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近藤和敬『人類史の哲学』

☆mediopos3573(2024.8.31)

近藤和敬の『人類史の哲学』は
人類史を哲学から問い直し
哲学を人類史から問い直すために
「自然、人間、そして社会の形成の基礎を問い、
近代の自律/他律を超える〈異律〉という原理から
人類史を再構成し、学問=知そのものを問い直す」という大著だが

そのなかから「序論」において論じられている
本書のテーマを展開する前提となっている
思考の自由を得るために不可欠な
「価値の批判としての哲学」をとりあげる

哲学のなしうることは
「人間の思考の自由を拡張すること、
人間の思考をそれまでよりも自由にすること」である
というところから論じ始められるが

「われわれの思考は常に不自由だ」という

いうまでもなく「思考の自由」とは「連想の自由」
つまり「なんでも好きに考えてとい、
という放任の自由」のことではない

思考の自由とは「力であり、肯定であり、変化」であり
また「戦い」であると同時に「逃走」であるが
「征服戦争ではない」という(そこに自由はないから)

そのためには「自らの思考の不自由を認識」し
「次いでそれを他者と共有すること」が求められる

現代における「思考の不自由」はどこにあるかといえば

まず「全体化=反孤立化」が挙げられる
「「みんなで一緒に」の精神」であり
孤立化することへの恐れである

次いで「相互承認=反非承認」
「お互いに認めあおう」の精神
つまり承認欲求あるいは承認されないことへの憎悪と恐怖

そして「表面的善意
あるいはパターナリスティックな易しさ=反難しさ」
「みんなにひらかれたやさしさ」の精神
つまり「相手のためを装いながら、
自分を含めて別のものの利得を同時にその原因として、
しかし往々にして無自覚な仕方で滑りこませるような意志」である

これらの「精神」は
「学校の教育現場をはじめとし」
大学・企業での活動や様々な社会活動においても
「よいこと」の典型として推奨されている

しかもこれらの諸価値が働けば
そこから「零れ落ちていくもの」は
「自己責任」として切り捨てられることになる

これらの「精神」を無前提に「価値」として受け取り
「それらの価値によるのではない仕方で思考する」ことが
できなくなっているというのだが

思考の自由とは
そうした「自らの思考の不自由を認識」することからはじまる

そして思考の自由を拡大するためには
「既存の価値の認識と、その価値の相対化と、
それとは異なる価値の創出およびその価値に従って
一貫した思考の実践」が必要となる

「われわれの思考を動かしている原因とそのメカニズムを
客体として把握することによって、
その原因の束縛から自由にはなれないまでも、
その拘束性を弱めること」ができる

自由な思考とは
その名のとおり
自由に考えることのできる思考である

自由にというのは
じぶんがとらわれている
あるいは無前提に価値としているものをはなれ
別の価値へもひらかれているものでなければならない

「そういうものだ」ではなく
「そうでなくてもいい」ことを
どれだけ豊かに深く考えることができるかである

考えることができないと思い込んでいることを考える
想像できないと思い込んでいることを想像する
つまり今のじぶんの思考を見つめなおし
それが檻のなかにあることに気づき解放することで
どれだけ育ててゆけるかが鍵となる

■近藤和敬『人類史の哲学』(月曜社 2024/1)

**(「序論」〜「第一節 哲学、社会、価値」)

・価値の批判としての哲学————思考の自由のために

*「哲学のなしうることとはなにか。哲学の貢献とはどこにあるのか。それは人間の思考の自由を拡張すること、人間の思考をそれまでよりも自由にすることである。哲学は知識であるよりもまえに営みであり、実践であるのは、哲学は思考をより自由にするという実験的で集合的な実践だからだ。」

「われわれの思考は常に不自由だ(・・・)。おそらく現代の多くのひとはそうは思わないだろう。むしろわれわれの思考は以前にもなして一層自由だと実感しているだろう。宗教的拘束も以前より弱くなり、社会的束縛も以前に比べれば弱くなったと感じているだろう。」

