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濱田陽『生なる死ーよみがえる生命と文化の時空』

☆mediopos-2542  2021.11.1

濱田陽『生なる死』の第一章「存在と時空」は
『未来哲学 第二号』に掲載されたもので
すでにmediopos-2404(2021.6.16)でご紹介してある
本書はそれを最初に含む論考が一冊にまとめられたものだ

第一章「存在と時空」は
「統一時空」へのとらわれから自由になるよう
気づきを与えるものだった

「統一時空」とは
「一つの流れに思えている時間、
一つの広がりと考えられている空間」で
それは超越的に与えられた絶対的なものではなく
ひとがつくりだしたものだ

「統一時空」は(現在では暗黙の)約束事となっているが
わたしたちは「自分が日々、この瞬間、瞬間を重ねている
関係のあり方、関係性を、それ自体、時間、空間である」
というところからそれぞれの生をとらえる必要がある
つまりわたしたちは一人ひとりそれぞれの時空を生きながら
そのうえで互いに関係しあっているということだ

統一時空のなかにいると思い込んでいるわたしたちは
「生まれ落ちたときからの制度と近代的習慣によって、
いつしか一つの時空、一つの名前、
一つの人生を当たり前として、
時には「科学的」な常識として受け入れてい」き
「生物学的な生命を終えたとき、
わたしたちはゼロになるとされ」るが

そうした「一つの時空、一つの名前、一つの人生は
仮想であって、いくつもの時空、いくつもの名前、
いくつもの人生の方」を「リアル」に近いとして
「わたし」という存在をとらえることができる

生と死の問題もそれに関連する

死にいたる生という世界観は
生物学的な死の観念からくるものだ
そしてそれはわたしたちの「直接経験」ではなく
(自分が死を直接経験したことからくるのではない)
あくまでも「間接経験」を基に考えられている

それゆえに著者は
「直接経験する出来事としての生なる死」を
「自らの生物学的な死によらない自らと
五つの存在(自然、生きもの、人、つくられたもの、
人知を超えるもの)との関係性の根本的変容」と定義し
「生なる死の文化」としてとらえようとする

わたしたちはそれぞれ自分固有の時空を生きている
そしてその「時空の多様性は、
わたしたちの尊厳に直結している」のだといえる
その尊厳をもちえないとすれば
わたしたちは「統一時空」によって
時間・空間の監視統制下におかれてしまうことになる

重要なのはそれぞれが固有の時空を生きているとともに
その時空をそれぞれの自由のもとに
「コモンズとして、共有可能な時空をつくり出」す
「コモンズとは、みんなのためのみんなのもの」
つまり他者の時空へとみずからを開くということだ
決して統一のための監視統制ではありえない

ひとり一人固有の時空を前提としながら
他者へとひらかれた関係性を生きること
それがみんなのためのひとりであり
ひとりのためのみんなである
そんな自由な創造を描ける未来でありますように
おそらくわたしたち人間は
そのためにこの困難な地上世界に生まれてきたのだから

■濱田陽『生なる死ーよみがえる生命と文化の時空』
 ( ぷねうま舎 2021/10)

(「第一章 存在と時空」より)

「わたしたちの多くは、自分が日々、この瞬間、瞬間を重ねている関係のあり方、関係性を、それ自体、時間、空間であると考えていないだろう。しかし、この動く関係性こそが、わたしたちそれぞれにとっての時間、空間なのだ。これら、わたしの時間、わたしの空間をまとめて、わたしの時空、と呼ぶことにしよう。
 わたしたちがあらゆる存在に関わるとき、そこに、このわたしたちの時空が立ち現れる。時間、空間を動く関係性ととらえれば、わたしがわたしの関係性を生きるとき、そこにわたしの時空が生じてくる。
 これは、どういうことだろうか。
 なんとなく一つの均質な流れだと思っている時間、一つの均質な広がりだと考えている空間そのものも、じつは、人自身による、ある特殊な関係性からつくられている。もし、この時間、空間をただのつくりものと片付けるのでないなら、同じく人であるわたしの時空も、取るに足りないものと退けることはできないはずだ。わたしたちは、常に、自分自身の関係生を生み出し、つくり出しているのだから。」

(「第七章 時空、名前、人生は一か多か」より)

