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成田正人「遊びのメタフィジックス~子どもは二度バケツに砂を入れる~」第一回 子どもの遊び

☆mediopos3302  2023.12.2

遊びとは何か

世界のすべてが
遊びだったらいい
いつもそう思っているけれど
じっさいはそうではない

とはいえ
遊びと見えていないだけで
ほんとうはすべてが
遊びだということなのかもしれないけれど
(それだったらほんとうにうれしいけれど)
そのことはひとまず置いておく

朝日出版社ウェブマガジン「あさひてらす」で
成田正人「遊びのメタフィジックス」の
連載がはじまっている
第一回は子どもの遊び(2023.11.29)である

「子どもは本当によく遊ぶ」

遊ぶ大人ももちろんいるけれど
ほとんどのばあい
子どものようには
いつでもどこでも遊べるわけではない

おそらく子どもは
「我を忘れて遊びに没頭する」
ことができるからだろうが
いうまでもなく
「あらゆることを遊べるわけではない」
「遊ばなければならないわけ」でもない

「子どもは、遊ばなくてもよいのに、遊んでいる」
ということは
その遊びは「(意図的な)行為」である
つまりそこには「それをする理由」がある

その理由はなんだろう
「エネルギーがあり余っているから」かもしれない
「何もしないこと」はむずかしいから
「することがない暇な時間への不安から、
気晴らしとして遊んでしまう」のかもしれない

あるいは
遊びには理由や原因がないのかもしれない

「遊びはしなくてもよい自由な行為である。
遊びを自由な行為と見るのなら、
遊びの原因を求めるべきではない」
といったほうがいいのかもしれないから

連載の第1回目は大まかに以上のような内容だが

子どもは身体的な成長や言葉の習得そのものに
いちにちじゅう関わっていいるため
それそのものを特定の理由をもたないで
遊びにする必要があるのかもしれない

そしてある程度基本的な成長が終わった段階で
それらの多くの「遊び」は忘れられている
言葉を換えていえば身体化されている

それはおそらく言語習得にせよ身体的なものの習得にせよ
それらが習得されてしまったときには
その習得に関わったプロセスそのものは
失われてしまう必要がある
(無意識的なところから働く必要がある)からである
失われなければ習得したことにはならない

人間が潜在的にもっているさまざまな能力の種は
それを成長させるプロセスを経て獲得されるが
そのプロセスの基本的なところについては
さまざまな「遊び」を通じて
はじめて獲得できるということかもしれない
だから子どもはいちにちじゅう遊びつづけられる

というのは遊びつづけないと
さまざまな能力を発現させるためのプロセスを
歩むことができない
逆にいえばそうした遊びが阻害されてしまうと
大人になってからそれを発現させることが困難となる

ある種の天才的な能力を有する人間は
その意味において成長してからでも
子どもが遊びながら発現させる能力の種を
失わないままでいるということなのかもしれない

その意味において
なにかを「発現」させようとするならば
大人になってからでも
ひたすら「遊び」つづけることが極めて重要となる
遊べなくなるということは
成長できなくなるということだからである

ゆえに
「遊びをせんとや生まれけむ」ということは
自由な人間であり続けるための
必要条件の表現だともいえるかもしれない

■成田正人「遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~」
      第一回 子どもの遊び(2023.11.29)
 (朝日出版社ウェブマガジン あさひてらす)

「世界は遊びにあふれている。むろん子どもはよく遊ぶし、よく遊ぶ大人もいる。だが、そもそも遊びとは何なのか。なぜ、ただ走り回ることも、カフェでのおしゃべりも、遊びなのか。きっと私たちは何であれ遊ぶことができる。食事や散歩も遊びになるし、ゲームやスポーツでも遊べる。勉強や仕事さえ遊べる人もいるだろう。とはいえ、これらの遊びは遊びでしかないわけではない。それらは遊ぶこと以外の理由があって遊ばれるからである。たとえば、あり余る元気が子どもを走らせるのかもしれない。また、大人は気晴らしにカフェに行くのかもしれない。だが、世界には遊びでしかない遊びがある。それは遊ぶこと自体のために遊ばれる。遊びを探究するなら、これを哲学すべきである。なぜなら、これは遊びでしかないからである。たしかに子どもは遊んでしかいないことがある。でも、遊びでしかない遊びが遊ばれるとき、そこには何が起こっているのだろうか。どうしたら遊びでしかない遊びを遊べるのだろうか。」

(「子どもの遊び」より)

「子どもは本当によく遊ぶ。いや、もちろんよく遊ぶ大人もいるだろうが、子どもはいつでもどこでも遊んでいる。でも、どうして子どもはそんなに遊べるのだろうか。」

「朝から晩まで子どもはずっと遊んでいる。だから、子どもと過ごす日は、こちらもずっと遊ぶように促される。だが、大人は――少なくとも私は――子どものようには遊べない。大人はつい遊びでないこともしてしまうからである。けれども、子どもはただひたすらに遊び続けることができる。子どもは一日中ずっと遊んでしかいないことがある。

 でも、どうしたらそんなによく遊べるのだろうか。大人だって――少なくとも私は――ときには子どものように遊んでみたい。しかし、子どものように遊ぶには、何をどうしたらよいのだろうか。子どもが遊んでいるとき、そこには何が起きているのだろうか。子どもの遊びとは何なのだろうか。」

