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髙橋 憲人『環境が芸術になるとき/肌理の芸術論』

☆mediopos2837  2022.8.24

物心ついたころから
「完成」されているということや
「作品」をつくるということについて
違和感をもっていた

「完成」されたもの
というのはどういうものだろう
はたしてそんなものがあるのだろうか

それと同じで
「作品」と称するとき
それは「完成」されたものなのだろうかと

もちろん小さなころは
その違和感を表現するすべはなかったけれど
たしかにそれらは
ひとつの制度化された観念にすぎない

すべては変化の途上のプロセスである
もちろん作り手がいるとして
その作り手の意図が無意味だというのではない
そこにはそれなりの意図があることもあるだろうが
作り手とその意図だけがそこに関与しているわけではない

作り手の意図にしても
そこで働いているのは作り手の意図だけではなく
作り手に作らせているさまざまな要因がある
そしてなにかを作るというとき
そこには素材が不可欠な要素として存在している

作られたものの多くは
作者なるものの意図の具現化である
そういうふうにとらえることもでき
それが「完成」されたものとして
「作品」と称されもするのだろうが

ロラン・バルトが
情報を生み出そうとするメッセージ
理解作用を生み出そうとする記号
そして身ぶり
というふうに芸術を三つのレヴェルから分析しているように
情報や意味作用の範疇の外側にある
三つ目の「身ぶり」のようなレヴェルがそこには存在する

本書『環境が芸術になるとき/肌理の芸術論』は
「環境、人間の知覚、芸術創造に通底する
「肌理/テクスチャ」へのアプローチをとおして、
環境のなかでモノゴトを鋭敏に「知覚する」ことと、
それらを素材に新たなモノゴトを「創造する」こととが
つねに往還をつづけるエコロジカルなプロセスを考察する」
ということが主題となっているが

そのためにここでは
「織地性(テクスティリティ)」がクローズアップされ
自然/人工
生活/芸術
制作者/享受者
といった様々な二分法を乗り越える視野が開かれる

そこにあるものは
「完成」されたものでも
作者だけの「作品」でもなく
生成しつつあるプロセスとしての
二分法を超えた創造にほかならない

■髙橋 憲人『環境が芸術になるとき/肌理の芸術論』
 (春秋社 2022/2)

(「第Ⅰ部 第3章 知覚のエコロジー 7 分裂=融合」より)

「デカルト的遠近法主義から導かれる〈内的主観〉は、自己とともにあるが、宇宙からは分離している。それとは逆に、メルロ=ポンティやインゴルドの知覚理論かた導き出される知覚者は、宇宙とともにあるが、自己からは分離している。そこには、物理的な外的物資や心理的な内的自己の二分法が存在する余地はなく、大気=雰囲気のなかで、ヒトとモノは、宇宙的=情動的なものとして融合している。」

(「第Ⅱ部 第4章 芸術と織地性 1 反−質料形相論」より)

「世界は、所与の対象物によって組み立てられてはおらず、常に生成変化のプロセスにある。インゴルドのことばを借りれば、それは、気象世界(weather world)である。アメリカの作曲家ジョン・ケージも同様に、世界は生成変化のプロセスであると主張する。」

(「第Ⅱ部 第4章 芸術と織地性 2 素材に従うこと」より)

「インゴルドは言う。

作品はそれを観る者を芸術家の旅の道連れとするように招く、観る者は、作品が世界に現れるさまを、作品とともに見るのであり、作品という最終形をもたらすことになった元来の意図をその背後に読み解くのではない。

芸術作品には後から様々な意味が付加されることもあるだろう。そのような、意味付けの誘惑に囚われて、人々は創造性を「逆方向」へ読み取ろうとする。たとえば、ある社会的背景が、ある心理的動機づけがその作品を創造させたのであり、今目の前にある作品はそれらの帰結であると。しかし「開かれた状態」にある芸術は、その意味付けの鎖を断ち切り、再び世界のなかへと展開していく強度を持っている。」

(「第Ⅱ部 第4章 芸術と織地性 4 身ぶりの痕跡と声のざらつき」より)

