辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』/ハナムラチカヒロ『まなざしの革命/世界の見方は変えられる』
☆mediopos3720(2025.1.25.)
「われわれはいま、新しい時代のとば口に立っている。」
辻田真佐憲『「戦前」の正体』はこの言葉で始まる
2022年末のこと
タモリがテレビ番組「徹子の部屋」において
2023年がいかなる年となるかと問われ
「新しい戦前」と答えたことは記憶に新しい
本書が刊行されたのは2023年だが
明治維新から太平洋戦争の敗戦までの「戦前」が77年
敗戦から2022(令和4)年までもまた77年
タモリの言葉の背景には
本書も示唆しているような
「現代史が近代史をはじめて凌駕しようとする、
これまでにない事態が目の前に開かれつつある」
という問題意識があったのではないかと思われる
しかも2022年から現在の2025年初頭
その「新しい戦前」の時代を如実に表しているような
さまざまな事件が相次いで起こり続けている
本書では
まさに「新しい戦前」に入ったところで
暗殺された安倍晋三元総理の唱えた
「日本を取り戻す」「美しい国」という
スローガンや「戦前回帰」が
「実際の戦前とはかけ離れた虚像」であり、
現在の右派・左派にとって使い勝手のいい願望の産物」で
「これにもとづいて行われている議論が噛み合わず、
不毛な争いに終始せざるをえない」
という状態を脱するために
「右派にも左派にも媚びず、
戦前をまずしっかり知らなければならない」
という問題意識から
「愛国と神話の日本近現代史」について
検証しようとしたものである
本書は「戦前」の正体を
「大日本帝国は、神話に基礎づけられ、
神話に活力を与えられた神話国家だった」ということから
「神話と国威発揚との関係」を探る試みだが
そうしたかつての「戦前」と「戦後」
それぞれの実際を踏まえながら
ここでは本書ではふれられていない
「新しい戦前」において重要な問いについて敷衍しておきたい
現在進行中の「変化」における「前」と「後」を
まさにその「変化」がどこで起こっているのかを
どのようにリアルタイムで意識していくかということである
その変化は
まさに昨年2024年から現在の2025年の初頭において
日本においては衆議院議員選挙や兵庫県の県知事選挙
そして中居正広やフジテレビの問題等
アメリカにおいては大統領選挙等において
だれもが実感せざるを得なくなってきている
そうした日々起こり続けていることについて
かつての世界観・価値観から見るのか
新たに起こりつつあるそれから見ようとするのかによって
世界の見え方はずいぶん異なってくる
新たに起こりつつある世界の見方を
ある程度まとまって見ていくには
ここでも何度かとりあげている
ハナムラチカヒロ『まなざしの革命』が
重要な視点を与えてくれているが
この『まなざしの革命』が
まさに2022年初頭に刊行されているのも象徴的である
その視点から世界を見るとき
これまで私たちが生きてきた世界の「正体」も
次第に明らかになってくる
「私たちが最も見えていないのは自分の見方である。
私たちは自分が当たり前だと思うものは問題にしない。
それどころかその存在にすら気づかないことがある。
そしてその盲点を生み出すのは、
自分が間違っていないという思い込みである。
だがその盲点の存在に一度気づいてしまった瞬間、
まなざしに革命が起こる」のである
「だからこそ、私たちの世界の見方が外から変えられる
プロセスを私たち自身が知っておく必要がある」
まさに「われわれはいま、
新しい時代のとば口に立っている」のだから
■辻田真佐憲『「戦前」の正体/愛国と神話の日本近現代史』
(講談社現代新書 2023/5)
■ハナムラチカヒロ『まなざしの革命/世界の見方は変えられる』
(河出書房新社 2022/1)
**(上記からの抜粋・編集(講談社ホームページ/現代新書)より)
**「美しい国」か、それとも「暗黒の時代」か
…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」の「ほんとうの真実」2024.11.16)
・定まらない日本の自画像
*「われわれはいま、新しい時代のとば口に立っている。
明治維新から太平洋戦争の敗戦までは77年。敗戦から2022(令和4)年までもまた77年。戦前と戦後が並び、現代史が近代史をはじめて凌駕しようとする、これまでにない事態が目の前に開かれつつある。