「思考の自由とは、しばしば誤解されるように、なんでも好きに考えてとい、という放任の自由のことではない。まぎらわしいが、このような放任の自由のことを、「連想の自由」とでも呼んでおこう。それにたいして思考の自由とは、力であり、肯定であり、変化だ。それは戦いであり、したがって、戦闘であり、同時に逃走である。しかしそれは征服戦争ではない。(・・・)なぜなら、そのような戦いに自由はないからだ。

 思考の自由を押し広げる戦いの最初の一手は、自らの思考の不自由を認識すること、次いでそれを他者と共有することにある。では、これほどまでに創造性が叫ばれ、表面的には自由が大きくなっているようにみえる現代において、思考の不自由はどこにあるのか。

*「まずは全体化という価値である。孤立化すること、バラバラになること、一致しなくなることへの恐れと嫌悪である。要するに分散化するオートノミーへの低評価といってもよい。分散化するオートノミーへの嫌悪と全体化と交通(コミュニケーション)への熱望は、表裏一体のものであって同じ価値の配置に属する。」

「次に、相互承認である。これは全体化と常にポジティヴな影響関係にある。人間は互いに助け合いながら、相互に認め合い、一致団結して困難を乗り越えてきたのだ、というフィクショナルな美談のなかに前提される価値であり、全体化と同様にそれ自体が思考を向けさせる方向性である。それは反対からみれば、承認されないもの、承認を拒むものへの憎悪であり、恐怖である、そして承認を求めるものと、承認を与えるもののあいだのネズミ講的な、末端まで系列化された巨大なツリー構造へ参加することを掻き立てる熱狂である。」

「最後に、表面的な善意という価値の支配がある。表面的な、とあえて譲歩的な装飾を残したが、一般に善意と思われているようなもののほとんどすべてに含まれる疚しさであり、自己欺瞞である。なぜなら真の善意は、たんなる肯定の意志に過ぎないからであり、それは昨今において普通、善意とは呼ばれないからだ。善意とは善とは異なるが、表面的な善意とは、善さを求める意志としての善意とも異なる。善さを求める意志は、残酷であり、容赦がなく、苛烈なものなのであって、安易に近寄ることを許さない。なぜなら、善とは、稀なものであり、そこに至る道は峻厳にして困難だからだ。したがって善を求める意志は、その厳しさと困難を身に宿すことになる。それに対して表面的な善意は、相手のためを装いながら、自分を含めて別のものの利得を同時にその原因として、しかし往々にして無自覚な仕方で滑りこませるような意志である。表面的な善意は悪ではない。たんにそれは善意ではないというに過ぎないし、それが求める利得も善ではないというだけだ。善とは終局であり、すべてのものの目的であり、それらの終わりである。」

*「思考の自由の拡大とは、既存の価値の認識と、その価値の相対化と、それとは異なる価値の創出およびその価値に従って一貫した思考の実践にほかならない。」

「なぜこんなことをいうのか。それは、第一に、われわれのほとんどは、そもそも自分たちの思考が価値によって縛られていることを知らないか、知っていても認めたがらないからにほからない。」

「ここでいう「価値」は単なる「認知バイアス」とは異なる。「認知バイアス」とは、どちらでもよいことにかんして、どちらかを選択するような傾向性であると理解することができる。(・・・)それに対して価値とは、どちらでもよいのではなく、そちらでなくてはだめだという力が発揮されることに特徴がある。」

「「認知バイアス」や「認知の歪み」と呼ばれるものは、すでに相対化がなされているがゆえに、集合的なものではなく、個人的な思考の次元にその範囲が縮減されている。しかしそれに対して価値は、客体的であり、思考の個人的な側面よりもむしろ集合的な側面に強くかかわる。思考は一人ではなすことができない。 なぜなら、思考は最終的には言語を介して他人に理解されるのでなければならず、他人に理解されることを意図してなされるのでなければならないからだ。」

・価値と論理

*「人間の思考は論理を骨組みとしているとしばしばいわれる。」

「どれほど思考の形式が論理的であったとしても、偏った推論というのはありうる、ということは容易に認められるだろう。」

「要するに、論理は、価値を判断できないのだ。しかし価値は、思考を強制する力をもつ。ということは、論理は、この思考を強制する力にたいしては無力だということである。」

