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デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』

☆mediopos3256  2023.10.17

本書『万物の黎明』はその副題に
「人類史を根本からくつがえす」とあるように
考古学や人類学などの研究成果に基づき
これまで刷り込まれてきた人類史の観方を
見直すための視点を提供するものだ

最新の研究成果とまでいかなくても
あらためて人類の歴史だとされてきたものに
素朴な疑問を投げかけてみるだけで
過去は素朴かつ本能的で
そこから人類は進歩してきた
というような考え方は
そのまま受け取ることができないことがわかる

つまり現在わずかながら残されている
多くは宗教ないしは秘儀による叡智は
はるかな過去に淵源するものが多く
むしろ人類はそれらを失った後に
歴史を紡ぎ始めたという見方もできるからだ

本書の基本的な視点からすれば
これまでの人類の歴史は
ルソーの『人間不平等起源論』か
あるいはホッブズの『リヴァイアサン』か
によって描かれてきた視点が
その根底に置かれてきていた

ルソーの視点は
かつて無垢な状態で暮らしていた人間が
原罪によってエデンの園を追われた物語のように
「狩猟採集民だった頃、人類は
大人になっても子どものように無邪気な心をもち、
小さな集団で生活してい」たが
「「農業革命」が起き、都市が出現」することで
その「幸福なありさまに終止符が打たれた」というもの

またはホッブズの視点は
「人間社会は人間の卑しい本能
を集団で抑圧することで成り立っている」とし
「ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、
つねに人間社会の基礎だったのだ」というもの

しかしその二つの典型的な視点は
一八世紀にアメリカ大陸の先住民の
観察者や知識人たちによる
ヨーロッパ社会への強力な批判に対する
バックラッシュとして初めて登場したものだという

本書の視点でいえば
ほんらいの人類の歴史はそうした歴史とは異なり
遊び心と希望に満ち
可能性にあふれたものだった

つまり「人類はさまざまな可能性を試しては放棄し、
試しては採用する、イヤになったらとんずらしたり、
別のシステムをつくったりする」
人類史はそうした「遊戯」である

ホモ・サピエンスはすくなくとも
二〇万年前から存在しているというが
その間さまざまな社会的実験をくりかえし
「政治形態のカーニヴァル・パレード」を繰り広げてきた

これまで考えられてきたように
農耕は私有財産を誕生させたり
それによって不平等を生んだわけではなく
「最初の農耕共同体の多くは、
身分やヒエラルキーから相対的に解放されていた」という

「世界最古の都市の多くが、
確固たる階級的区分を有していたどころか、
強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた」
そこには「権威主義的な統治者や野心的な戦士=政治家、
あるいはボス然とした役人すらも必要としていなかった」

また一九七〇年代はじめに発見され
四〇〇〇年紀の前半から中盤にかけての
巨大「都市」とされているものも
それは「都市」とは呼ばれず
「集権的統治の痕跡も、ヒエラルキーの痕跡もな」く
「その遺跡の示す構造は、そうしたヒエラルキーの
生成の阻止を意図した空間的構成を示している」

こうした視点から見ていくと
人類はこれまでこの地球上で
さまざまな試みを「遊戯」しながらやってきて
それらをいちど失うことで
現在「歴史」とされているものをつくりだし
あらたな「遊戯」を始めているようにも見えてくる

地球はそしてそこで生きる人類は
霊的な視点でいえば
「制限」による経験をテーマにしているのだという

いまだ凝りもせずその「制限」を
さまざまなかたちで生み出しながら
遊びつづけているようだが
その「制限」が生み出すさまざまな争いをやめて
そろそろ変化していくのがいいのではないか

その意味でも『万物の黎明』のような視点は
その貴重な一歩となり得るのではないか

■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)

(「第1章 人類の幼年期と訣別する」より)

「人類史のほとんどは、手の施しようもなく、闇に埋もれてしまっている。なるほど、われらがホモ・サピエンスは、すくなくとも二〇万年前から存在している。だが、いったいその二〇万年のあいだになにが起きていたのか、わたしたちにわかっているのは、ごくごくわずかの期間にすぎないのだ。」

「もし人類史にまつわる大きな問いが浮上してくるとしたら、ふつう、人がこう自問をするようなときである。どうして世界はこうも混乱しているのか、どうして人間はかくも傷つけ合うのか、どうして戦争や貪欲、搾取があるのか、どうして他者の痛みに対する徹底した無関心がはびこるのか。わたしたちは太古の昔からそうだったのか、それともどこかの時点でなにかひどくまちがってしまったのか?