いつまであの敗戦を引きずっているのか。憲法だって見直していいではないか。もういい加減「普通の国」になろう──。
近年、そういう声が徐々に高まっているのもゆえなきことではない。日本はもはや、アジアに燦然と輝く卓絶した経済大国ではなく、(そこで生活するものとしては忍びないことではあるものの)中国の後塵を遥かに拝しながら緩やかに衰退する斜陽国家になりつつあるのだから。
さはさりながら、われわれはみずからの国のありかたについて、かならずしも明確なビジョンがあるわけではない。
戦前と戦後を分かつ戦争の名称はその象徴だ。さきほど太平洋戦争ということばを便宜的に使ったけれども、これとて、けっして定まったものではない。
かといって、当時の名称である大東亜戦争はいまだ政治的に忌避されやすく、左派やアカデミズムの界隈が好むアジア・太平洋戦争(かつては15年戦争だった)もいかにも妥協の産物にすぎない。
もっとも中立的なのは「さきの戦争」「さきの大戦」だろうが、このぼんやりとした表現は、われわれの定まらぬ自画像にぴったり一致している。
このような状態だからこそ、われわれは過ぎ去ったはずの「戦前」にいつも揺さぶられている。まるで亡霊に怯えるように。」
・「新しい戦前」と「美しい国」
*「2022年末、タレントのタモリがテレビ番組「徹子の部屋」で2023年がいかなる年となるかと問われて、「新しい戦前」と答えて話題になった。
筆者は「素人がなにを」とあざ笑う狭量な専門家に与しない。数百万もの視聴者を相手にしていた人間の感性はときに鋭いものだ。
とはいえ、戦前ということばはたやすく使われすぎてもいる。なんでも戦前と認定しながら、あまりに戦前を知らない。残念ながら、歴史を生業とする物書きでもしばしばこの陥穽にハマっている。
現在と戦前の比較は、類似のみならず差異にも注意を払うべきである。なんでもかんでも戦前認定することは、かえって戦前のイメージを曖昧にし、貴重な歴史の教訓を役立たないものにするだろう。
わかりやすい例として、「安倍晋三は東条英機のような独裁者だ」という批判を考えてみよう。よく耳にした比較だが、かならずしも適切とはいいがたいものだった。
大日本帝国憲法のもとでは首相に権限が集中しにくく、かえって軍部の暴走を招いた面があった。根っからの軍事官僚で法令の条文に固執した東条もこれに苦慮しており、陸軍大臣や参謀総長などを兼任することで、なんとか自らのもとに権限を集めようとした。
独裁者と呼ばれたゆえんだが、それでもかれは、戦時中に首相の地位を追われてしまった。
戦後、このような戦時下の反省もあって、首相にさまざまな権限が集約されたのである。そのため、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりに倒錯している。
筆者はここで、同じく2022年、凶弾に斃たおれた安倍元首相が唱えた「日本を取り戻す」「美しい国」というスローガンを思い出さずにはおれない。それはときに戦前回帰的だといわれた。
だが、本当にそうだっただろうか。靖国神社に参拝しながら、東京五輪、大阪万博を招聘し、「三丁目の夕日」を理想として語る──。そこで取り戻すべきだとされた「美しい国」とは、戦前そのものではなく、都合のよさそうな部分を適当に寄せ集めた、戦前・戦後の奇妙なキメラではなかったか。
今日よく言われる戦前もこれとよく似ている。その実態は、しばしば左派が政権を批判するために日本の暗黒部分をことさらにかき集めて煮詰めたものだった。
つまり「美しい国」と「戦前回帰」は、ともに実際の戦前とはかけ離れた虚像であり、現在の右派・左派にとって使い勝手のいい願望の産物だったのである。これにもとづいて行われている議論が噛み合わず、不毛な争いに終始せざるをえないのは当然だった。
このような状態を脱するためには、だれかれ問わず、また右派にも左派にも媚こびず、戦前をまずしっかり知らなければならない。」
**大日本帝国は「神話国家」だった
…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」を支配していた「虚構」の正体2024.11.16)
・大日本帝国は「神話国家」
*「では、戦前とはなんだったのか。本書は、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体に迫りたいと考えている。
