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松田 行正『線の冒険』/ティム・インゴルド『ラインズ 』

☆mediopos2706 2022.4.14

インゴルドの「線(ライン)」の捉え方は
華厳をプロセスでとらえているような
そんなイメージがある

点のようなものに見えているものも
すべての点は関係性の織物をつくりあげる
プロセスそのものとしてとらえることができる

「歩くこと、織ること、観察すること、
物語ること、描くこと、書くこと」
そして生きること
それらすべては線(ライン)を生むことなのだ

少し前に文庫化された
松田行正『線の冒険 ――デザインの事件簿』は
そのインゴルドの『ラインズ』の
デザイン思考版とでもいえるかもしれない

線とは点が動くことによってできた運動の軌跡だとし
クレーが「線を散歩につれていく」
「線に夢見させる」といったように
「行きつ戻りつするフラヌールとしての線」によって
生まれてくるドラマがさまざまに語られている

松田行正の『線の冒険』は二〇〇九年に
インゴルドの『ラインズ』は二〇〇七年に
刊行されているというのも興味深い

おそらく両者に交流はなかったと思われるが
点と点を結ぶだけのように
目的地に一直線に向かうようなあり方でしか
とらえられないでいた「線(ライン)」に
どちらもあらたな視座を与えている

インゴルドによれば
「もともと「モノ」thingとは人々の集い、
人々が問題を解決するために集う場所」のことであり
「あらゆるモノはラインが集まったもの」だという
「線(ライン)」を研究することはその意味で
「人間とモノとの両方を研究すること」なのだ

それによって発話と歌など
二項対立の両端に位置づけられたたものたちが
「線(ライン)」によって
生きて結ばれる可能性に向かって開かれることになる

ともあれ私たちはあまりにも
点と点を直線的に結ぶべく
生きようとしすぎてはいないだろうか
大事なのは「遊歩」「寄り道」なのではないか
生きるということはプロセスそのものなのだから

■松田 行正『線の冒険 ――デザインの事件簿』
 (ちくま文庫 筑摩書房 2022/2)
■ティム・インゴルド(工藤晋訳)
 『ラインズ  線の文化史』
 (左右社 2014/5)

(松田 行正『線の冒険』より)

「本書でいう「線」とは、幅が極端に狭い「面」ではなく、ヴァシリー・カンディンスキーが指摘したように、点が動くことによってできた、運動の軌跡のことを指す。点が動けば、元の点のあった場所は生滅する。点の足取りを記すことができるのは線だけだ。そしてその線の軌跡は、多くのドラマをもたらすだろう。

 クレーは、運動の軌跡としての線ばかりではなく、そのドラマ性にも早くから着目していた。「線を散歩につれていく」「線に夢見させる」と豪語するほど。」

「ふらつき、さまよう線は、ベンヤミンがいうパサージュを歩く遊歩者(フラヌール)のようでもあり、まさに、クレーが散歩に連れだすといった線でもある。ぼくは、クレーが、病で感じたうまく引けないもどかしさから生まれた線も含めた、不安定な線にこそ線の醍醐味があるのではないかと想っている。

 本書では、こうしたあとでなくふらつき、行きつ戻りつするフラヌールとしての線のドラマが主役だ。たまに、カンディンスキーが、「永久不変の方向性」と、無限に進む運動性をせる〈直線〉には、〈運動〉という概念のかわりに、〈緊張〉という言葉が似合う」と語った線も加わっている。
 
 たとえば、子午線や光速という直線を測るために右往左往するメートル法の話。偶然できたひび割れに天啓を感じたマルセル・デュシャンと、〈大ガラス〉のコンセプトに似ていると思われる洗濯機の話。タテヨコ斜めの数字の和がすべて同じになる魔方陣のその数字を追った軌跡の話。

 線がどんどん加わって複雑になった記号の話。泡を食っているかのように日本を初空爆した爆撃機の軌跡と、テープが繋がっている大量のクラッカーをアメリカに向けて破裂させたかのような風船爆弾の軌跡。一幅のロードムーヴィのようなジュール・ヴェルヌのノーチラス号の軌跡と、マクロからミクロまで一直線に行き来するパワーズ・オブ・テンの話。

 直線こそ命、いや命を乳母句直線ならぬ、垂直線のギロチンの話。人体で描く文字と、人体の形を秘めた漢字の話。立体的に見えるように工夫された文字や記号の線の話。火星で見つかった筋からはじまった対火星人との宇宙戦争の話。

