堀江 宗正『ポップ・スピリチュアリティ/メディア化された宗教性』
☆mediopos2928 2022.11.23
オカルト・ニューエイジ・精神世界
そうした言葉も
一九九五年のオウム真理教地下鉄サリン事件以降
新宗教という現象も含め
すでに古めかしくなり廃れてきているが
その後の二〇〇〇年代には
いわゆる「スピリチュアル・ブーム」が起こり
その後江原啓之がテレビ出演を中止した後からは
その「スピリチュアル」という言葉もまた
否定的なニュアンスを含むようになっている
そしてそのあいだもそしてその後にも
「特定の宗教組織に強く関与しない
個人によるスピリチュアリティの探求」が
「サブカルチャー」のなかで行われるようになっている
その主な舞台となっているのは
ライトノベルやマンガやアニメであり
そこでは「魔術」への関心度が高いというが
言うまでもなく「スピリチュアリティの探求」といっても
そのありようはさまざまである
そうしたサブカルチャーにおける
スピリチュアリティについては
アカデミックな宗教学ではあまりとりあげられないが
現代のとくに特定の宗教組織からははなれた
霊的なものへの関心のあり方を見ていくには
現在進行形のそうした現象を無視することはできない
西欧においてもキリスト教においては
公には否定されている「輪廻転生観」が
次第に受け入れられはじめたりもしているが
現代は唯物論的な科学主義が跋扈している反面
その影の側面でもあるスピリチュアリティへの視線が
裾野を広げてきているということができるだろう
本書のタイトルは
『ポップ・スピリチュアリティ』だが
その「ポップ」というのは
「人々の」
「人気がある」(理解しやるくて実践しやすい)
という意味合いをもっているとのこと
古代から現代まで
真の叡智と霊性を持ち得る人は稀有で
そのスピリチュアリティは
ポップなかたちで支持されるかたちをとりながら
多くの人たちへと裾野をひろげてきているのだが
それがかつてよりは「個人」によって
それなりのかたちで「探求」される時代となっている
今後そうした「宗教性」がどうなっていくのか
アカデミックな宗教学も過去を向いて
知らぬ顔をしているわけにはいかないだろう
■堀江 宗正『ポップ・スピリチュアリティ/メディア化された宗教性』
(岩波書店 2019/11)
(「はじめに」より)
「日本では、一九七〇年代から「宗教」団体の外で個人主義的な宗教文化資源の消費が始まる。それは、オカルト、精神世界、ニューエイジなどと呼ばれてきた。九五年のオウム真理教地下鉄サリン事件を経て、下火になるかと思いきや、二〇〇〇年代にはテレビ・書籍を中心に「スピリチュアル・ブーム」が起こる。そのピークはだいたい二〇〇七年あたりで、江原啓之がテレビ出演を中止した後に衰退したと思われている。しかし、実際にはテレビなどのマス・メディアを素通りしているだけである。出版やネット・ユーザーの動向を見る限り、東日本大震災以降にも関心の盛り上がりが見られる。インターネット、SNSなど、従来とは異なるメディアを通じて拡散と深化は続いている。それは、人々自身がメディアとなって情報を伝え合うという新しい状況に根差している。
一方、インターネットは激しい論争が繰り広げられる場所でもある。「スピリチュアル」という言葉は「虚偽・詐欺・軽信」というイメージで批判されるうようになり、当事者は「スピリチュアル」という言葉を使用するのを避けるようになっている。彼らのなかには、ブーム以前から霊的なるものに興味や関心を持っていたという人が多い。「そこに、たまたまスピリチュアルという言葉が与えられただけだ。しかし、ブームとなると必ずアンチが出てくる。アンチの言い分ももっともで、そのような批判を受けるべき指導者や信奉者は確かにいる。ある種の抑制機能をバッシングは果たしているとも言える。だから、その言葉を使うのはもうやめる」。このような一種のアンヴィヴァレンツ——好悪の入り交じった感情——が「スピリチュアル」という言葉には向けられている。その結果、教団宗教との関係はないが、広い意味で宗教と関わりを持つ現象を指すスローガンのような言葉が不在だというのが現在の状況である。」
「「ポップ・スピリチュアリティ」という言葉を書名に掲げたが、この場合の「ポップ」には、軽薄とか船舶などといった侮蔑的なニュアンスは込めていない。「ポップ」は英語の「ポピュラー」の省略形だが、この言葉は「人々」を指す「ピープル」の形容詞形に当たる。つまり、ポップ・スピリチュアリティとは、「人々のスピリチュアリティ」であり、宗教研究でなじみのある言葉を用いるなら「民衆のスピリチュアリティ」である・