大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった。明治維新は「神武天皇の時代に戻れ」(神武創業)がスローガンだったし、大日本帝国憲法と教育勅語の文面は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅を抜きに考えられないものだった。
また、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は神功(じんぐう)皇后に、台湾で陣没した北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王は日本武尊(やまとたけるのみこと)に、日本軍将兵は古代の軍事氏族である大伴氏(天忍日命の子孫)になぞらえられていた。
そして大東亜戦争(本書では歴史上の用語としてこれを用いる)で喧伝されたスローガンのひとつは、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇だった。
それ以外にも、国体、神国、皇室典範、万世一系、男系男子、天壌無窮の神勅、教育勅語、靖国神社、君が代、軍歌、唱歌など、戦前を語るうえで外せないキーワードはことごとく神話と関係している。
もっとも、神話が重視されたといっても、大日本帝国政府が神社を縦横無尽に操り、プロパガンダをほしいままにしていたなどと主張するつもりはない。戦前の宗教政策は一貫性に欠け、おおよそ体系的なものではなかった。
それでも、神話は戦前に大きな存在感をもっており、モニュメントやサブカルチャーなどで参照され続けたのである。いわゆる国家神道をめぐるこれまでの議論は、政府や軍部の動きにとらわれすぎていたのではないか。
本書ではそのような「上からの統制」だけではなく「下からの参加」も視野に入れて、神話と国威発揚の結びつきを考えたい。
いうなれば本書は、神話を通じて「教養としての戦前」を探る試みだ。そしてこの試みはまた、今後の日本をどのようなかたちにするべきか考えるヒントになることも目指している。」
・戦前の物語を批判的に整理する
*「そのため本書は、細かな事実をあげつらって、神話の利用を解体してそれで事足れりとする立場にも与しない。国家はなにがしかの国民の物語を必要とするからである。
たしかに、国民国家は近代に成り立ったものであり、虚構にすぎないといえばそうだろう。だが、現在の国際秩序はその虚構をベースに動いているのであって、これを否定したところで無政府状態のカオスを招来するにすぎない。
そもそも虚構というならば、人権も平等も皇室制度も貨幣も共産主義もすべて虚構である。そんなことをエビデンスやファクトなどのカタカナを振り回して、あらためて指摘しても意味がない。むしろわれわれが本当に考えるべきなのは、そのなかから適切な虚構を選び、それをよりよいものに鍛え上げていくことではないか。
戦後民主主義の永続・発展を望むにせよ、21世紀にふさわしい新しい国家像を描くにせよ、自分たちの立場を補強する物語を創出して、普及を図るしか道はない。このような試みが十分に行われていないから、戦前の物語がいつまでたってもきわめて中途半端なかたちで立ちあらわれてくるのだ。」
*「そこで本書では、「原点回帰という罠」「特別な国という罠」「先祖より代々という罠」「世界最古という罠」「ネタがベタになるという罠」という5つの観点で、戦前の物語を批判的に整理することにした。
批判的というのはあえて述べるまでもなく、物語にはひとびとを煽動・動員するリスクもあるからである。
このような物語の構造を知っておくと、今日、軍事的な野心を隠さない他国、たとえばロシアや中国の動きを読み解くときにも役立つかもしれない。戦前的なものの再来は、なにも現代日本だけで起きるとは限らないのだから。
また、北朝鮮の指導思想(金日成・金正日主義)と日本の国体思想はしばしば類似性を指摘されるけれども、その比較をたんなる印象論で終わらせないためには、国体思想の核心を正しく掴まなければならないだろう。
もっと身近なところでは、神話の知識はときにサブカルチャー作品の読解にも役立ってくれる。