「時空は一つであり、わたしは一つの名前をもち、生まれた瞬間はゼロ歳で、毎年、自分だけのための誕生日を迎え、一つの人生を生きている。一つ、一つ、一つの世界。それは、本当にかけがえのない世界だろうか。
 わたしたちは、いつもこのようなことを考えているわけではない。しかし、意識しないまでも、生まれ落ちたときからの制度と近代的習慣によって、いつしか一つの時空、一つの名前、一つの人生を当たり前として、時には「科学的」な常識として受け入れていく。そうでない発想や文化伝統は非化学的で、古い考えと早計し、ファンタジーや伝統文化の枠のなかでのみ容認し、消費していく。
 しかも、生まれ落ちた瞬間だけがゼロなのではない。生物学的な生命を終えたとき、わたしたちはゼロになるとされていないだろうか。つまり、一つの名前をもち、人生を続けてきた存在がゼロになる。一かゼロだ。
 だが、そうではないとしたら。
 一つの時空、一つの名前、一つの人生は仮想であって、いくつもの時空、いくつもの名前、いくつもの人生の方がリアルに近いとしたら。そこからこそ、不思議な「わたし」という存在が、その尊さが、浮かび上がってくるとしたら。
 実際には、現代物理学では、時空は相対的とされる。にもかかわらず、人は、一つの時間、一つの空間を統一的、人工的につくり出すことで、あたかも一つの時空の世界を生きていると思い込んでいる。それだけではなく、多様性を文化や民族という名の下で隘路に追いやり、統一された一つという抽象化された観念が、名前、人生にまで、作用を及ぼし続ける。この一の重さに耐えきれなくなったとき、人は、すべてをゼロにしようとする衝動に身を任せ、軽々と、存在がゼロに転じられてしまうのかもしれない。
 一かゼロか。あるいは存在か無か。この観念は、人の世界と時空、そして、自分の存在を想うとき、わたしたちを縛り続けている。」

(「第九章 生なる死」より)

「現代人としてわたしたちの多くは通常、死を一度しか経験しないと考えている。
 一度の死の観念にどこまでもこだわるなら、ハイデッガーが『存在と時間』(一九二七年)で執拗に展開したような思索と世界観が出現してくる。それは自らの、死にいたる生を根底に置いた世界観だが、異なるリアリティによれば、異なる世界観が開かれるだろう。
 臨死体験や輪廻転生などの議論を脇に置けば、誰しも、人は生物個体としての死をまぬがれない生を生きている。しかし、生物として死ぬわけではないが、「死」という言葉でしか表せない根本的な変容が、自らに起こることがあるのではないか。
 そういう経験を、生なる死(living death)、と呼んでみよう。近代とは、生物学的な死の観念が支配的になり、それ以外の死のリアリティが薄められていった時代、死にいたる生を強調しすぎて、多くの生なる死を失ってきた時代ではないだろうか。
 死にいたる生ではなく、生なる死を根底に置けば、どのような世界観が現れてくるだろう。現代人は生物個体としての死の観念に大きくとらわれ、そのメタファーを用いて多くの思索を展開している。しかし、自らの経験を基礎に置いたとき、そこに自分の生物学的な死は含まれない。人の平均寿命を知ったり、近親者の死に遭遇したりして、生物学的な死の観念を培うが、それは自らの死の直接経験ではない。だから、生物学的な死を根底に置いてものを考えるということは、間接経験を基に思索するということだ。
 そこで直接経験する出来事としての生なる死を、自らの生物学的な死によらない自らと五つの存在(自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの)との関係性の根本的変容、と定義しよう。生なる、というのは、生とともにある、生をかたちづくっている、という意だ。
 そして、この生なる死が、個人の経験の域を越えて、人と人の間で、人としての能力、判断、作用を通じて、間接経験としてではあるが共有され、受け継がれていくとき、それを、生なる死の文化ととらえよう。
 この経験を共有した人自身の関係生が後に根本的に変容すれば、それは生なる死の文化が、新たな、もう一つの生なる死をもたらしたことになる。また、複数の人が同じ出来事からそれぞれ独自に生なる死を経験し、その後、互いを理解し合うこともあるだろう。」

(「結序章 人知を超えるものの生なる死」より)

「そよ風のように透明で、自由で、誰にも吹いてきて、また誰かのために去ってゆく。
 人知を超えるものは、人の能力を超えている存在だ。わたしたちに良きものをもたらすか否かは、あらかじめわからず、事後的にそれと受けとめる。それでも、人の文化伝統の多くは、この存在を念頭に置き、それに由来する力が働いていると説いてきた。
 自然のそよ風は肌で感じ、物理特性を方程式に表すことすらできる。しかし、同時進行の科学的アプローチによってはとらえられない、この非アルゴリズムのはたらきを、ありふれたそよ風のメタファーで考えてみよう。
 このはたらきは、統一時空に同期させ、制御することはできないけれども、それにこころを開いておくことならできるかもしれない。人知でとらえられないだけで、いつも「吹いている」なら。
 この、人知を超えるものの良きはたらきを、そよ風のコモンズ、と呼んでみよう。コモンズとは、みんなのためのみんなのもの、という意味だ。ここで、みんな、とは、人に限定せず、五つの存在、自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもののすべてを示すとしよう。
 この力が吹いてくるときには、わたしたちはその他大勢でなくなる。このとき、この場、この時空に、はたらきかけてくる。
 人にとらわれず、深淵においてもはたらく。もし、このような力とのふれあいが成立するなら、より大きな友情や愛情の源となるはずだ。それは密室に閉じ込められるものではない。その場のなぐさみではなく、開かれた永続的な何かをもたらそうとする。徹底的な孤独にすら、はたらきかけるだろう。
 この「風」は計算できない。しかし、こころでならとらえられると、人の文化伝統は考えてきた。それはどこまでも貫徹し、矛盾をゆるし、受けとめ、なぐさめる。」