*「価値とは客体的なメカニズムあるいは少なくともそのようなメカニズムの結果=効果であり、価値を批判するとはそのメカニズムを理解するということである。それとは違う仕方で思考するとは、まずはその価値から離れたところで思考することを可能にする別の価値のメカニズムを生き、思考するということでしかない。それを繰り返せば、あらゆる価値から自由になれるかといえば、価値は同時に思考の可能性の条件でもあるので、そもそもそれは思考の不可能性にしか至らない。大事なのは一かゼロかではない中庸を知ることであり、現実に価値の批判を活かすことである。価値にしたがって思考することそれ自体を否定するのではなく、知らないうちに特定の価値にしがたって思考する傾向にある自分の思考のメカニズムを理解し、その理解にもとづいて、現に字通に思考することにこそ価値の批判の目的というものがあるのだ。」

**(「序論」〜「第二節 学問と価値」)

・価値の批判がもつ学問における意味

*「学問のすべては価値と結びついているとまでは、いまは主張しない。とくに非常にミクロなレベルの物質のメカニズムに関するきわめて限定された領域の学問になればなるほど、価値というものが入りこむ余地はなくなっていくようにみえる。そういうものが入り込んで認識を汚染しないように、科学者たちは万全に防疫対策をとっているといえるだろう。しかし、学問全体でみたときはどうだろう。価値の批判が必要になるのは、本当はわからないのにわかったことにしてある箇所を突破しなければならないときではないだろうか。要するに、本当はどうなのかわからないが、そういうことになっているからそうであろうと高をくくっているというのが、学問全体のなかでどこにもないとはたしていえるだろうか。

 少なくとも哲学のなかには、本当はどうなのかわかなないが、そういうことになっていることというのはいくらでもある。」

*「人間科学のような学問分野に価値が入りこむのは、一定程度仕方のないことだろう。しかし仕方がないからといって、その価値にもとづく判断が、学問として妥当であるとはいえない。むしろ入りこんでいるかもしれない価値の批判をつねに検討し続けることが、そのような学問にとって決定的に必要なこととなるだる。これが二〇世紀の人文学が極めて迂遠で複雑になっていった理由を説明してくれる。しかしそれなのに、それをあたかも学問的認識の帰結。すなわち正しい認識であるかのごとく提示してしまうところに危険性が潜んでいる。そしてその危険性は、提示するものが無自覚であればあるほど、より厄介なものとなる。ここでもやはり論理と価値が無差別に扱われてしまっている。

 それだけではない。現代の自然科学は、自然という極めて広大にして複雑な現象を、自然科学的手法によって精密に認識するために、それを様々な限定されたレイヤーに分割し、その分割してレイヤーのなかで現象の再現性や法則性を追い求めてきた。しかし、その結果その異なる複数のレイヤーをつないで、自然の全体像を回復させようとすると、どうしてもそのレイヤーのあいだをつなぎなおす綜合の作業が必要になってくる。ここにわからなさと同様に価値が入りこむ隙間が生じることになる。」

・学問における価値の問題

*「百年以上も前から文化人類学が自己批判を繰り返しながら試してきたように、同じ時代の同じ地球に住んでいる人間同士でさえ、生活する社会体が異なれば、自分たちの社会体でもちいられている概念をもちい、そこで作動している価値に依拠しながら、異なる社会体に属する人間たちの振る舞いを理解することは容易ではない。それなのに、なぜ数万年から二〇万年もまえの人間のことを理解しようとするのに、現代のわれわれが生きている社会体において意味をもつような価値や概念でもってそれを理解できるというのであろうか。」

*「〈物語=ヒストリー〉に意味の一貫性を与えるのは、価値の配置である。そして現代の社会において現に機能している価値の配置は、その社会体のなかで生きるわれわれにとって説得力をもちうる。なぜなら、現にわれわれはそのように思考するからだ。このとき〈物語=ヒストリー〉を語る側が、そのことを自覚しているかどうかが実のところもっとも問題である。説得力を求めた結果、既存の価値の配置に無自覚に依拠したのであれば、それは単に自分たちの姿を〈物語=ヒストリー〉という鏡に映したにすぎない。しかし、そうだとすれば、どのように語れば、その価値の配置を含むような〈物語=ヒストリー〉を語ることの正当性をえることができるのだろうか。