(「遊びの理由」より)

「もしかしたら、いわゆる「遊戯」の境地に至るなら、あらゆることが遊べるのかもしれない。たとえば、「禅仏教の『遊戯三昧』では、自らの意志も自我の一部であると捉え、それを取り除いた先に『遊び』の境地を見る」、といわれる。なるほど、我を忘れて遊びに没頭する子どもは、いわば無我の境地にあって、まさに遊んでいるだけなのかもしれない。だが、無心で遊ぶ子どもは、無我の境地に達しているから、遊びに没頭できるのだろうか。おそらくそうではない。というのは、子どもは、いつでもどこでも遊ぶことはできるが、あらゆることを遊べるわけではないからである。」

「もちろん子どもは遊ばなければならないわけではない。つまり、子どもは、遊ぶこともできるが、遊ばないこともできる。にもかかわらず、子どもはよく遊ぶのである。もしかしたら、「遊戯」の境地においては、遊ばないことはできないのかもしれない。というのは、(それはそれで驚くべき境地ではあるのだが、)そこではあらゆることが遊ばれてしまうからである。だが、そもそも遊びとは自由なものではないだろうか。すなわち、遊びとは、することもできるが、しないこともできる、余計なものではないだろうか。遊び論の大家ホイジンガが言うように、「命令されてする遊び、そんなものはもう遊びでない」(『ホモ・ルーデンス』)。子どもは、遊ばなくてもよいのに、遊んでいるのである。

 それゆえに、子どもの遊びは(意図的な)行為である、といえる。つまり、それは、たんに手が上がるような行動でなく、あえて手を挙げるような行為である(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)。むろん遊びにはフィジカルな運動が伴われるだろう。なぜなら、遊ぶということは、何かをして遊ぶということだからである。(・・・)もちろん、どんなことをして遊ばなければならないということはない。というのは、どんなことであれ、どんなことでも遊びになりうるからである。とはいえ、遊ぶためには必ず何かをしなければならない。何もすることなしにただ遊ぶということはありえない。」

「しかし、遊びが(意図的な)行為であるのなら、「なぜ遊ぶ(ことができる)のか?」と問うことができる(アンスコム,G. E. M.『インテンション―実践知の考察―』)。すなわち、自由な(意図的な)行為は、しなくてもよいのだから、それをするときには、それをする理由●●があるはずである。けれども、「なぜ子どもは遊ぶ(ことができる)のか?」と問われたら、どのように答えるべきなのだろうか。何を子どもが遊べる理由とすべきなのだろうか。」

「たとえば、子どもは、エネルギーがあり余っているから、遊べるのかもしれない(西村清和『遊びの現象学』)。たしかに子どもは総じて大人よりも元気に見える。私自身も、公園で子どもと遊ぶと、子どもより先に疲れてしまうことがある。すると、子どもの遊びの原因はエネルギーの余剰である、といえるかもしれない。

 あるいは、遊びの原因は暇への不安であるかもしれない。すなわち、子ども(というよりも人間)は、することがない暇な時間への不安から、気晴らしとして遊んでしまうのである(西村清和『遊びの現象学』)。何もしないことはたしかに難しい。(・・・)

 とはいえ、行為の理由は行為の原因に尽きるのだろうか。たしかに、――遅刻の理由を聞かれ、遅刻の原因を答えるように、――理由と原因が交換可能な文脈では、原因をもって理由とすることはある(一ノ瀬正樹『原因と理由の迷宮:「なぜならば」の哲学』)。だが、私たちは、行為の理由を聞かれたときに、行為の目的●●を答えることもある。たとえば、「なぜ遅刻したのか?」と聞かれ、(きっと怒られるだろうが)「朝礼に出たくなかったから」と答えるなら、朝礼の欠席が遅刻の目的であったことになる。

 また、原因と結果の関係が必然的なものであるなら、遊びの原因は結果として必ず遊びを引き起こすことになる。しかし、これは遊びが自由な行為であることに反する。遊びは、しなければならないものでなく、しなくてもよいものである。すると、(遊びに伴うフィジカルな運動には原因があるだろうが、)遊びには原因はないこともある。あるいは、「なぜ遊べるのか?」の問いには、遊べる原因をもって答えるべきではないのかもしれない。

 もちろん、原因と結果の関係は必然的ではない、と考えることもできる(ヒューム『人間本性論』)。しかし、特定の原因が特定の結果を(特定の確率で)生み出すのでなければ、いかなる自然法則も(確率論的にさえ)成り立たない。(・・・)

 けれども、遊びに必然的な原因はあるだろうか。エネルギーがあり余る子どもは、必ず遊ぶのだろうか。遊んでいる大人は皆、暇な時間に不安を感じたのだろうか。そんなことはありえない。仮にそうであるとすれば、遊びは自由な行為でなくなる。(もちろんエネルギーの余剰も暇への不安も自由な行為ではありそうにない。)しかし、遊びはしなくてもよい自由な行為である。遊びを自由な行為と見るのなら、遊びの原因を求めるべきではない。」

□成田正人(なりた・まさと)
1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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