の地形が形成されてきた。
②そのような〝よりよい状態〟や〝理想的な状態〟から外れた欠如態である〈いま・ここ〉において、楽園や永遠やユートピアを求めるノスタルジアの感情が、人間とその社会が世界に存在することの実存的な感覚として存在してきた。
③そうした世=界の体制の下にある社会の地形において、〈いま・ここ〉やそこにあること、そこで生を営むことの意味が、〈いま・ここ〉の外部の〝よりよい状態〟や〝理想的な状態〟との関係において理解され、評価され、意味づけられてきた。
自分たちが存在し、生きている〈いま・ここ〉が、本来自身があるべき/ありたいと思う状態から外れているという世界のリアリティと、それゆえそのような状態に戻りたい/到達したいと願いながら、それがすくなくとも〈いま・ここ〉におおいてただちには困難あるいは不可能であるという生のアクチュアリティ。ユートピアへのノスタルジアにアクチュアリティを与えているのは、〈いま・ここ〉に存在することが人間や社会の本来あるべきあり方の欠如した状態であるという、多くの社会や文明に普遍的に見出されるそんな存在感覚と世界感覚である。〈他の時間〉や〈他の空間〉にノスタルジアの対象となるようなユートピア的な時や場を位置づけ、それらとの関係において〈いま・ここ〉を位置づける世=界の体制の基底には、そのような存在感覚と世界感覚が存在しているのだ。」
(「第3章 〈他の空間〉から〈他の時間〉へ」より)
「近代に支配的となった世=界の体制は、地上や天上の楽園も、始原の豊かな世界や、世界の終末の後の永遠の幸福も社会の地形から追放し、地上の〈いま・ここ〉と、過去から現在にいたる〈歴史の現実〉----近代的な意味での歴史の現実----、そしてその先の〈地上の未来〉からなる社会の地形のみを〝現実〟とし、そうした現実において未来を作る主体として、人間とその社会を社会の地形の上に定位させた。」
「進歩主義と保守主義は、そして近代における時間化したユートピアとノスタルジアは、歴史化し現実化した社会の地形を生きる人間と社会の、〈いま・ここ〉を超えるものへの憧れの形である。そこでは社会の地形が、過去から現在を経て未来へと至る〈歴史の時間の地形〉を基盤とするものとなったのである。」
(「第4章 〈進歩〉の中のユートピアとノスタルジア」より)
「ヨーロッパにおいてナショナリズムは、十八世紀という「宗教的思考様式の黄昏」の時代に夜明けを迎え、啓蒙主義と合理主義的世俗主義の時代に、宗教的なものに代わって世界に意味とリアリティを与えるものとして、政治的のみならず文化的な重要性を高めていった。それは、西欧においてユートピア文学が成立し、流行し、そこで語られるユートピアのありかが〈他の空間〉から〈他の時間〉へと転位していった時代の中におさまっている。国民国家が近代における社会神話としてのユートピアであるとするマンフォードの指摘と、このことは整合する。ここでの考察にとってさらに重要なことは、ナショナリズムの誕生と流行が、スイス人に特有の病として発見されたノスタルジアが他の諸国民の間にも流行し、その対象が故郷という〈他の空間〉から過去という〈他の時間〉へと移行していった時代とも重なっているということである。」
「〈進歩としての歴史〉における〈未来〉というユートピアは、社会の構造を変え、地域社会の環境や風景を変え、人間と社会をかつてそれらが帰属していた場所から社会的にも物理的にも切り離していく近代化の過程を、〈あるべきこと〉へと向かう過程として社会の地形の上に位置づけるものだった。だが、マンハイムが近代におけるユートピアのひとつとして保守主義の理念をとりあげたように、〈いま・ここ〉に〈あること〉を支えてきた伝統が進歩によって解体されることへの不安は、進歩への対抗ユートピアとしての保守主義の理念を生み出すものであった。ナショナリズムは、進歩主義のまなざしの中では未来のユートピアと共に進む共同体としてネーションと国民国家を想像することを可能にする。だがそれはまた、保守主義のまなざしにおいて、神話的な過去から続く歴史と伝統の連続性の中で〈いま・ここ〉を了解することもまた可能にしたのである。かくしてネーションと国民国家は、進歩主義的なユートピアと、進歩主義への反動としてのノスタルジアを結びつける。」