昨年(2022年)公開された新海誠監督の『すずめの戸締まり』は、明らかに天の岩戸開き神話が元ネタのひとつになっているし、主人公の岩戸鈴芽が宮崎県と目される場所より船に乗り、あちこちに立ち寄りながら東に進むストーリーは、神武天皇の東征をほうふつとさせる。その意味するところは、しかし、神話を知らなければ掴みようがない。
いずれにせよ本書は、過度な細分化で物語を全否定するのでもなく、かといってずさんな物語でひとびとを煽動・動員するのでもなく、両者のあいだの健全な中間を模索することで、目の前の現実に役立てることをめざしている。
この目的のため、本書では、銅像や記念碑などの史跡も積極的に取り上げた。現地に足を運んで、歴史を五感で味わってもらいたいからだ。歴史を一部の専門家やオタクの専有物にせず、また右派や左派のイデオロギーの玩具とせず、ふたたび広く教養を求めるひとびとに開放してその血肉としてもらうこと。それが新しい時代のとば口に求められていることだと筆者は強く信じている。」
**(ハナムラチカヒロ『まなざしの革命/世界の見方は変えられる』)
・はじめに
*「私たちが最も見えていないのは自分の見方である。私たちは自分が当たり前だと思うものは問題にしない。それどころかその存在にすら気づかないことがある。そしてその盲点を生み出すのは、自分が間違っていないという思い込みである。だがその盲点の存在に一度気づいてしまった瞬間、まなざしに革命が起こる。今まで見えてなかったことが急に違って見え、物事の見方が反転するのである。自分のこれまでの見方を知ったときの衝撃は大きい。急に状況が見え始め、文字通り世界の見方が変わってしまう。そのまなざしの革命は社会を変えるよりも大きな力を持っているのだ。いや、実際に社会すら変えてしまい、本当の革命すら起こる。だから今こそ変えねばならないのは、社会ではなく私たちのまなざしなのではないか。私たちは世界を変えることはできないが、世界の見方は変えられる
だが一方で、私たちのこれまでの見方が変わってほしくない人々もこの世界にはいる。そんな人々は私たちのまなざしに革命など起こってほしくないのだ。だから私たちがある方向を向くように、あえて極端な見解を助長し、不安や恐怖を煽り、欲望を焚きつけて、誘惑する。そうやって私たちの目にわざと色眼鏡をかけようとする意図がこの世界にはある。それは決して悪意という形では近づいてこない。とても善良なフリをして近づいてくる上、私たちは間違っていないと甘い声で囁くのである。(・・・)私たちが善意で行うことが、望んでいたことと正反対の結果を生むのは、そんな悪意と無関係ではない。だからこそ、私たちの世界の見方が外から変えられるプロセスを私たち自身が知っておく必要がある。」
・第一章「常識」
*「いつの時代であっても、変わることなく正しい常識など存在しない。何が当たり前であり、何が正解なのかは状況や見方によって変化するからだ。何が起こるかわからないこの世界では絶対的なものはなく、常に変化して「無常」に移ろうことだけが普遍的に正しいと言える。だから私たちは常識ではなく常に正しい認識はないという「無常識」こそ本来が拠り所にすべきだ。
そのために私たちはこれまで自分の常識を培ってきたプロセスへもう一度立ち戻る必要がある。(・・・)そうやって、時代の流れの中でそのときに正しいことと間違っていることを見極める努力が必要になる。「多くの人の当たり前が正しい」ではなく、「正しいことが多くの人の当たり前」であるべきだ。」
・第九章「解放」
「「それぞれの「り」には良い側面と悪い側面がある。どれかが欠けていたり、どれかが強すぎると選択を間違える可能性もある。この三つの「り」はそれぞれ「欲」「怒り」「無知」に囚われやすいが、順序を間違えるとその状態に気づけない。「り」の順序として大事なのは「離」「理」「利」である。
まず自分自身のまなざしに対して「離」を向ける。正しい判断をするためには物事を少し離れて見つめねばならないし、何かを行うことだけに囚われてはならない。何かに囚われたままだと、視野が狭くなりできることがどんどんと狭まっていく。一方で離れて視野を拡げることで私たちは時代がどの方向に向かっているのかを知ることができる。その上で、「理」のまなざしを向けて、今とこれからにおいて何が正しいのかを見つめる。時代の流れや自然の法則から外れたことは理にかなっていない。それに沿う形で最後に「利」のまなざしを向ける。それは自分一人の利ではなく、より多くの生命にとって利がもたらされる方向を見つめる。そのように、「り」の順番を組み立てていけば、どんな問題が起こっても、適切に物事を判断していけるだろう。その積み重ねが私たちを人生の問題から解放するのではないか。」