「インゴルドが主張した「作品が世界に現れるさまを、作品とともに見る」という観る者の態度を的確に描いているのが、ロラン・バルトの芸術批評である。彼は、芸術についてのエッセイを数多く書いているが、その多くに通底するのが、自身が愛好する絵や音楽を身ぶり(gesture)として扱う態度である。サイ・トゥオンブリについてのエッセイのなかで、彼のドローイングが、よく書を引き合いに論じられることに言及したバルトは、トゥオンブリが書かた取り入れたのは書の「生産物」つまり外形ではなく、その「身ぶり」であると指摘する。
(…)
 バルトは、芸術を三つのレヴェルから分析する。一つ目は、情報を生み出そうとするメッセージ、二つ目は、理解作用を生み出そうとする記号、そして、三つ目が身ぶりである。身ぶりは、他の二つと異なり。必ずしも何かを生み出そうとはしない。しかし、他の二つが生み出すことのないすべて、つまり情報や理解作用の範疇から漏れ落ちる残滓を生み出すことができる。(…)身ぶりは、それそのものとして以外に振る舞うことはなく、それを知覚するヒトを意味作用の外側へと連れだす。

(…)

トゥオンブリのドローイングは、多くの絵画とは異なり、それを生産物として眺め、その背後に作者の意図を推論すること、つまり「創造性を『逆方向に』読み解くこと」を全く要求しない。画材や紙と彼の身体との照応のプロセスを痕跡として残したドローイングのラインは、輪郭を閉じたかたちに帰結することなく、「開かれた状態」で観る者を待ち構えている。それは、大気の動き(風化)がもたらすラインのように、細かな雨のように降り、風のなかの草のように蠢く。そして、紙の表面に進展途中のままで留まるラインを辿ることで、観る者の身体は、トゥオンブリの身体と照応することもできる。開かれたラインは、未だ描かれていないラインを誘発していくのである。」

(「第Ⅱ部 第6章 サウンドスケープ 2 内側からのサウンドスケープ・デザイン」より)

「シェーファーは、「主要な仕事をするのは自然で、作曲家は秘書なのである」と主張する。サウンドスケープつまり「鳴り響く森羅万象」は、作曲家の身体を通り抜けることで、新たな響きへと自身を変奏する。作曲家の武満徹も、シェーファーと同じように作曲という自らの仕事を捉えている。武満は言う。

作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろすでに世界に偏在する歌や、声にならない囁きを聴き出す行為なのではないかと考えている……私は音をつかって作曲するのではない。私は音と協同するのだ。だが、私がときに無力感にとらえられるのは、私がまだ協同者の言葉をうまく話せないからだ。」

(「第Ⅲ部 第7章 エコロジカルな地域アートを目指して 4 環境が芸術になるとき」より)

「織地性(テクスティリティ)に焦点を合わせることは、従来の様々な二分法を乗り越える可能性を有している。一つ目は、自然/人工の二分法である。世界は大気や大地の流動によって常に自らを織り上げ続けており、その痕跡として多様な肌理やざらつきを顕している。ヒトは、その肌理やざらつきを発見し、それに従うことで自らの生活を営み、さらにその痕跡が新たな肌理として世界のなかに織り込まれていく。

二つ目は、生活/芸術の二分法である。芸術を含めたあらゆるつくることが、生成変化する世界のなかでの素材とつくり手との照応と捉えられる。そこでは、地形や地面の感触を見極め、前進していく徒歩旅行者と、紙や絵具の感触を見極め、筆を前進させる画家の技能は同じものと考えられる。これらの技能とは総じて、生成しつつあるものに従う力である。

そして三つ目が、制作者/享受者の二分法である。二つ目の二分法が乗り越えられた以上、芸術家がつくったモノゴトは、最終成果物として凝固することなく、他のあらゆるモノゴトと同じ地平で存在する。芸術作品を見ることは、芸術家と素材との照応の痕跡を身体的に辿ることである。それが如何に創造的なプロセスであるのかは、トゥオンブリの筆跡を辿るバルトのエッセイからも明らかである。また、環境のなかを注意深く探求し、見つけた線を辿る鈴木のドローイング、そして学生たちのエクササイズにおいては、知覚と創造は相即を成しており、見ること(インプット)とつくること(アウトプット)の二分法は、はじめから否定されている。

環境が芸術になる可能性は、あらゆる日常のなかに常に潜在している。日常の織地性を能動的に探求し、それに従うとき、環境のなかでの様々なモノゴトとの照応が芸術として自覚されるようになるだろう。」

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