鴻巣友季子「文学は予言する/ 第1回 ディストピア文学はなぜ長年流行しているのか?」(Webマガジン「考える人」2022年7月21日)
☆mediopos2808 2022.7.26
ディストピアは
ユートピアから生まれる
ユートピアという言葉をつくりだした
トマス・モアのユートピアは
「厳格な規則に縛られ」
「少数の管理者のもと、
食事、労働、睡眠などのスケジュールが厳密に決められ、
人間は才能、技能、職能で分類されて、
質素で画一的な生活が営まれる。」
「そうした安定的な暮らしを
陰で支えているのは奴隷や囚人たち」なのだ
たとえそれが高邁な思想によって
生み出されるものだとしても
ユートピアには精神の自由がなく
その極北には「管理社会」がある
「文学は予言する」と題された
鴻巣友季子の連載の視点によれば
ディストピアは以下の3つの視点で定義される
・徹底した管理監視社会、全体主義社会
・寡頭独裁政治
・統制がきびしいため表向きは秩序だった平穏な生活
文学はいちはやく
そうしたディストピアとしてのユートピアを
描き出してきているが
鴻巣友季子によれば
「「ディストピア文学に書かれる国家や社会には
共通した制度や政策」があって
それを「ディストピア3原則」としている
「婚姻・生殖・子育てへの介入」
「知と言語の抑制」
「文化・芸術・学術の弾圧」」
である
どれも納得させられるが
深刻なのはそうした外から与えられる原則よりも
みずからが生み出してしまう原則なのかもしれない
それをいくつか挙げてみると
こんな原則になるだろうか
・権威への盲従(思考の欠如と依存心)
・承認欲求(比較と競争によるアイデンティティ)
・悪の疎外(みずからの裡に悪をみないこと)
いま世界中でいろんなディストピア的な様相が
展開されているのはいうまでもないし
文学作品のなかにもさまざまなそれが見出されるが
重要なのはじぶんのなかにあるかもしれない
そんなディストピアを見据えてみることだろう
まずはじぶんのなかの根強いディストピアに対して
レジスタンスを試みる必要がありそうだ
■鴻巣友季子
「文学は予言する/
第1回 ディストピア文学はなぜ長年流行しているのか?」
(Webマガジン「考える人」2022年7月21日 新潮社 所収)
(「「ディストピア」は「ユートピア」と表裏一体」より)
「英米圏では、もうここ20年ぐらいディストピア文学のブームが続いている。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』などのリバイバルヒットもあり、とくにここ10年ぐらいは、この語が盛んに聞かれるようになった。日本でもゼロ年代の後半ぐらいから、そうした文学作品が目につくようになっている。]
「ディストピアdystopiaは日本語では「暗黒郷」などと訳され、ユートピアutopia(理想郷)の反対語のように思えるかもしれない。実際、近年では、「風の谷のナウシカ」や、コーマック・マッカーシー原作の映画「ザ・ロード」のような世界滅亡後の終末世界も、ときにはディストピアの括りに入れられるようだが、元来、核戦争や環境汚染で亡びかけた暗黒の終末世界を指すわけではない。それどころか、ユートピアと見分けがつかないこともあるのがディストピアだ。その“起源”はユートピアにある。
16世紀に、イングランドの思想家トマス・モアが「ユートピア」の語を作りだした『ユートピア』という著作を読めば、その理想郷がいかに厳格な規則に縛られているかがわかるだろう。そこでは、少数の管理者のもと、食事、労働、睡眠などのスケジュールが厳密に決められ、人間は才能、技能、職能で分類されて、質素で画一的な生活が営まれる。しかし、そうした安定的な暮らしを陰で支えているのは奴隷や囚人たちである。
ここには、人を能力と功績でランク付けする「メリトクラシー(*能力や業績で人の価値を決める主義、またはその社会)」の基本思想がある。
さらに時代を古代ギリシャまで遡ってみれば、プラトンが『国家』で提唱した理想国家も同様の社会構造をもつ。中・上層に位置する人びとにとっては、秩序正しく安定した暮らしやすい社会だろう。とはいえ、現代の目で見れば、その理想郷はディストピアのように見えるかもしれない。支配者による国民への管理は行きすぎれば、抑圧、弾圧につながる。
そう、ディストピアはユートピアの対抗概念ではなく、拡張概念なのだ。両者は紙一重で、いつすり替わるかわからない。
ひとまず、ディストピアは以下のように定義してもいいだろう。
・徹底した管理監視社会、全体主義社会
・寡頭独裁政治
・統制がきびしいため表向きは秩序だった平穏な生活
表面上は、むしろ整然とした静かな生活がある。カズオ・イシグロがAIロボットを語り手にして書いた『クララとお日さま』しかり、日本のディストピア小説の代表作、伊藤計劃の『ハーモニー』しかり。その題名のとおり、そこには調和的な世界が広がっているが、必ずそのハーモニーの陰には暗黒面があるのだ。」
(「ディストピア3原則
――「婚姻・生殖・子育てへの介入」「知と言語の抑制」「文化・芸術・学術の弾圧」」より)
「ディストピア文学に書かれる国家や社会には共通した制度や政策がある。わたしは以下をディストピア3原則と呼んでいる。言い換えれば、これらと同様のことが、現実社会に起こったり、兆しが見えたりしたら、警戒したほうがいいということだ。
1、国民の婚姻・生殖・子育てへの介入
2、知と言語(リテラシー)の抑制
3、文化・芸術・学術への弾圧」
「1、「国民の婚姻・生殖・子育てへの介入」」
「「適齢期」になったら結婚し、子どもを産み、育てるものだという固定観念と同調圧力は、未だに大なり小なりある。そうしたものに徹底抗戦してきたのが、『コンビニ人間』で芥川賞を受賞し、その英訳版が英米でもベストセラーになっている村田沙耶香だ。
たとえば、『殺人出産』は村田作品のなかでもそうした固定観念を揺さぶる最もショッキングなディストピア小説といえるだろう。殺人が悪でなくなってから100年後の日本を舞台に、「産み人」という制度が導入された世界が描かれる。10人産んで種の保存に貢献すれば、殺したい人間を1人殺す権利が得られるという制度だ。
「産み人」は拷問のような連続計画出産により命がけで種の保存に貢献するので、たいへん敬われており、殺される「死に人」も種の繁殖のために死ぬので神聖視されている。
これは少子化に歯止めをかけるための政策であり、人びとの生殖に国家が介入しコントロールしているのだ。」
「2、「知と言語(リテラシー)の抑制」」
「ディストピア政府としては、国民が唯々諾々と従ってくれるのが好都合のため、一種の愚民政策をとることが多い。作中の設定としてよく見られるのは、特定の人びとに読み書きを禁じたり、発言を封じたりする政策だ。」
「3、「文化・芸術・学術への弾圧」」
「ディストピア政府がこれらを弾圧するのは、思想や表現の自由を奪うというだけではない。文化芸術やその研究成果に触れて民の情緒が豊かになったり、さまざまな意識が高まったりすると、コントロールしにくくなるからだ。思想書だけではなく文学作品にも、人びとの心を耕し、思考を澄ませ、判断力を鋭利にする働きがある。」
「未来小説とは未来のことを書いたものではない。歴史小説とは過去のことを書いたものではない。どちらも、今ここにあるもの、ありながらよく見えていないものを、時空間や枠組みをずらすことで、よく見えるように描きだした「現在小説」なのである。
文化・芸術・学術への国家当局の介入に、わたしたちはもっと敏感になるべきだろう。」