「五つの存在の前に謙虚になり、自他を痛める矛盾を自覚し、失敗の経験を認め合うなかで、生なる死の可能性に気づくときに、わたしたちはコモンズのそよ風が吹いていく未来へと、ともに歩んでいけるようになるだろう。」

(「おわりのおわり」より)

「生はどのように終わるのだろうか。死ぬ瞬間になれば、こう終わる、とわかるのだろうか。
 もし、わからないなら、その終わりを終わらせよう。
 知っているつもりになるのを、終わらせよう。
 そして、知らないことを、はじまりをはじめよう。
 死ぬときまでも、わたしたちは、はじまりのはじまりであるだろう。そして、その先は、はっきりとはわからないのだ。

 わたしたちは、みんなで用いる時空を受け入れながら、わたしたちの時空を生きている。そこから、他に代えがきかない関係性が生まれ続けている。だからこそ、わたしたちは尊い、尊厳を有しているともいえるのではないだろうか。
 わたしという現象が、関係性の束だとしても、動く関係性として、不思議なことに、また新たな関係生を紡ぎ出している。どんな天与の巧緻である自然計算、人口計算と、計算さえ及ばない何かが、わたしたちを支え続けていることだろう。
 統一時空は便利だが、この動く関係性の関係性を、影のような位相へと焼き増ししてしまう。みんなでそれに合わせれば、あらゆるものがコントロールでき、文明が進んでいくようにみえるけれども、度を越せば、がんじがらめになり、自然、生きもの、人を取り返しのつかないほど傷つけ、また、人知を超えるものを冒瀆することになってしまうかもしれない。みんなで時空を合わせていることすら、忘却してしまうだろう。
 だからこそ、存在と時空の根源的多様性を拠りどころにしたい。わたしたちの存在が根源的に多様であることは、わたし、という動く関係性の関係性が多様であること、その芯が時空としてそれぞれに多様であることだ。
 同じ寿命だったとしても、それぞれが生きる人生は違う。それぞれの時空が本質的にユニークだからだ。」

「時空の多様性は、わたしたちの尊厳に直結している。
 人は自分固有の時空を生きていると主張する権利がある。しかし、その一部を、自ら託し、コモンズとして、共有可能な時空をつくり出す。社会契約の根底に時空契約を行うのだ。だから、この時空が、全体主義や非人道的なことに用いられるなら、それを拒否する権利があるはずだ。
 こう考え方の組み替えを行うのが、良き世界を希って、思索を続けてきた先人たちの伝統につらなることであり、時代とともにありながら次の時代をつくる思想の力なのではないだろうか。思想の新たな展開の息吹に出会うとき、わたしたちはすでにその空気を吸っており、ひとりの思想家の思索ではなくなっている。ひとり、また、ひとり、ふさわしい言葉と道理を求めていく。
 スマートフォンやAIを用いて、人の時間、空間はいくらでも監視、制御可能になってきている。それを容易にするのが、時空はただ一つしかない、という思い込みだ。そうこうするうちに、本当の時空はこれだ、と主張する複数の大国が、最先端技術で先行する企業と結束して、わたしたちが望まない監視統制社会へと誘導し始めるかもしれない。時空を意のままに操れる立場が、もっとも魔術のように利益をつくり出すことができる。
(・・・)
 わたしたちは、デジタル器機を同期せず、月や太陽をながめ、呼吸をして、いつでも、自らの生命の時空、多様な文化の時空を感じることができる。そして、自分や大切な人々の幸せや、より良い社会を願って、自らの時空の一部を分け、共有可能な時間、空間の運営に協力できる。
 この、時空自由、時空民主主義、コモンズとしての時空の思想は、今後、ますます重要になってくるだろう。
 わたしたちは多様時空を生きている。同時に、みんなの時空も、時空の自由の下に民主的に運営していく世界を求めている。そして、もっとも謎である、あらゆる存在と時空、わたしたちもその一部である何かに、知性と人知を超えるものへの敬意をもって、こころを開き続けていたい。」
「やわらかく、常に変化し、わたしたちが自由に参加できる、みんなものもに協力する。独占的な一にこころ奪われない覚悟をもって、自らの多様性を受け入れつつ、はじまりのはじまりのなかで、これからの未来へと準備していけるのだ。」

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