 もっとも単純だが、たしかに有効なのは、決して〈物語=ヒストリー〉を紡がないという禁欲主義的な学問態度に徹することである。(・・・)たとえ、良心的な学者が決して〈物語=ヒストリー〉を語らなかったとしても、社会は自分たちを映し出した〈物語=ヒストリー〉を求め、それを語る依り代を求めるだろう。そのとき、学問は、禁欲主義を貫くのであれば、その依り代によって語られたことにたいして無力なままである。

 そうであれば、何ができるというのか。それは、かつて、ニーチェや、ニーチェから影響を受けたフランスの歴史哲学者のミシェル・フーコーがそうしたように、価値の批判のための装置としての〈物語=ヒストリー〉を生み出すことに他ならない。したがって、そこで語られる〈物語=ヒストリー〉は、学問的心理を語るのではなく、一種の〈サイエンス・フィクション〉でなければならない。なぜなら、それを語らしめているのは、学問的真理ではなく、価値の批判と、異なる価値の外地による〈物語=ヒストリー〉であることを自覚しているからだ。」

「その価値の配置ではない仕方で配置された価値のなかで語ることもまた同様にできるということを、この〈サイエンス・ファクション〉としての〈物語=ヒストリー〉は示すことによって、真実を批判するのではなく、真実をつなぎあわせているところの現に作動している諸価値の配置を批判するのである。そしてそのことを通して、批判される価値の配置の外で思考することが可能になる。これが価値の批判としての〈物語=ヒストリー〉、すなわち「系譜学」である。」

・価値の批判としての哲学と相対主義批判

*「現代の価値のなかには、一九世紀のヨーロッパ以来ずっと問題としてあり続けた「科学主義」というものがある。すなわち、真実を明るみにだし、それを語ることができるのは、科学のみであり、科学によって語られたことを信じることが良き市民の義務である、という価値だ。この価値を批判するのはかなり困難と危険が伴う。」

「「科学主義」が陰謀論をもたらすのではなく。「科学主義」の高まりがもたらす閉塞感が、その単純な否定であるところの陰謀論への欲求を生み出し、支えているということだ。だから、陰謀論に対して科学主義的な価値判断を対抗させるのは、しばしば実際になされているにもかかわらず、実のところ目覚ましい効果をあげることはない。その燃え盛る炎にさらなる燃料を投下することになるだけだからだ。」

*「相対主義は、なんらの価値の肯定もできない、なぜなら相対主義を原理的に受け入れるなら、あらゆる価値は相対的なものに過ぎないからだ、という反相対主義陣営からしばしば提出される批判は、相対主義を必要以上に矮小化したものだといわなければならない。なぜなら、そもそも相対主義は、価値の批判においてもたらされた一定の持続期間をともなう状態にすぎないからだ。絶対的な相対主義など、人間には不可能であるし、そのような立場をもたらすことは、価値の批判の最終目的ではない。」

*「価値の批判と普遍性の希求は確かに矛盾する。だから普遍性を希求する側からすれば、価値の批判は相対主義、すなわち普遍性の否定に他ならないということになるのだろう。価値の批判を必要とする側からすれば、普遍性というのは、常に、現に作動している諸価値の外にあるものによる妥協と従順を引き出すことを前提とするのだから、それに強力することは、結局のところ、既存の価値の外にあるものたちを既存の価値序列の下位のもんであるままにするということである。しかし、これこそが、普遍主義を装った植民地支配の論理でなくてなんなのか。

 価値の批判は、したがって戦いであり、戦闘行為であることにならざるをえない。しかしそれゆえにこそ、価値の批判は現代において一層避けられることになる。争い自体を悪とすることもまた現代諸価値の一つであるからだ。それは必要な争いすらをも、それとして判断することなしに悪として退けることを許すという点で、一つの価値の働きである。つまり価値の批判は、まったくもって反時代的なのだ。しかしだからこそ、それは必要であり、可能でもある。なぜなら、ニーチェ以来、すべての価値の批判は、反時代的であったのだから。」