 龍の通る道を遮断する目的で建てられた朝鮮総督府と風水の話や、ジグザグ線が絡むユダヤ博物館とビートルズの『アビイ・ロード』の話。見えない恐怖の線として窓から寝縫うするペストや放射能の話。酩酊感をもたらすまんじ記号と螺旋の話。一進一退を繰り返す朝鮮戦争の最前線の動きと、一気に原爆で片をつけようとしたマッカーサー、放射能はこりごりの舌の根が乾かぬうちに原子力を受け入れたわが日本の話。

 右と左の境界線上や、完全に左に針が振り切れてしまった人びとの苦悩と、親から授かった肉体の一部と永久の別れをした人々の、苦悩という分割線の話。多くの線が重なることでパワーを得てきたエッフェル塔、東京タワー、列車ダイヤ図の話。

 混沌と秩序が支線のふるまいの真骨頂だからというわけではないが、あちこちと話題が飛んでどうも腰が落ち着かない。それは、寄り道こそ人生を楽しむ最適な方法だと思っているからだが、「線」というテーマ自体が寄り道のようなものなので、それを楽しんでいる筆者の様子を楽しむといった、屈折した寄り道が本書にふさわしい接し方かもしれない。」

(ティム・インゴルド『ラインズ』より)

「歩くこと、織ること、観察すること、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か? それは。こうしたすべてが何らかのラインに沿って進行するということである。私は本書において、線 line についての比較人類学とでも呼べそうなものの土台をつくろうと思う。」

「私は最初からかくも壮大な意図を抱いていたわけではない。実は、はじめはラインとはまったく関係のないひとつの問題を前にして思案に暮れていたのである。それは、どうして発話 speech と歌 song とが区別されるようになったのかという問題である。両者が今日のように区別されるようになるのは、西洋の歴史では比較的最近のことだ。というのも西洋では長らく、音楽は言語芸術として理解されていたからである。歌の音楽的本質はことばの響きにあった。だが今日、私たちはどういうわけか、音楽とは言語的要素を取り除いた「無言歌」であるという考えにたどり着いた。さらにそれを補足するように、言語とは言語音の実際の音声とはまったく独立して与えられる、言葉と意味のシステムであると考えるようにもなった。音楽は言語を失い、言語は沈黙したのである。こうした状況はいかなる経緯で生じたのだろうか? 答えを模索するうちに、私の注意は口から手へ、声による朗詠から手の身ぶりへ、そして手の身ぶりとそれがさまざまな表面にしする痕跡との関係へと向かっていった。言語が沈黙した経緯は、記述 writing そのものの理解の仕方の変化、すなわち手を使う刻印行為から言語を組み立てる技への変化となにか関係があったのではないだろうか? ライン制作についての私の探求はこうして始まった。

 だがまもなく私は、ラインそのもの、あるいはラインを生み出す手に注目するだけでは不十分だと気づいた。ラインとラインが描かれる表面との関係を考察することも必要だったのだ。おびただしいラインを前にしていささか挫けそうになりながら、私はとりあえずの分類を試みることにした。そして、多くの曖昧さを残したままではあったが、二種類のラインが他のものからはっきり区別できるように思われたので、それらを糸 thread と軌跡 race と呼ぶことにした。しかし詳しく検討してみると、糸と軌跡はどうやら異なったカテゴリーのものというよりも、相互に変形しあうものだった。糸が軌跡に変化することも、またその逆もある。さらに、糸が軌跡に変化するときにはいつも表面が形成され、軌跡が糸に変化するときにはいつも表面が消失する。その変形を追求するうちに私は、探求の出発点であった書かれた言葉から、迷路の曲折、刺繍や織物の技へと導かれていった。そしてこの迂回の果てに、織物制作を通じてふたたび書かれたテクストへと連れ戻された。編み込まれた糸であれ、書かれた軌跡であれ、それらのラインはみな運動し成長するものとして知覚される。それなのに今日私たちが問題にするラインの多くがかくも静態的に見えるのはいったいどういうわけなのか? なぜ、「ライン」や「線状性」に言及したとたんに、多くの現代思想家は、分析的思考が示すようなあの狭量さと不毛さ、あるいは単線的論理といったイメージしか抱かないのだろうか?