 しかし、これは基本的には神学論争である。そこで問われているのは、人間は生まれながらにして善なのか悪なのか、なのだから。しかし、よく考えてみれば、こんな問いに意味などほとんどないことがわかる。」

「にもかかわらず、人が先史時代から教訓を得ようとするとき、ほとんど例外なく、この種の問いに舞い戻ってくるのだ。なかでもなじみ深いのは、かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまったという、キリスト教による解答である。人間は、神のごとき存在にならんと欲し、そのため罰を受けた。いまや堕落の状態にありながら、将来の救済を待ち望みながら生きている、といった具合だ。ジャン=ジャック・ルソーは、一七五四年に『人間不平等起源論』という著作を執筆したが、まさにこの著作のアップデート版の数々こそ、いまこのストーリーを普及させている主役である。むかしむかし、わたしたちが狩猟採集民だった頃、人類は大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです。この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を種類の作製に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどです、と。

「問題なのは、それにかわるものを探してみつかる唯一のものが、もっとひどいということだ。すなわち、トマス・ホッブズThomas Hobbesである。

 一六五一年に公刊されたホッブズの『リヴァイアサン』は、多くの意味で、近代政治理論の基礎となった書物である。人間が利己的生物である以上、初源的自然状態での生活はけっして無垢なものではなく、「孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」もの————基本的には、万人が万人と争い合う戦争状態————であるはずだ。ホッブス主義者なら、こう論じるだろう。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、それはおよそ、まさにルソーが不満を抱いていた抑圧的機構————すなわち政府、裁判所、官僚機構、警察————のおかげであった、と。

(・・・)

 この考え方によれば、人間社会は人間の卑しい本能を集団で抑圧することで成り立っているのであり、多数の人間がおなじ場所で生活しているようなとき、そんな抑圧がいっそう必要になる。それゆえ、現代のホッブズ主義者は、以下のように主張することになろう。なるほど、人間は進化の歴史のほとんどを小集団というかたちで生存してきた。そしてその小集団は、主に子孫を残すという関心事(・・・)を共有するおかげで、いっしょにやっていくことができた。ところが、このような集団も、けっして平等を土台としていたわけではない。ここにはつねに、「ボス男性」であるリーダーが存在していた。ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、つねに人間社会の基礎だったのだ。とはいえ、集団として短期的な本能よりも長期的な利益を優先するほうがじぶんたちの有利になる、もっと正確にいえば、最悪の衝動を経済のような社会に有用な領域に限定し、それ以外の場所では禁じることを強制する法をつくることが、じぶんたちの有利になると学んできたのだ、云々。」

「本書で乗り越えたいのは、この〔ルソーかホッブスかの〕二者択一なのだ。わたしたちの反論は、大きく三つのカテゴリーに分類することができる。これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、
  一、端的に真実ではない。
  二、不吉なる政治的含意をもっている。
  三、過去を必用以上に退屈なものにしている。
 本書の試みは、これらとは違い、もっと希望があり、もっとわくわくするようなストーリーを語りはじめることにある。過去数十年の研究が教えてくれることを、もっとうまく説明するようなストーリーである。」

「いま浮上しはじめている世界像がこれまでのものとどう異なっているか、ちょっとだけ紹介してみよう。農耕開始以前の人類社会が平等主義的な小集団(バンド)にとどまっていなかったことは、いまやあきらかである。それどころか、農耕開始以前の狩猟採集民の世界は、大胆な社会的実験の世界でもあり、進化論のような貧しい抽象の提示するイメージより、政治形態のカーニヴァル・パレードこそふさわしいといった具合である。かたや農耕も、それが私有財産の誕生のきっかけをつくったわけでも、不平等への不可逆的なステップを画したわけでもなかった。実際、最初の農耕共同体の多くは、身分やヒエラルキーから相対的に解放されていたのだ。また、世界最古の都市の多くが、確固たる階級的区分を有していたどころか、強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた。権威主義的な統治者や野心的な戦士=政治家、あるいはボス然とした役人すらも必要としていなかったのだ。