また、ポピュラーには「人気がある」という意味もある。ポップ・スピリチュアリティと比較可能な言葉としては「ポップ・サイコロジー」「ポップ心理学」がある。日本語では「通俗心理学」と訳されることもあるが、今日では「通俗」という言葉にも侮蔑的な意味が込められるようになっているので、使用は避ける。「ポップ・サイコロジー」は、アカデミックな心理学と異なり、理解しやるくて実践しやすいものを指す。つまり、人々に受け入れられるかどうかというフィルターを通して、世間に流布するに至った心理学的知識を指す。
同じようなことがスピリチュアリティについても言える。」
(「第九章 サブカルチャーの魔術師たち」より)
「特定の宗教組織に強く関与しない個人によるスピリチュアリティの探求は、二〇〇七年をピークとするスピリチュアル・ブームのあとも続いている。ここで言うスピリチュアリティとは、「目に見えないけれど感じられるものへの信念とそれを心身の全体で感じ取ろうとする実践」を指す。スピリチュアル・ブームとは、江原啓之のテレビ出演などに伴い、スピリチュアルなものへの関心が高まり、それについての情報が多く流通するようになった現象を指す。江原がテレビ出演を控えるようになったあとも、〇九年以降には「パワースポット・ブーム」が訪れた。やがてパワースポット・ブームは、伊勢神宮や出雲大社の遷宮の年であった一三年にかけれ「神社ブーム」の体をなしていった。
これらの「ブーム」ほどマス・メディアで取り上げられないが見逃してはならないのは、サブカルチャーにおける「魔術」への関心の高まりである。(…)ここで言う「魔術」は英語で言えば「magic」であるが、それに対する訳語として宗教学で定着している「呪術」とは区別される。グーグルを使った検索(一四年一月二五日)では「呪術」が三四〇万件ヒットするのに対し、「魔術」は二六四〇万件で圧倒的に多い。このことからも魔術への関心の高さがうかがわれる。
「呪術」については、宗教学や文化人類学の定義にのっとった用法も見られるが、漢字から連想したのか「呪いの術」という意味での用法も見られる。それに対して「魔術」は、ルネサンス以降に体系化した西洋魔術と関連づけられ、ライトノベルやマンガやアニメの物語の構成要素として用いられる例が多い。」
「「宗教」と距離を取り、過去のファンタジーやフィクションをある種の「伝統=伝承」として発見=再構成し続け、語彙のデータベースを更新してゆくような、それ自体は社会的実体性を持たないサブカルチャーは、これまでの宗教研究であまり論じられていなかった。非実体的なサブカルチャーは宗教社会学の研究者からは軽視されるのかもしれないが、現代日本の「サブカル」の当事者——「魔術師」たち——にとっては、親近感の湧かない過去の宗教伝統やオウム事件以降に存在感を弱めた新宗教より、ずっと大きなリアリティを持つ。個人主義的とはいえ、なお特殊な信念と実践をリアルなものとして奉じているスピリチュアル・ブームの担い手とも、「サブカルチャーの魔術師」たちは距離を取っている。魔的なものへの関わりは、あくまで「リアル」な世界に持ち出してはいけないのであり(このタブーを冒すと「中二病」として嘲笑される)、虚構、趣味だと装わねばならない。ところが。この「虚構」と自称されるデータベース的な非実体的サブカルチャーの方が、彼らにとっては、現実の宗教史に登場する「宗教」よりもはるかに大きな存在感を持っているのである。
このサブカルチャーが本当に虚構なのか、逆に宗教は本当にリアルなのか。これらは、理論的に突き詰めると決してシンプルには答えられない問いである。近代におけるメルヒェンやファンタジーは、宗教学をはじめとする人文知なしには成立し得なかった。グリム兄弟は言語学者、トールキンは文献学者、ルイスは神学者・宗教学者であり、近年の日本でも『学校の怪談』シリーズは民俗学者である常光徹の手による。今日の魔術・宗教的語彙を操るサブカルチャーは、宗教学者をはじめとする人文系の研究者の神話や伝承の研究に端を発している。巨視的に見れば、このサブカルチャーは、人類の発生以来、伝承や伝播を通して受け継がれてきた様々な物語の延長線上にある。文字化される以前の物語の継承は決して正確なものではなく。変形や再構成や類話の蓄積など、東が「データベース消費」と呼んだものと同じ流動性を備えている。むしろ、「文字の文化」の影響を受けた教典宗教、いわゆる近代的な意味での固定的な教義・組織・メンバーシップを持った「宗教」の方が、民間伝承からサブカルチャーへと連なる「声の文化」の系譜の上では異質に見える。「宗教」も成立当初は口頭伝承に依拠していたが、ある時期から、物語の内容を歴史的実在として固定化し、他の物語に対する排他的真理を主張するものに変化する。現代日本のサブカルチャーの当事者から見れば、そうした「宗教」、とくに今日のいわゆる「原理主義」に見られるような「伝統の発明」こそ虚構だと思われるだろう。」
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