 西洋近代社会では歴史や世代や時間の経過を理解する方法は本質的に線状的(リニア)である、と人類学者はよく主張する。彼らはあまりに頑なにそう思い込んでいるために、非西洋人の生活のなかに線状性を見出そうとする試みはどんなものでも、せいぜい穏やかな自民族主義だと片付けられ、果ては、西洋社会が外の世界に自らの方針を押しつけた元凶である植民地主義的占領計画と共謀しているとのそしりを受ける。非西洋世界は線的でない[non-linear]と教えこまれているからだ。そうした思考は、生 ife とは道筋 path に沿ってではなく、本来さまざまな場所のある地点に固定されて営まれるものだという考え方と表裏一体である。だが、人々の往来がなければ、そこは場所 place ではあり得ないだろう。ひとつの地点に固定された生が、場所、すなわちあるどこかと行き来するひとつないし幾つかの運動の道筋に位置しているはずだ。おそらく生とは場所というよりも道に沿って営まれるものであり、道とは一種のラインである。そしてまた、人々が周囲の世界についての知識をより豊富にし、自分たちが語る物語のなかでその世界を描くのも道に沿ってである。植民地主義とは、非線状的な世界に線状性を押しつける行為ではなく、ひとつのラインに別のラインを押しつける行為である。植民地主義はまず、生が営まれる道を、生がそのなか収容される境界線へと変換し、次に、そうやってひとつの場所に固定された閉じられた共同体をいくつも束ねることによって、垂直的に統合された集合体に組み上げる。何かに沿って along 生きることと、上に向かって up 結びあわされることは、まったく別のものなのである。

 かくして私は、運動と成長のラインから、その正反対のものである点線 dotted line ——線ならぬ線——へと導かれた。それは何も動かず何も成長しない瞬間の連続体である。そしてただちにチャールズ・ダーウィンの『種の起源』における有名な図式を思い浮かべた。何千万もの世代にわたる生命進化を描くその書物のなかで、あらゆる系図のラインは点の連鎖として示されているのだ! ダーウィンは、ラインに沿うものとしてではなく、各々の点のなかにあるものとして生命を描いた。人類学者が親族や家系の系譜図を書くときもまったく同じだ。親族関係のラインは、結びあわせ、接続するが、そのラインは決して生をつなぐ線ではなく、また物語の線(ストーリーライン)でもない。現代的志向が場所に対して行ったこと————つまり場所を空間内の位置に固定すること————は、同時に人間に対して行ったことである。つまり、人間の生を時間上の瞬間のなかに包んでしまったのだ。しかし、こうした手続きを反転させてみたらどうだろう。生命を、扇状に広がる点線————ダーウィンの線図のように————ではなく、人間であろうとなかろうと、あらゆる生物が紡ぎだす無数の糸によって織りなされる多様体として想像してみたらろうだろう。というのも、あらゆる生物は、自分たちが巻き込まれているさまざまな関係の絡み合いを通じて自分たちの生き方を見出しているからである。そのとき、進化についての私たちの理解は決定的に変化するだろう。進化過程とその過程内に位置する私たち人間の歴史について、無限の視野が開け、その過程内に生息するものはすべて、それぞれの営みを通じて、自分が生きる条件とお互いが生きる条件とを築いているのだということが見えてくる。まったくのところ、ラインは世界を変える力をもっているのだ!」

「発話と歌が分離した経緯は、現代において記述と線描が分離し、技術と芸術という自明にみえるが実は現代特有の二項対立の両端に位置づけられた経緯とまったく同じなのだ。

 最後に私は、目的地に一直線に向かうということはいったい何を意味するのかと考えてみた。ふつう私たちは日常生活や日々の言葉のやりとりをそんな風にはしない。(・・・)線上的と言うべきラインが、いったいなぜ直線 straight とみなされるようになったのだろうか。現代社会において、直線性は、理性的思考や学術的議論ばかりでなく。定義正しさや道徳的公正さといった価値を端的に示すものとなっている。(・・・)それらの源泉は、ユークリッドの幾何学————文字通り「地球の測定」————ではなく、機織りの織機にぴんと張られた縦糸だったのだ。ここでもまた、糸は表面を構成する軌跡に変化した。その表面とは規則に覆われた表面、そこですべてのものが連結される表面である。しかし近代において確実だと思われたさまざまなものが疑われ、混乱の様相を呈するにつれて、かつて目的地に一直線に向かっていた道筋が断ち切られ、生きるためにはさまざまな亀裂を縫って進むべき道を見つけなければならなくなった。」

「事物を研究する人々は物質文化研究者と呼ばれる。ラインを研究する人々は・・・・・・何と呼ばれるのか分からないが、とにかく私はその一人になった。そして、その研究に従事するうちに、製図工、書家、筆記者、ストーリーテラー、散歩者、思索家、観察者————およそ生きる人間が属するありとあらゆる集団に加わることになった。そもそも人々は事物ではなくラインで構成される世界に住んでいるからである。結局のところ、そこに集められるすべての構成要素のライン————成長と運動の道筋————が結びあわされたものでないとしたら、モノ、そして人間とはいったい何だろうか? もともと「モノ」thingとは人々の集い、人々が問題を解決するために集う場所を意味していた。語源が示すように、あらゆるモノはラインが集まったものである。私がこの本で立証したいのは、人間とモノとの両方を研究することはそれらを成りたたせているラインを研究することに他ならない、ということなのだ。」

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