 このような論点にかかわる情報が、世界のあらゆる場所から寄せられている。その結果阿、世界中の研究者が民族誌や歴史資料をあたらしい見地から検証するようになった。まったく異なる世界をつくりだすことのできる断片がいま、積み重なっているのだ。ところが、いまのところ一部の特権的な専門家以外は秘匿されたままである。(・・・)この本の目的は、パズルのピースを組み立てはじめることにある。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(1)構成について」より)

「本書はある意味では人類史を「遊戯(プレイ)」という視点から再構成する試みでもある。人類はさまざまな可能性を試しては放棄し、試しては採用する、イヤになったらとんずらしたり、別のシステムをつくったりする、そうした「遊戯」である。」

「本書の全体を駆動するのは、「先住民による批判」に対して動揺したヨーロッパの、長年にわたる反動が積み上げてきた知、もはやその重量によって桎梏となりはてたピラミッドの解体の意志である。その反動は「平等」や「進化論」、あるいは「段階論」といった観念のような証拠をあちこちに残している。わたしたちは、メソポタミア、エジプト、アフリカ、中国、日本、オセアニア、ポリネシア、そしてアメリカスを経由する壮大な時間旅行のあとで、ようやく、その謎の解明に立ち会うことになる。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第3章 氷河期を解凍する」より)

「第3章は、本書全体の基盤をなしているといっても過言ではないが、その核心を『ワイアード』誌でヴァージニア・ヘファーナンがみごとにまとめている。

 「ウェングロウとグレーバーはさらに、先住民の社会は原始的な方法で組織化されていたにすぎないという仮説にも疑問をなげかける。実際、その社会は複雑かつ変幻自在だった。シャイアン族とラコタ族は警察部隊を組織していたが、その唯一の任務は人々をバッファロー狩りに参加させることであり。オフシーズンに入ると即座に部隊を解散していた。いっぽう、現在の魅しシップ州に暮らしていたナチェズ族は、全知全能の独裁者を敬うふりをしつつ、実は君主は出不精だから追いかけてくることはないと知ったうえで自由に行動していた。さらにウェングロウとグレーバーは、巨大な遺跡や墓は階級制度の証拠であるという通説にも見直しをせます。とりわけ刺戟的だったのは、旧石器時代の墓の大半には有力者ではなく、低身長症、巨人症、脊椎異常など身体的以上のある人々が埋葬されていたというくだりだ。こうした社会では、上流階級の者よりも異端者が崇拝されていたようなのだ」。」

「人間は当初よりただひたすらに人間だった————かくして、本書の核心をなす問いが定式化される。人類の「社会的不平等の起原はなにか」ではなく、人類は「どのようにして停滞したのか」という問い、平等の喪失ではなく、自由の喪失の問いである。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第4章 自由民、諸文化の起原、そして私的所有の出現」より)

「私的所有————私的所有についても、本書では随所で、とりわけヨーロッパの所有の観念との比較で論じられるが、ここでは、所有を知らない(ルソーでいえば農耕の発明とともに私的所有も生まれる)といった単純素朴な狩猟採集民のイメージを覆すために、未開社会の複雑な私的所有のありようが分析される。それを通して、「私的所有」が人類の歴史とおなじくらい古いものであると推測されるが、それが(おそらく非資本主義的近代の)人類社会の大半では「儀礼の檻」によって社会のごく一部の領域に封じられ、権力とのむすびつきを阻止されている。ここにも、奴隷所有と密着していた古代ローマに由来するヨーロッパにおける所有観念を、人類史において異例中の異例のものとし(そしてきわめて暴力的なもの)として相対化をはかる、本書をつらぬく(あるいはグレーバーの著作をつらぬく)問題設定をみてとることができる。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第6章 アドニスの庭」より)