**(「序論」〜「第三節 現代の価値の布置」)

・現代の諸価値の問題

*「現代の諸価値を理解することには何の意味があるのか。それは、われわれの思考を動かしている原因とそのメカニズムを客体として把握することによって、その原因の束縛から自由にはなれないまでも、その拘束性を弱めることである。」

*「では、現代の諸価値とはなにか。それをここですべて列挙することはできずはずがない。しかしその一部、少なくとも把握されうるものをここでは挙げて、その配置のあいだの関係性を理解しておこう。それは要するに、市場-資本と切り離しがたく結びついた社会体において作用する価値の体系であるということになるだろう。

 最初に挙げた三つを再び取り上げよう。

1.全体化=反孤立化。
2.相互承認=反非承認。
3.表面的善意あるいはパターナリスティックな易しさ=反難しさ。」

「1の全体化は、たとえば「みんなで一緒に」の精神であり、2の相互承認は「お互いに認めあおう」の精神であり、3の表面的な善意は、たとえば「みんなにひらかれたやさしさ」の精神である。こういったものは、いまや、ありとあらゆる場所にみいだすことができる。学校の教育現場をはじめとして、大学ですら浸食しつつある。さらには企業での活動や、様々な社会活動においても、これらは「よいこと」の典型として推奨される。もちろん、これらに対する反対意見というのは、つねにくすぶり続けているが、それらは公式見解としては決して表面化しない。」

*「4.自己責任=反連帯

 1から3の諸価値が駆動すれば、当然、そこから零れ落ちていくものは現れる。しかしそれらをもさらに飲み込んでシステムが進んでいくためには、零れ落ちるものから搾り取れるだけ搾り取ってから切り捨てることがもっとも理に適っている。それを可能にするのが、自己責任という価値である。」

*「5.豊かさあるいは進歩=反貧しさ」

・価値の批判としての相対化

*「これらの諸価値を特定化したとして、それらの価値によるのではない仕方で思考するのはいかにして可能であるのだろうか。」

「これらの諸価値が入りこむようなあらゆる場所で、その価値とは異なる価値にしたがって思考することを実際に試みることがそこでも問題となるだろう。すべては、現にある仕方とは異なる仕方で思考するために、そしてより大きな思考の自由を獲得するためになされることである。」

**(「第二章 異律」〜「第一節 自律/他律、自立/依存と異律」)

・自律/他律そして「メカニズム」/「マスニズム」および「巻き込み/巻き込まれ」関係

*「自律的であるとは、道徳的には、自己のなかに自らを律する規範をもち、その規範によって自らが自らを律することである。」

「それにたいして自律的の対義語の他律的とは、他者の定めた規範に従い自らを律することであり、その意味で、他者の支配に服従することを意味する。そして、服従するといえるからには、服従しないなにかがその前提として必要であり、それが自律である。」

*「自律的でも他律的でもないものには、メカニズムの作動とは、似ているが少し異なるものがある。それは実のところ、メカニズムという言葉そのものの意味の多義性ともかかわるだろう。そして〈異律〉という概念にとってはおそらくこれがもっとも大事な考え方になると思われる、自律のように自分で決めてなにかをするときに、その決定が他のなにものかを巻き込んでいるような場合を考えてみよう。しかも、その巻き込みの関係が、一方的ではなく、双方向的であるような状態である。(・・・)わたしがなにかをするということが、わたしが巻き込んでいる誰かに作用し、その状態が変わるということである。その状態が変わるということが、その誰かはわたしを反対に巻き込んでいるので、わたしの状態が変わるということでもある。」

*「自律か他律かでいえば、マシニスムにおいて理解されるエイジェンシーの振る舞いは自律性のようにみえるかもしれないが、その自律性の「自己性」、オート/ノミーの「オート」たる自己には、自己ならざるものが巻き込まれており、同時に、そのような「自己」も多なる他のもによって巻き込まれているがゆえに、結果的に自律的に見えるような仕方で作動するに過ぎないということだ。つまり、他なるものどもと自己のうちにおいて結び合わせられたかぎりでの表面上の自律性だということである。