*「しかし私たちは正反対の順番で物事を見つめる。どうすれば「利」を得られるのかを考え、そのために「理」を掲げて人を巻き込み、挙げ句の果て「離」を決め込み責任逃れをする。そんな私たちのまなざしとぴったり寄り添うように世界は動いている。「欲」に動かされて「利」だけで世界を壊したことへの批判かた、今度は「怒り」から「理」を噴出させ世界中で戦争や革命が起ころうとしている。そして先が見えず、何が真実かわからないこれからの時代に、私たちは不安と混乱に疲弊を重ね、消極的な態度で全ての管理を大きなシステムに委ねる「無知」に陥ろうとしている。その結果、自分自身や子孫の未来からも「離」を決め込んでしまうのだろうか。
私たちが解放される道はそれとは正反対である。逃げ込んだ結果として離れるのではなく、自ら「離」のまなざしを持つことから始めるのだ。そうやってニュートラルに世界を見ようとする態度を持てば、何が正しいのかが見えてくるはずだ。それに沿って行動を起こせば、それが必ず自分の利益になり、誰かを助けることにつながる。革命とは今の社会のあり方に問題を感じ、それをより良く変えることだとすれば、今の社会に巻き込まれずに距離を取ることから始めねばならない。それは感染を防ぐために人から距離を取る社会的距離ではなく、常識や概念といった多くの人が共有する社会的な見方からの距離である。
そして本当の革命とはドラスティックに物事を変えることではない。ドラスティックに私たちの見つめる方向を変えることである。それはどの対象物を見つめるのかではない。私たちがどのような見つめ方をするのかである。もし最初に見つめる方向や見つめ方を間違えると、その先の全てを間違え続けるだろう。」
*「私たち一人一人の誰もが今の社会の理不尽さに加担することや、過度に何かを恐れることから離れること。離れた場所から冷静に物事を見つめて、そのときに正しいことをすること。そして自分だけではなく周りの生命の利益と幸せを考えること。日常の生活の中で淡々と自分のすべきことを行うこと。どんな問題が起きても恐れずに協力し合い、そのときその場を明るく乗り切って生きていくこと。そうした当たり前のことをする方が、拳を振り上げて起こす革命よりも、大きな力を持つのではないか。
日々の私たちの行動や思考、価値観の先に、次の政治・社会・経済のシステムは築かれる。私たち一人一人のまなざしが解放され、やがて世界中の人々が、理不尽な秩序を押し付ける社会から距離を取ることが、本当の革命ではないか。誰がこの状況を生み出したのか、誰がこの社会を支配するのかは問題ではない。それよりも、これからの私たち自身が、どういう心で、どういうまなざしを世界に向けて、どんな原因をつくるかの方がはるかに重要だ。
世界を変革させる代わりに、私たちがまず自分を変革すること。自分のまなざしに革命を起こすこと。私たち自らがそれぞれ自分のまなざしの革命家になること。それこそが真の解放の第一歩である。それを受け入れたときにはじめて私たちは、自分がそれほど弱い存在でも無力な存在でもないことが見えてくるはずだ。本当に大切なのは誰かに助けてもらうことではなく、誰かを助けてあげることなのだ。」
□辻田真佐憲『「戦前」の正体』【目次】
はじめに
第1章 古代日本を取り戻す————明治維新と神武天皇リバイバル
第2章 特別な国であるべし————憲法と道徳は天照大神より
第3章 三韓征伐を再現せよ————神裔たちの日清・日露戦争
第4章 天皇は万国の大君である————天地開闢から世界征服へ
第5章 米英を撃ちてし止まむ————八紘一宇と大東亜戦争
第6章 教養としての戦前————新しい国民的物語のために
参考文献
おわりに
○辻田真佐憲(つじた・まさのり)
1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。近刊『文部省の研究』(文春新書)、そのほか単著に『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。
◎辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』
上記からの抜粋・編集(講談社ホームページ/現代新書)