「「アドニスの庭」を導きの糸に設定したのは、読者のイメージに訴えかけるにあたって、きわめて巧みである。そこいは、シリアスではない農耕、祝祭的雰囲気(遊戯性)、そしてジェンダーといった、本章のもくろむ「農耕革命」のイメージの顛覆の諸要素がみごとに集約されている。

 本章は、野生穀物のはじまるおよそ一万年前から、作物の栽培化の生物学的過程の完了までの三〇〇〇年のギャップを対象にしている。本来、さして手をかけなくても、この過程は長くても数世代で完了するはずだ(実験考古学の成果による)。ところが、人類はここではるかに長い時間をかけている。「スローなコムギ」である。ここからハラリのいうような「農業革命」、農耕の発明によって人間は小麦の奴隷になった、というストーリーがどれほど多くのものを見落とし、複雑で興味深いこときわまりない初期の人類と農耕とのかかわりを常識的ストーリーに落とし込んでいるのかが浮き彫りにされる。つまり、この三〇〇〇年もの長期の時間は、人間の未熟ゆえの進歩の遅さではない。そのギャップは、人間がコムギの奴隷となることを拒絶しながら、農耕とつきあい、実験的に戯れ、イノヴェーションを積み重ねていった、長期の時間を示している。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第8章 想像の都市第8章 想像の都市」より)

「この章のもくろみは、ウクライナ、メソポタミア、インダス、中国のそれぞれの初期都市を検討することで、都市形成をめぐるこれまでの常識を一新させることになる。とりわけ、重要なポイントは「スケール」である。」

「一九七〇年代はじめに発見され、現地の考古学者たちによって調査が開始された。それは、前四〇〇〇年紀の前半から中盤にかけてのもので、メソポタミアの最古とされる都市よりも以前に存在したこと、そこに八世紀あまり人が居住していたことが判明する。このような巨大「都市」であるにもかかわらず、都市とは呼ばれていない。なぜなら。そこには一般的に都市の本質とされる特徴とは裏腹に、集権的統治の痕跡も、ヒエラルキーの痕跡もなかったのだから。それどころか、その遺跡の示す構造は、そうしたヒエラルキーの生成の阻止を意図した空間的構成を示している。(・・・)

 かれらはこのような水平的都市のありようを、さらにウルクなどのメソポタミアの初期都市、インダス、そして中国にみいだしていく。」

(酒井隆史「いまこそ人類史の流れを変えるとき 『万物の黎明』訳者あとがきにかえて」〜「6 ラフな手引き(2)各章について/第10章 なぜ国家は起原をもたないのか」より)

「ここでのもくろみは、「国家」という概念を、ほとんどお払い箱にしようというものなのだからこれもまた野心的である。」

「かれらは国家に変えて、あるいは国家を超えて、社会的権力の基盤となる三つの原理に分解してみるよう提起する。暴力、情報(知)、カリスマである。そしてそれらは、具体的には、主権、行政管理、競合的政治フィールドといった形態をとる。近代国家にはこの三つが具わっている。主権、行政装置、そして政治家たちが競合し合う選挙制度。しかし、それ自体、人類史においてきわめて独特であり、しかもその三つの要素の編成の仕方も独特である。それゆえ、近代国家を国家や社会のひな形にするわけにはいかないのである。」

「メソアメリカ、南アメリカ、ナチェズ即、あるいはエジプトなどの事例でこの考えを実験的に使ってみている。異質な複数の社会組織をこの三つの要素から分析することで浮き彫りになるのは、わたしたちは「国家」の典型とみなしている近代的国民国家の異例性である。それは三つの要素のすべてが合流していること、そしてその合流が独特の形態をとっていること、その点において、人類史においてはきわだって異例なのである。いっぽう、ほとんどの社会組織は、これらの三つの要素をすべて、かつ近代的国民国家のような編成で作動させているわけではない。それらの多くが、これらの三つの要素をひとつ、ないし複数を独特のかたちで編成しているのである。

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