 「異律」にとって肝心なのは、この表面上の自律性である。しかし、これは他律とはやなり異なる。(・・・)遺伝子も、それはそれで自律的かもしれないし、わたしもわたしで、それとは別に自律的かもしれないが、両者は、それ以外のものを含めて、互いを巻込みあっている。だから、腸内細菌が「利己的」であっても何の問題もないように、わたしの遺伝子がわたしという生命体を乗り物として「利己的」に利用しているのだとしても何の問題もない。どちらが主でどちらが従だということではなく、そのような仕方でわれわれは互いに巻込みあっていることによって、はじめて自己であるというだけなのだ。」

・自立/依存および協力関係/共棲関係

*「一方、自律とよく似た言葉である自立とは、独立の意味であり、他の助けをかりずに自らなすことができることを意味する。要するに自らのことを自らよくなしうる状態を意味する。それにたいして自立の対義語である依存とは、自らのことを自らのみでよくなしえない状態を意味する。

 要するに、自分でやるのが自立で、他人にやってもらうのが依存である。」

*「自立/依存の対概念の外部にある関係として、意図や目的や意志や規範のようなものを認めながら、あいまいな仕方であれ何であれ、自己の概念と結びつく場合、「協力関係」と「共棲関係」という二つの関係が導かれることになる。

「協力関係」は、自己と他者の明瞭な概念的区別を前提とする。」

「それにたいして、「共棲関係」は、あいまいな仕方で自己の概念と結びつく。(・・・)そこでは自己と他者の関係は、「協力関係」のように明瞭ではない。」

**(「第二章 異律」〜「第三節 意味の異律的組織化と相互行為というゲーム」より)

・異律的主体としての幼生の自己

*「異律的な主体は、それらが相互に浸透する「巻き込み/巻き込まれ」関係におかれ「強度的な場」となることで「未規定性」を含んでしまう「リハーサル」回路のディ・レンマを経ることによって生じる相互行為を可能にする。そしてその「未規定性」の上で「第一の自然」が折り返されることで、その異律的な主体たちからなる「強度的な場」が表現する「問題」の「解」が、「第二の自然」として、歴史的・地理的に特定の社会体という形で実現されていく。それが人間の社会体である。その結果、その社会体において作動し、個々の異律的な主体による相互行為が導き、かつそれを導く「文脈」において「なにがなされるべきであり、なにがなされるべきでないのか」という「集合的規範」もまた、その社会体のなかで現実化されいく。この「集合的規範」とは、個体のなかに書き込まれいる他の個体を考慮するような規範ではないし、もちろんのこと、それらを超越して絶対的で普遍的な規範でもない。そうではなくて、「意味」にかんする構造的反復において、歴史的・地理的に特殊化されるのが「集合的規範」である。このような「集合的規範」
は「未規定性」を根底にもつ「文脈」と「意味」に関するものであるがゆえに、それがゲノム(・・・)によって十分に規定されることはない。ここに「集合的規範」の多数性と可塑性の余地が生まれる。異律的な主体とは、そのような集合的であるがゆえに可塑的で多なる「集合的規範」を成立させ、それを生きるところまでを意味している。」

*「異律的な主体は、自立的でも自律的でもなく、依存的でも他律的でもない。それは異律的な主体相互において「巻き込み/巻き込まれ」関係にあり、あらかじめ目的や意図を共有することなく。自己の明瞭な境界もないまま、「共棲」関係にあるような主体である。したがって。そのような異律的な主体にとって、「生かしてもらえるように働きかける」ことと「生かすように働きかけられる」ことが絡み合っているのが常態であることになる。このような主体のことを、「心の理論」で前提されるような成熟した自己と区別し、かつドゥルーズの『差異と反復』へのオマージュを捧げるために、「幼生の主体」と呼ぶことにしよう。」

○近藤和敬(こんどう・かずのり)
1979年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科教授。主な著書に『カヴァイエス研究』(月曜社)、『〈内在の哲学〉へ』(青土社)、『ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』を精読する』(講談社)。訳書にJ・カヴァイエス『論理学と学知の理論について』(月曜社)、A・バディウ『アラン・バディウ、自らの哲学を語る』(水声社)など。

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