(「第5章 (一)になった世界」より)
「ポストユートピア的状況とは、〈いま・ここ〉を超えた〈あるべきこと〉が実現するユートピアが未来において実現すること、あるいは、それはまさに実現しつつあるのではないかということを、リアルかつアクチュアルなものとして感覚できた時代が終わった、その後の状況のことである。それは、〈いま・ここ〉に〈あること〉とは異なる〈あるべきこと〉が、〈いま・ここ〉を超える社会の地形のどこかに存在しうる、あるいは実現しうるというリアリティとアクチュアリティは低下して、その結果〈いま・ここ〉に〈あること〉と、その〈あること〉の延長線上の〈あり続けること〉が、〝唯一の現実〟であるという現実主義(リアリズム)が、世=界の体制において支配的になっていく状況である。
資本主義が原理上、〈他の時間〉や〈他の空間〉にあるものと〈いま・ここ〉にあるものとの差異において利潤を追求するものである以上、グローバルな資本主義の空間は、つねに〈あるものではないもの〉を求め、あるいは産出し続ける。その〈あるものではないもの〉は、市場において求められ、獲得され、消費されなくてはならないから、それらが求められ、獲得され、消費されるその都度、それを求め、獲得し、消費する者(たち)にとっては〈あるべきもの〉としての様相をとる。だからそれらはその都度のユートピアであり、ノスタルジアの商品化と産業化が示すように、その時々にノスタルジアの対象であることもある。けれどもそれらは、求められ、獲得され、消費される〝その都度限り〟でユートピアやノスタルジアの対象であればよく、一定の社会的な広がりをもった人びとにとって共通の〈あるべきこと〉である必要はない。」
「自傷行為やテロのような受苦や暴力性をもった行為への志向が、現代の社会に特徴的なものとして現れるのはなぜだろうか。それは、〈いま・ここ〉を超えるものへの展望が十分なリアリティとアクチュアリティをもちえなくなったとき、個々の人間にとって〝私の身体〟こそ/のみが----そしてそれに対する暴力的なその毀損や廃棄=死こそ/のみが----〈いま・ここ〉においてもっとも確実な強度をもった現実として見出され、現れるからである。」
「ナショナリズムや宗教原理主義の高まりも、自傷行為やテロについてのこうした理解の延長線上で理解することができる。
ナショナリスムも宗教的原理主義も、近代化し合理化した社会や、近代の諸原理がさらに高度化したグローバルな社会という、より新しくより普遍的であることを標榜する集合性の層(…)の下にある、より根源的で恒常的な、共同体の〝肉〟や〝骸骨〟をなすとみなされるものの中に、自分たちにあるべき〝本質〟や〝本来性〟を求め、それらを呼び起こし、それらと一体化することによって、〈あること〉の中に〈あるべきこと〉を顕現させようとするものだからである。今日におけるナショナリズムや宗教的原理主義の台頭は、グローバル化した資本主義と情報のネットワークが生み出した〈一つになった世界〉の中で、相互に排他的な歴史と文化、文明によって宿命的に分割されてきた社会の地形こそが、〝本当の現実〟であるとして、それぞれの社会や文化をその〝現実〟の側に定位させてゆこうとするのである。」
(「終章 再び〈二〉または〈多〉である世界へ」より)
「一つに閉じられ、また開かれたこの世界において、同じ人類として〈あること〉と、同じ言語や文化や歴史の中に〈あること〉、生き方や志向の共鳴において共に〈あること〉を、相互に関係づける〈あるべきこと〉のイメージを、〈現存しない・理想的な・社会についての・イメージ〉として、そしてまた人間という存在の本来的なあり方として構想すること。そうした構想が決して完全に実現しないとしても、その実現を希望する意志と感性を共有し、そのような意志と感性によって、経済や科学や技術を無限の成長への執着から解放すること。それらのことができるなら、グローバルに一つになった世界は〈一〉ではなく、再び〈二〉あるいは〈多〉である世界となるだろう。」
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